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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第十話 「命恋うるもの」
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第十話 「命恋うるもの」(2)


 どちらが善かと問われれば、知らぬ者なら、「紅の夜叉のほうこそ」と答えただろう。

 それほどに、宝賢の金色の眼差しは静かで優しかった。尖塔のきわにゆったりと立ち、その手は刀の柄にかかる気配はなく、今にも和解の握手を差し出しそうに見える。

 だが無論、議事堂を見上げる位置にいる少数の人間たちは、彼の意図することを知っている。

 宝賢がまとうのは、死の穏やかさである。暗黒が彼のまわりを衣のように覆い、自分に触れようとするすべての者を受け入れることを拒んでいるのだ。

「こうやって言葉を交わすのは、四百数十年ぶりだな。半遮羅」

 彼は、いかにも懐かしげに目を細めた。

「俺は朝鮮出兵から戻ったばかりで、力を蓄えるために眠りにつこうとしていた。おまえは淀の方をたぶらかして、豊臣勢を戦にけしかける計画を話しておったな。あの頃は何も言わずとも、俺たちは心が通じ合っていた。そうではなかったか」

 半遮羅は答えの代わりに、唾を吐き捨てた。

「誠太郎のことをまだ怒っているのだね」

 宝賢は今にも飛びかからんばかりに猛る敵をなだめるように、舌の先を軽く鳴らした。

「隠していたのは悪かった。確かに、誠太郎に知恵をつけたのは、わたしだったよ。そのせいで、おまえひとりを残して村が滅び去った。だが、それをおまえたちは責めることができようか?」

 半遮羅はそれを聞いて、牙を剥きだして笑った。

「狩られた獣は、狩った猟師を責めることはできないとでも言うつもりか」

「違うな。わたしはおまえたち夜叉追いの一族を、無意味な苦しみから解き放ってやったつもりだよ」

「無意味な苦しみ?」

「わからぬかね? おのれらのしていたことの虚しさを」

 宝賢は、暗雲たちこめる空についと目を向けた。まるで地上には見るべき何物もないという仕草で。

「俺は都で、 『矢上統馬』として毎日毎日、夜叉を祓い続けた。だが、いくら祓っても際限なく夜叉は湧き出てくる。調伏に終わりはなかった。霊力を削られぼろぼろになるまで、俺は戦った。

そしてある日突然悟ったのだ。夜叉をいくら滅しても、それは霧を息で吹き払うようなもの。夜叉は永遠にいなくなることはない。

なぜなら、人間こそが夜叉だからだ。憎み合い、殺し合い、偽り合う。互いを貪り、飽きるということがない。人間の本質こそが、夜叉の根源だ」

 いまだ悟りを得られぬ同胞に向かって、もう一度悲しげな目で微笑む。

「俺はそれに気づいたとき、心臓が破裂しそうなほど苦悶したよ。俺のしていたことはまったく見当違いだった。夜叉を祓って人間を救うことは、御仏の心ではない。人間を滅ぼすことが、この世をあるべき姿に戻す唯一の道だったのだ。

おまえとて、とっくにそれに気づいているのだろう。俺と同じ『夜叉追いの矢上統馬』。追う者と追われる者と、両方の立場を味うことのできるおまえには」



「宝賢というのは夜叉になる前、どういう人生を送ったんだ?」

 そのあまりに虚無的な言動に魂を吸い込まれそうになった龍二は、それを振り払うように草薙に話しかけた。

「宝賢は応仁の乱の頃、矢上家の当主だった男。郷里の伊予国を離れ、戦乱に明け暮れる京の都で夜叉を祓っておった」

 草薙は 痛みをこらえているような低い口調で答える。

「一族の総領としても、夜叉追いとしても、まことに優秀な男じゃった。だが、優秀すぎたのじゃろう。その優秀さゆえに、時代が幾重にも災いした。

都は戦乱の中で荒廃を極めておった。西陣に山名勢九万、東に細川勢十五万、11年間にわたって相争い、都中の寺といわず御殿と言わずあばら家といわず、ことごとく炎の海に飲み込まれた。力なき民草は、あるいは戦火に焼かれ、あるいは流れ矢にあたり、あるいは飢えて息絶えていった。それらを宝賢は日々、目の当たりにして苦しみ続けておった。

ある日、調伏のために幕府に伺候したおり、足利将軍家の内紛、あまりに醜い家督争いを目の当たりにして、ぽっきりと樹が根元から折れるように正気を失った。その足で宇和の矢上郷に戻り、一族の幼い子どもたちを殺戮し始めた。言い伝えでは、妻も、また三人いたわが子のふたりまでもその手にかけたと聞く……」

