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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第九話 「死を紡ぐもの」
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第九話 「死を紡ぐもの」(6)



「今すぐ、ここで?」

「そうだ」

「でも、封印を解くって、どうすればいいのかわからない」

「吉祥天に教わった真言を唱えればいい。そうすれば、次に必要なことばが頭に浮かぶはずだ」

 答えながら統馬は、手早く上着とシャツを脱ぎ始めた。

「でも……」

 ここで、クラスメートたちの真ん中で、本来の姿に戻るということは。

「早くしろ。外の群れがどんどん増えてきている。なまじの結界では、今にも窓をぶち破られるぞ」

 半遮羅となって、満賢の大軍と戦う。でも夜叉としての正体が明かされる以上、もう二度と生徒としてこのクラスに戻ることはできない。統馬はそう決意しているのだ。

「……わかった」

 詩乃は迷いをほどき、手印を組んだ。目頭に、何もできない自分への苛立ちの涙が浮かぶ。

 久下も、統馬の封印を解くとき、いつもこんな辛い思いをしていたのだろうか。

「オン・マカシリ・エイ・ソワカ」

 脳裡に巨大な曼荼羅図が張り延べられ、読めるはずのない梵字が次々と浮かんでくる。必死になって、それを読み取る。

 窓辺にひざまずき両手を合わせていた統馬は、苦しそうに身をよじった。

 誰かが、きゃあっと叫んだ。級友たちはことの異常さに気づき、徐々に後退って彼から離れていった。

 汗に濡れた全身が脈動を始める。背中にはふたつの種字が刺青のように浮き上がる。髪は、いちどきに解放された鷺の群れのごとくに白く、長く伸び、苦悶にあえぐ口からは、鋭い牙がのぞいた。

 およそ人とはかけ離れてゆく異様に、周囲の者は恐怖にうち震えるだけ。教室は水を打ったように静まり返った。

 変化が終わり、真白の双眸を開くと、半遮羅は床に置いた剣をつかんだ。

「あとは、まかせる」

 背中越しにひとこと言い置くと、一気に窓枠を乗り越えた。

「あっ」

 3階から飛び降りたと思ったのだろう、誰かが両手で目をおおった。

 しかし、すぐに大きな黒い翼が彼の身体を被うように広がる。たちまち、校舎を取り囲んでいた夜叉たちが、蜂の大群のようにいっせいに襲いかかった。

「矢上の、あの姿はいったい……」

 神林がぱくぱくと口を開け閉めしている。嶋田と山根たちも、恐怖におびえた表情で詩乃を見た。

 クラス中の、痛いほどにもの問いたげな視線を浴び、詩乃はただ首を振った。

「統馬くんは、必ず勝つから」

 小さく、しかしはっきりとそれだけ答えると、両手を結び、ふたたび口の中で真言を唱え始めた。

 金剛網、金剛炎、そして大三昧耶の重結界を、高い城壁のように幾重にも張っていく。

 無数の敵の真っ只中、詩乃ひとりで38人の生徒を守りながら、校内から脱出させることになる。

 本当に私ひとりでできるんだろうか。ナギちゃんもいない。久下さんも助けてくれないのに。私なんかが。

 いや、できるかどうか、ではない。やらなければならないんだ。最前線でひとり戦う統馬に、すべてを任されているのだから。



――でも、そんな必要あるの。

 体の奥から、声なき声で誰かが訊いた。

――こいつら、あなたをさんざんイジめてきたじゃないの。あなたのことを委員長に祭り上げ、利用するだけ利用して。靴を隠され、カバンを焼かれた。いっぱい積もる恨みがあるじゃないの。

――ああ、そうだね。長い間本当に辛かったね。悲しかったよね。でも、私はもう憎しみを募らせたりしない。忘れることにしたの。

――どうして、忘れたりできるの。一方的にこっちが苦しむだけなんて、そんなの不公平。

――こんな奴ら助けたりしないで、ほっとけば? 自分にだけ結界を張って逃げ出せば? 同じだけ苦しめてやらなきゃ。集団でへらへらと笑いながらどんなにあなたを苦しめたかなんて、自分のしたことの意味なんてわからない。それが人間なのよ。罪を正しく裁いてやるのが、正義というものでしょう。

