第十話 「命恋うるもの」(5)
「だから、満賢も申していたであろう? 半遮羅、おまえは絶対にわたしに勝てぬと」
手に入れた勝利に有頂天になる様子もなく、ただ穏やかに宝賢は微笑んだ。足をもがれた虫を愛しむような、そんな残酷さを目に宿して。
刀身が引き抜かれた後、半遮羅の喉からは噴水のように血が沸きあがった。膝立ちのまま息をつぐこともできず、焦点の合わぬ白い瞳で虚空を見つめている。
宝賢は半遮羅の髪をぐいとつかんで、顔を仰向けさせた。
「意識を失うたか。もう少し苦しんでもらわぬと、甲斐がないではないか」
そして引いた刀を、ふたたび半遮羅のみぞおちに突き刺した。
「この本物の天叢雲、おまえの身体を鞘として地獄に持って行かせてやろう。俺にはもう必要ないゆえな」
柄から手を離し、一歩下がって物見客さながらに腕を組む。
だが、その口元に浮かんでいた余裕の笑みは、時間が経つにつれ消えていった。
「なぜ、滅びぬ?」
幽霊を見るかのごとく訝しげに、宝賢は金色の目をこらした。
「急所を貫いたのに。……いつのまに、おまえも俺と同じく、不死のものとされたのか」
神社の境内を、一陣の風が吹き過ぎた。それはまことに荒々しい気に満ちた、肌をけばだたせるような風だった。
半遮羅の右の手が動いた。
胸に刺さっていた刀を逆手に握り、一気に引き抜く。
そして、地に着いた片膝と手のひらを支点として、強烈な回し蹴りを宝賢の脚に浴びせた。敵の体勢の崩れたところに、風車のように弧を描いてもう一撃、かかとで両膝を蹴りあげる。
「ぐっ……!」
不意を狙いすました急襲が、またたくまに勝敗をくつがえした。膝を砕かれた宝賢が、反対に今度は地面に這いつくばる。
「……実は、剣よりも体術のほうが得意でな」
半遮羅はゆっくりと立ち上がり、逆手に持っていた敵の剣をちらりと見下ろすと、惜しげもなく地面に投げ捨てた。
そして、無残にもまっぷたつになって横たわる、自らの刀の切先を拾い上げる。
「たとえ真の天叢雲でなくとも、俺はこちらのほうがいい」
折れた刃先を、ギリギリと力を込めて握る。たちまち半遮羅の拳から鮮血が、糸となって滴り落ちた。敵の肩をもう一方の手で、ちぎれるほどに鷲づかみにし、
「オン・マカヤシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク・ハラベイサヤ・ウン」
一語一語、気をこめて金剛夜叉明王の真言を唱えた。
――無駄なことを。
宝賢は顔を伏せながらも、ギラギラとにらみあげた目だけで、そう言った。そんなもので俺を調伏することはできぬ。俺の力はもはや明王など遥かに越えている。
半遮羅はしばし窮した。
宝賢を倒すことのできる存在が、まだ天にひとりだけおわす。夜叉八将が、最初に帰命を誓った主。だが、そのお方は半遮羅が公然と裏切った当の相手でもあった。
加護が得られなければ、逆に呪文は自らを滅ぼす諸刃の剣ともなりうる。
境内に吹き抜ける荒々しい風は、なお木々を揺らし、夜明けの清明な空気を運んできた。
自らの手を断ち切らんとばかりに、半遮羅は天叢雲の折れた刃を強く、強く握りしめた。
「毘沙門天」
天を仰いで、叫んだ。
「俺の声が須彌山の牢まで届くか。もし、貴様の希いが人間を滅ぼすことでないのなら……、今だけでいい、俺に力を貸せ!」
銀のきらめきをふりかざし、狙いあやまたず宝賢の眉間に突き刺す。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン……オン・マイシラマナヤ・ソワカ!」
叛いてより三百年ぶりに唱える、毘沙門天の真言であった。
曙天を突き破るような、宝賢の絶叫が響きわたった。