「ひどい……」

「待てよ。その頃、天叢雲はもう神刀として矢上家にあったんじゃないのか?」

 龍二がことばの端を聞きとがめた。

「言い伝えじゃなく、草薙はそのとき一部始終を見ていたはずだろ?」

「……」

 白狐はなぜか黙して答えない。

 しかしその一方、国会議事堂の高みの沈黙は破られようとしていた。



「やかましいおとがいは、もう閉じたか」

 半遮羅は吐き捨てる調子で、口を開いた。「そろそろ始めたいんだが」

 その苛立ちに焚きつけられたのか、宝賢も少しだけ声を荒げる。

「半遮羅。汝に問う。おまえは夜叉八将のひとりとして見てきたはずだ。人間の愚かさを。卑小さを。それでもなお、人間に与するのか。人の世を救おうというのか」

「そんな小難しいことは考えたことはないな」

 刀を放り上げ、もう一度柄を握りなおした。

「俺は、おのれが人間を救うために戦ってきたとは、露ほども思っておらんよ。人間のためなどではない、ただの怨み。ただの怒り。それこそが夜叉と夜叉が闘う理由として、最もふさわしいものだろう?」

「いかにも、そうだな」

 両者は、緊張をはらんで対峙する。宝賢はゆっくりと差していた刀の鯉口を切った。

 と思う間もなく、空気が揺らいだ。

 それを感じたとき、宝賢はもう半遮羅の左の懐にもぐりこんでいた。

 半遮羅は身体をかわし、とっさに右手に握っていた天叢雲でそれを払ったが、軌道がわずかに逸れただけの剣先は、深々とわき腹をえぐった。

「きゃあっ」

 地上から見上げていた詩乃は、あたりを赤く染めた鮮血が半遮羅のものだと知って、悲痛な声を上げた。

 次の瞬間にはもうその場を離れ、塔の先端に片足を下ろして立った宝賢を、血のあふれでる傷口を押さえた半遮羅は憎憎しげに見上げた。

「勝ち目のある戦いならば、恨みを晴らすもよかろう。だが、おまえには俺に勝つ見込みは百に一つもない」

 宝賢はいかにも哀しげに首を振った。

「満賢はおのれの実力を知っていた分だけおまえより賢かった。俺にやがて殺されることがわかっていても、決して戦いを挑んでくるようなことはなかった」

「おまえの企みにただひとり気づいていた満賢を、なぜ泳がせていた? 俺と満賢が和睦するとは思わなかったのか?」

「おまえは仲間とつるむような、そんな賢い奴ではないよ。弱いくせに、孤高を気取りたがる」

 宝賢は絶対的な優位から見下ろすように微笑んだ。

「おまえと満賢が二人組むことが、俺に勝てる最後の方法だったのに。愚かにもおまえはそれを捨ててしまったではないか」

 半遮羅はわき腹を押さえていた手を離して、ふたたび刀をきつく握りなおした。夜叉の将の持つ途方もない治癒力によって、もうすでに宝賢につけられた傷は癒えている。

「さて。それがおまえの刀か。その刀でわたしを調伏しようと?」

「そのつもりだ」

「だが、それは天叢雲ではないぞ」

 半遮羅は答えのかわりに、わずかに片眉を上げただけだった。

「まことの天叢雲とは、これを言う」

 宝賢は持っていた刀を、一振りした。半遮羅の血に濡れていた刃は、煙のごとく赤い飛沫を巻き上げ、凍てついた冬の残光にますます妖しい輝きを放った。

「平安の世より三百年にわたって矢上家代々伝わってきた天叢雲はわたしが持ち出して、以来ここにある。その刀は後代になって持ち込まれた、まがいものだ」

 そのことばに動揺したのは、むしろ地上にいた詩乃たちだった。

「ナギちゃん……」

 彼らは一斉に草薙を見た。

「ほんとうじゃよ」

 白狐は、耳をしおれさせながらも落ち着いて答えた。

「あちらが、まことの天叢雲。こうやって対面するのは、千年ぶりじゃがのう。

わたしは『影打ち』なのじゃ。刀工は同時に二本の刀を鍛えるのが常。そして出来の良いほうのみを依頼主に奉納し、悪いほうには銘を刻まず、手元に残しておく。

わたしは明らかに、他方より劣っておった。なぜかと言うならば、本物の天叢雲は万物を斬ることができた。それに比べて、わたしはナマクラ。霊力をこめて、ようやく夜叉のみしか斬ることはできなんだ。そのため、ずっと備前国の刀工の一族の家の納屋に据えられておったのじゃ。

ところがそれより三百年後、宝賢が一族を裏切り、真打ちを盗み出して失踪したとき、やむなく影打ちであるわたしが探し出され、代わりとして運び込まれた。あらためて入魂の儀式が行われたのは、誠太郎や翔次郎の曽祖父の頃。すべては極秘のうちに執り行われた。

矢上家が滅びたあの惨事を予見できなかったのは、わたしの責任じゃ。わたしがまことの天叢雲ではなく、あのとき入魂後わずか百年に満たぬ青二才だったからじゃよ」

「違います。草薙。あなたのせいではありません」

 詩乃や龍二が絶句する中、久下が素早く、低くたしなめるように答えた。その様子を見ると、彼はすでに、このことを聞かされていたのだろう。

「違わんよ、久下。刀とは、ただ黙々と主の意に沿うもの。おのれの意思を持った刀など、邪道も邪道。『妖刀』と呼ばれるしかない存在じゃ。ちょうど澤村教諭を操った夜叉刀・光影のようにな」