――そうかもしれない。でも、そうやって得るものは、自分を惨めにするだけだって気づいたの。

――私はちっとも悪くない。誰か見て。誰かわかって。そうやって叫べば叫ぶほど、私の心はどんどん寂しくなっていった。

――でも今、私にはいつも見ていてくれる人がいる。もう叫ぶ必要はないの。 ……だから、あなたももう休んで。

 心の中の夜叉は、ことばを失ってうなだれる。



 半遮羅は、空中で仁王立ちになった。

「うおおおぉっ」

 低い地鳴りのような雄叫びを上げるや、天叢雲をかざして斬りかかる。

「てめえらなんぞに」

 稲妻のような閃光がきらめき、数十体の夜叉が消滅した。

「この半遮羅の髪の毛一本、取らせるかぁっ」

 そのトンネルのような破砕の軌跡は、しかし、すぐに次の夜叉の群れで埋められていく。

 もうかなりの時間が経つ。それでもいっこうに敵が減る気配がない。満賢はいったい、何体の夜叉を送り込んでくるのだろうか。

 それとも、すべての物理の法則が変えられてしまうこの異空間には、「尽きる」ということがないのだろうか?

 さすがの半遮羅も、みぞおちをえぐるような焦燥感を感じ始めたとき、背後の校舎の中でも異変が起こっていた。



 大勢の悲鳴で詩乃は瞼を開いた。どうやって脱出するか経路を思い巡らしている隙に、3階の廊下が数人の男によって侵入されていたのに気づかなかったのだ。

 異様に光る、うつろな瞳。夜叉に取り憑かれた人間の目だ。

 うち二人はT高の教師だった。担任の福島もいる。そのほかは知らない顔だった。

 詩乃はあわてて、結界の境界を張り広げた。バチバチと白い火花のようなものが散り、暴漢たちは階段付近まで後退を余儀なくされた。

「こわいよ、誰か助けて……」

「どうして、こんなことに……」

 数人の女生徒が、また泣き始める。

「おい! キーキー泣くなよ。いらいらする!」

 誰かの怒鳴り声が聞こえる。みんな精神の限界に来ているのだ。

 突然、ずんと詩乃の身体に衝撃が走った。長時間、真言を唱え続け、霊力を使いすぎた。

「詩乃、だいじょうぶ?」

 朋美が訊く。笑い返そうとするが、ひくひくと顔の筋肉が震える。

「うん、だい……」

 そう答えようとした瞬間、視界が暗くなり、膝がかくんと折れて座り込んだ。

「弓月さん!」

 あわてて何人かの女生徒が駆け寄った。だが、詩乃が唱える真言のおかげで教室が無事に守られていることを理解している者は少ない。ただ神仏に無事を祈っているだけだと思う者がほとんどだった。

「少し、坐りなよ。心配なのはわかるけど」

「ずっと立ってそんなことしたって、しょうがないじゃん」

「大丈夫。ただの……貧血だから……少しだけ休めば」

「うそ、そんなの!」

 大声が響いた。嶋田だ。涙ぐみながらも、小さな体いっぱいに義憤をみなぎらせている。

「だって……、弓月さんから光るオーラみたいなものがずっと出ているのが見えるもん。その光で、あいつらから私たちを守っていてくれるんでしょ。

命をすり減らすようにして、たくさんの力を出している。そしてどんどん弱っていく。それなのに、私なんかずっと怖がって泣いてばかりで、……恥ずかしいよ!」

「弓月さん、私たちにも何かできない? なんでもいいから、手伝わせて」

 山根も叫んだ。

「そうだよ、詩乃」

 朋美が彼女の肩をそっと後ろから抱きかかえる。

「私たちにも、なにかさせて。矢上くんとあなたは、ずっと長い間ふたりでこの学校を守っていてくれた。そんな気がする。ごめんね、何も気づかなくて。同じクラスメートとして、これからは私も何かしたいの」

「そのとおりだ!」

 神林が同調して、武者震いしながら立ち上がる。

「俺たち男子も、何かできるはずだ。矢上師匠が教えてくれた。霊力とは、国を守り、地を守り、人を守りたいとただ一念をもって願うこと。すなわち、愛だ。究極の愛をもって世界を愛するんだぁーっ」