「最後の最後に……、俺は見捨てられたか」
宝賢の顔に浮かんだのは、見ようによっては満足とも見える笑みだった。人の滅びを願った者。彼の目にはおのれさえもが、木の実から払い落とさねばならない害虫だったのか。
「あの方も、まだ小さいな……。ふふふ」
魂を凍えさせる笑い声だけを地上に残し、宝賢は異なる次元に吸い込まれていった。
静寂が訪れたとき、詩乃はそっと目を上げた。
半遮羅が刀で貫かれたとき、どうしても見ていることができなくなり、地面に突っ伏していたのだ。
久下、ついで龍二の、ことばにならない獣のような歓声を聞き、彼女は戦いが半遮羅の勝利に終わったことを知った。
「統馬くん……」
喜びも安堵も実感するには程遠く、頭の中はただ空っぽ。虚脱状態で、すっかり腰から力が抜けてしまっている。駆け出したふたりの男たちの後を追って、ふらふらと詩乃は歩き始めた。
しかし、先立った仲間は境内の途中で突然、足を止めた。
彼らの背後から詩乃が見たものは、折れた刀の柄と鞘をゆっくりと拾い上げる夜叉の姿だった。
血に汚れていた髪も身体も、黒かったはずの翼も真っ白に輝き、眩むほどの光を放っている。
立ち尽くしている人間たちに気づき、彼は白い双眸を上げた。
三人は身体をこわばらせた。畏怖のために、みぞおちが潰されそうだ。
目の前にいるのは、ただの夜叉ではない。毘沙門天のすべての力を受け継ぐ者。
彼の手にあるものに視線を落としたとき、詩乃がようやく水を浴びせられた心地で我に返った。
「ナギちゃん……」
数歩近寄り、いたいたしくも真っ二つに折れた刀身に、震えながら呼びかける。
「ナギちゃん」
「天叢雲と草薙はふたつでひとつの剣。天叢雲が折れた今、草薙が答えることはない」
半遮羅の静かな答えに、詩乃の目から堰を切ったように、涙がこぼれだす。
「そんな……」
統馬を取り戻した安堵と、草薙を喪った悲しみがごっちゃになって、どうすればよいかわからない。詩乃はただ手で顔を覆い、声を立てずに泣き続けた。
「なぜ……人間に戻らないのです」
久下のかすれた声が、耳元に届いた。
「あなたの身体に種字を埋め込んだ夜叉の将は、これで七体すべて倒した。それなのに、なぜ約束のとおりに人の姿に戻らない?」
「慈恵。おまえはやはり粗忽者だ」
半遮羅は、親が子の失敗を愉快がっているような口調で答えた。
「吉祥天のことばを、取り違えて記憶するからだ。本当はこう聞いたのだろう、『夜叉八将すべてを倒したとき、統馬は人間に戻れる』、と」
「そうです、そうおっしゃったから、僕は……」
そのことばの僅かな違いの意味するものに気づいた久下の顔から、みるみる血の気がひいた。
「そんな……、いいえ、違う。違います! 僕は確かに聞いた」
半狂乱になった彼は、なおも言い募った。
「吉祥天女さまは、そのときこうおっしゃったのです。『統馬の身体からすべての種字が取り除かれたとき、その身体は呪いから解き放たれ、人間に戻れる』と。そうです。絶対に、そうおっしゃった!」
答えの代わりに、半遮羅は握っていた右の拳を開いて、手のひらを見せた。
折れた刃をつかんだ傷痕はもう薄れ、そこにははっきりと青黒く、ひとつの梵字が浮き出ていた。それは、かつて周囲の者には誰も見えず、ただ刀鍔であった草薙だけが見知っていただろう印だった。
「この身体には、まだ種字が残っている。これは俺の――半遮羅の種字だ」
「ああ……」
久下は力尽きたように、地面に両膝をついた。
代わりに龍二が、噛みしめた歯の隙間から問いかけた。
「それじゃあ、あんたを人間に戻すためには……」
「半遮羅を調伏すること。そののち、矢上統馬は人間のかたちに戻れよう。だが、それが十年後なのか百年後なのかは、俺にもわからぬ」