 自嘲して含み笑う草薙に、

「やっぱりそれは違うよ」

 詩乃は芝生の上に膝をつき、白狐の頭を撫でた。

「たとえ本物の天叢雲でなくても、私たちはナギちゃんのほうが好き。夜叉以外のものを決して傷つけない、優しいナギちゃんのほうが好き」

「ありがとう、詩乃どの」

 草薙はぱちぱちと黄金色の大きな目をしばたいた。

「じゃが、こと宝賢との戦いに関しては、統馬は圧倒的に不利。真打ちと影打ちが斬り結ぶとき、その差は歴然としておる。先ほど相手の攻撃を半遮羅が避け切れなかったのが、いい証拠じゃ」

「だいじょうぶです。統馬を信じましょう」

 と久下が言ったとき、

「おや、仁右衛門ではないか」

 遥か高みの塔から、朗々たる声が降りてきた。見上げれば、宝賢の姿。塵のように小さく見えるに違いない地上の人間たちに、まっすぐ目を注いでいる。その冷え冷えとするほど整った顔には、気まぐれに蠅か何かをいたぶってやろうという残酷な意志が見え隠れしている。

「おぬしは確か、江戸の町で高名を馳せていたな。生涯で何人殺した? 五十人か、百人か? 夜叉ですらも足元にも及ばぬ鬼畜と、配下が噂しておったのを覚えているよ」

 久下は身を硬くして、そのことばをじっと受け止めている。

「久下さん、何のことだ?」

 その場をおおった異様な沈黙に耐え切れず、ついに龍二が訊ねた。

「僕の最初の人生のことですよ」

 久下はにこやかな笑顔を返そうとしたが、あまり成功したとは言えなかった。

「僕は本当は、僧侶などではなかった。江戸の町で銭稼ぎに刺客をしていた、仁右衛門という名のただの悪党でした。変装のために、袈裟を着て『慈恵』と名乗っていただけなのです」

 ああすみません、だからあの身の上話は嘘でした、と久下は深々と詩乃に頭を下げた。

「四国に渡ったのも、巡礼のためなどではなく、ただ幕府の追手から逃げて死罪を免れるためでした。吉祥天さまにお会いして本当に回心したのは、伊予の国に入ってから。半遮羅に出会うわずか数月ばかり前だったのです」

 久下にとってそれは、人から隠しおおせたい、自分ですら認めたくない、耐えがたい過去だったのだろう。彼の目は恥ずかしさと惨めさのあまり、すでに真っ赤だった。

 そのとき突然、空から哄笑が響いた。

 半遮羅はふわりと漆黒の翼を広げ、あたりに徐々に溶け出した薄闇の中に浮かんでいる。

「出来損ないの刀に出来損ないの僧侶。出来損ないの夜叉の将の持ち物には、ふさわしいじゃねえか」

 彼は片腕を伸ばすと、空気を鷲づかみにするかのように拳をぐいと広げた。

「草薙、来い!」

 みずからの力では一歩も動けなかったはずの狐は、不思議な力でふわりと浮き上がった。空中でその白い毛並みはみるみるうちに、鈍色の刀鍔と化して、吸い込まれるように半遮羅に向かって上昇し始めた。

「ナギちゃん!」

 詩乃の呼びかけに応えるようにキラリときらめくと、草薙は半遮羅の手によって、天叢雲の大小の切羽せっぱをカチリと鳴らしながら、しっかりと嵌めこまれた。

「宝賢。死ぬ覚悟はいいか」

 半遮羅はにっと口角を引き上げると、刀を水平に構えた。

 宝賢は呼応して薄く笑い、上段に構えた。

 両者はふたたび、見ている者の息をも止めるような緊張の中で、にらみ合った。



 半遮羅の心は、そのとき不思議な静けさの中にあった。

 勝ち目の薄い戦いであることは、とうにわかっている。

 相手は、恨みに恨んできた敵。

 男女の情愛を利用して兄・誠太郎と妻・信野をあやつり、矢上村を滅ぼし、彼を夜叉へと誘い込んだ宝賢。その敵に対する私怨が、ニ百年間彼を、夜叉八将との食うか食われるかの戦いに向かわせてきた。

 だが、今の彼を動かしているのは、もはやそれだけではない。

 宝賢は彼らの結束を崩し、分断することを狙って、草薙や久下の過去を暴き、はずかしめた。だが、逆に半遮羅の心は揺るぎようのないほど堅固に定まった。

 ――俺たちの傷つけられた誇りのために戦う。

 この世に満ちる、生きとし生けるものすべての苦悩のうめき。生きたいともがき、生きようとして戦うすべての弱者の願い。傲岸ごうがんな運命に対する命あるものの怒りがその瞬間、焼けた鉄串のごとく熱く、彼の身体を貫いた。


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