 呆気にとられている級友たちに、「こんなこともあろうかと」と彼は持っていた大きなスポーツバッグを開いて、ぎっしり詰まった水晶球やダウジングロッドを見せる。

「占ってよし、投げてよし。霊験あらたかなことは、鞍馬寺ですでに実証ずみだ。これで、さっきの奴らを撃退しようぜ」

「で、でもあの中には先公もいたぜ。下手にボコると、あとで内申書に影響するんじゃ……」

「ばかもん! 生きるか死ぬかってときに何が内申書だ。少しでも、根性のある奴は俺についてこい。俺たち全員で血路を開く。みんなで助け合って、生きてここを脱出するんだ」

「お、おうっ」

 長い時間無力感にさいなまれてきた彼らは、勇ましい演説を聞いてようやく奮い立った。奪い合うようにして、それらのグッズは男子たちに手渡されていった。

「みんな……」

 詩乃の頬を暖かいものが伝う。

 ずっと互いの間に冷ややかな関係しかなかった2年D組の中に今、家族のように通じ合うものが流れている。疲労と恐怖の中に、少しずつ希望が満ちてくる。

 生きていてよかった。このクラスにいてよかった。統馬くんにも、今の私たちが見える?

「さあ、行くぞ!」

 神林の号令の下、39人は一斉に動き始めた。



 その頃、群がる夜叉たちに囲まれ、半遮羅は天叢雲を牙のあいだに咥えて、手印を結んでいた。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・メイギャシャニエイ・ソワカ」

 真言とともに勢いよく口から吐き出した刀を両手に収めるやいなや、中天にかかる太陽をぶち斬る勢いで、そのまま大上段に振りかざす。

 白い霞が刀身から湧き出るように勢いよく生じた。それはたちまち巨大な白龍となり、瞬目もゆるさぬ剣閃とともに、敵に食らいつき、呑み込む。

 たとえ敵がどれだけいようと、刃から舞い散る幾千万の水蒸気の粒子を避けることのできる者はいない。

 「諸龍真言」。水を司る龍王に帰命する真言である。

 あたりを覆う霧が晴れたとき、空には黒い翼を持つ白緑の髪の将以外、一体の影も残っていなかった。

「雑魚が、手間をかけさせやがって」

 半遮羅は苦々しくつぶやいた。

 龍王の加護を得るために、自らの霊力という、それなりの代償を払ってしまった。しかも、彼はこの数日で二度も夜叉に変じているのだ。いくら強がっても、肩で息をせざるを得ない。

 しかしこれ以外に、圧倒的に数で勝る敵をまとめて調伏する方法はなかった。満賢は彼の疲労を計算し尽くした上で、一挙にこれほどの大軍を投入してきたのだ。

「満賢、どこだ」

 詩乃たちのことが頭をよぎるが、目の前の宿敵を滅ぼしてこの結界を破壊するほうが先決、と思いなおした。

 運動場の一画に、いびつな空気のひずみを感じ取り、半遮羅は翼をたたみ、ゆっくりと地面に降りた。

 気を集中する。毘沙門天の三等分という途方もない霊力を分け合う者同士、今は互いの居場所が具に感じ取れる。

 数歩進み出ると、半遮羅はぴたりと足を止めた。

「肉体を消したまま、永久に存在そのものも消してやろうか、満賢。空に浮かぶ塵のように、水に浮かぶ泡沫のように」

「ふふ。やはりおぬしは強い。わしの負けじゃよ」

 夜叉の副将は、姿を現した。曲がっていた背筋を凛と伸ばし、子どもの背丈だった体は別人のように大きく見えた。降伏したという屈辱はみじんも感じさせない。

「どうじゃ、半遮羅。取引をせぬか」

「取引だと?」

「うすうす気づいておったはずじゃ。わしが人質を取りながら、ひとりも手をかけなかったのは何ゆえと思う。こんな手間暇をかけたのも、わしが敵でないことを知らしめるためじゃ」

 満賢は鋭い眼光でまっすぐに彼を見据え、片眉を上げ、引きつるように笑った。

「――そこで、ものは相談じゃ。わしとおぬしで手を組み、すべての悪の根源である宝賢を倒さぬか?」

         



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