「吉祥天女は、俺たちをだましたのか!」
「だますつもりはなかったろうが、不老不死の天界の神仏にとって、時間の流れは人間とはおよそ異なるものだ」
哀しげな眼差しを落とすと、半遮羅は久下に言った。
「おまえの勘違いをいいことに、俺もわざと黙っていた。そうせぬと、おまえはずっと、辛い思いを抱えてしまったろうからな。だが、すでに時は来た。
……慈恵。俺を調伏してくれ」
「そんな! わたしはあなたを調伏するために、今まで二百年の間、転生し続けてきたんじゃない」
久下は何度も頭を振り、子どものようにわめいた。
「俺は、夜叉八将の最後のひとり。人の世を救うためには、どうしても調伏しなければならない敵だ」
「そんなはずはない。あなたなら、絶対に人間を滅ぼしたりはしない。このまま毘沙門天の力をもって、夜叉の将のまま、わたしたちを導いてくれたらいいのです」
「それは、不可能だ」
両手で砂利をつかんで泣き崩れている久下の前に、半遮羅は片膝をついた。
「力とは、そういうものではない。滅ぼす力は、どんなに努力しても生み出す力にはなり得ぬ。毘沙門天の力は、地上に存在してはならぬものなのだ」
「でき……ません」
「それができるのは、おまえだけだ」
「いやです!」
「慈恵!」
半遮羅は僧侶の袈裟の胸倉をつかみ、白光に燃えあがるような瞳でにらんだ。
「直吉! 新右衛門! 董子! 久下!」
慈恵の転生した名前すべてを叫ぶ。
「おまえは、二百二十年も俺のそばにいたではないか。こんなことを頼める人間は、おまえをおいてはおらん!」
「統馬……」
「俺は、いつもおまえが生まれるのを何十年も待っていた。今度はおまえが俺を待つ番だ。……よいか、必ず待っていろ」
「……はい」
声もなくしゃくりあげる久下の襟から手を放すと、半遮羅は今度は詩乃に向き直った。
あえて詩乃と最後まで視線を合わさなかったのは、一番つらい別れを告げたくなかったためだろう。
「詩乃」
「統馬くん……」
「すまない、俺は」
「ううん」
詩乃は微笑んで、首を振った。
「いいの。何も言わなくても。久下さんみたいに、私にも言って。待っていろって。そしたら、私待っているから。二十年でも三十年でも。それでもだめなら、久下さんに転生のしかたを教わって、次の身体で待っているから」
ことばとは裏腹に、別離の悲しみが喉をつまらせる。それでも詩乃は笑顔をたやさなかった。
「詩乃」
半遮羅は、詩乃の身体を抱き寄せた。
「必ず戻ってくる。だから、ちゃんと待っていろ」
「うん」
「ゆめゆめ、ほかの夜叉に食われるな」
「わかってる」
まぶしい朝日の中で重なり合うふたりのシルエットを、目を細めて見つめながら、龍二はぼんやりとつぶやいた。
「久下さん。俺、目がおかしいのかな。あそこにいるのは半遮羅と詩乃ちゃんのはずなのに、俺の目にはほかのものがダブって見えるんだ」
「ああ、僕もですよ」
久下は立ち上がり、袖で顔をぬぐってから、もう一度目をこらして微笑んだ。
「僕の目にも、毘沙門天と吉祥天女さまの御姿が、ふたりに重なって見えています」
「何が起こってるんだ」
「わかりません。でも……思えば、千年のあいだ牢にいる毘沙門天を想い続けた吉祥天さまは、詩乃さんのひたむきな姿を、天女ながらうらやましく思っておられたのでしょう。詩乃さんが統馬を愛する姿にご自分を重ねて見ておられたのでしょうね」
詩乃から体を離した半遮羅は、しばらく彼女から目を逸らさずに見入っていたが、不意にふりむいた。
「さあ、行くぞ」
空を突き抜ける半遮羅の朗々とした叫びは、滅びのときを迎えた陰惨さはどこにもなく、まるで未知への旅に出発する冒険者のようだった。




