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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第九話 「死を紡ぐもの」
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第九話 「死を紡ぐもの」(2)



「詩乃どの!」

 草薙の悲痛な叫びが耳に聞こえた。

 しかし今の久下には、結界の中で何が起こっているか、振り返って確かめる余裕がない。

「オン・バザラ・シャキャラ・ウン・ジャク・ウン・バン・コク」

 錫杖の小環を一定のリズムで響かせ、真言の霊力とこね合わせる。四方から襲い掛かろうとする夜叉に対して、曼荼羅を築き、諸仏を迎え、邪悪なものを門前払いする、怖魔降伏の防壁を張り巡らせているのだ。

「草薙……。詩乃さんはどうしたのです?」

「誠太郎に身体を奪われた詩乃どのは、魂までも侵食され、彼の従順なしもべとなってしもうた」

「なんだって……」

「その証拠に左の乳房には、夜叉の所有であることを示す種字が刻印されておる。夜叉が人間の女と交わるは、その魂を食らうこと。あれはまさしく、T高の女性教諭・澤村が婆多祁哩ばたきりの種字を刻まれていたのと同じじゃ」

「すべては巧妙に仕組まれていた罠だった。K県の市町村合併の騒動も、僕たちをバラバラに引き離すための茶番劇だったのでしょう。しかし、それがわかったところで」

 玉の汗を額に光らせながら、久下がうなった。

「草薙、詩乃さんを操る妖力を断ち切るための真言を、そこから唱えることはできないのですか」

「無理じゃ。遠すぎる。この中では、中心に行くほどより強力な結界の力が働いておるのじゃ」

「それじゃあ、いったい……」

 外敵を防ぐのにせいいっぱいの久下。自らは動けない草薙。ふたりは歯ぎしりしながら、状況を見守るしかなかった。



 清浄な光をこぼす霊剣を胸に掻き抱くように持つ女を、半遮羅は茫然と見つめていた。

 なぜ、こんなに苦しいのだろう?

 半身が引き裂かれるような痛み。この女を守りきれなかった、目を離した隙にやすやすと奪われてしまった。果てしない、自分への、ただ自分への怒り。

 誠太郎は、折れた柱に龍二の痛めつけられた身体をもたせかけると、両眼だけを爛々と光らせて嘲笑った。

「どんな気分だ。惚れた女に、為す術なくおのれの刀で調伏されるというのは。夜叉の将ともあろう者が」

 背中から浴びせられる揶揄の声に、半遮羅は逆上して、ぴりぴりと周囲の空気の分子を震動させた。

「なめるな! たかが人間の女ひとりに殺られる俺ではないわ」

 言うが早いか、詩乃の腕をねじりあげる。だが、それでも詩乃は刀を放そうとしなかった。

 人間の女性の持つ力ではない。たとえ腕の骨を砕かれても、筋を引きちぎられても、誠太郎に操られている限り、その命に従おうとするだろう。

「おまえが刀を取り上げれば、女は自害するぞ。それでもいいのか?」

「勝手に死ねばよい。いや、その前に俺がくびり殺してくれる」

 敵への憎悪を募らせるあまり、半遮羅は詩乃の首に腕をかけて、ぐいと後ろに引こうとした。

 しかし、すんでのところで手を止めた。

 眼をぼんやりと見開いた少女の長い睫毛は、震えるばかりに涙をいっぱいにたたえていたのだ。



 統馬くん……ごめんなさい。

 こんなことをしたくはないのに。

 からだが、言うことをきかないの。私のからだは、もう私のものではない。

 お願いだから、私から離れて。逃げて。



 心までは操られていない。触れ合っている肌から、本当の声が聞こえてくる。

「おまえは……」

 夜叉の鋭い牙の間から、低いつぶやきが漏れた。

 嵐にざわめく森の木立の合間からわずかに漏れる星明かりのごとく、猛り狂った半遮羅の心がかすかにゆらいで、統馬がずっとひとりで抱えこんでいた詩乃への想いがのぞく。

 図らずも、右腕がするっと緩んだ。

 その一瞬の勝機を、誠太郎が見逃すはずはない。すばやく詩乃の身体に命じ、刀の切っ先を彼の手の甲に突き刺させる。

「ぐわああぁっ」

 半遮羅は苦悶の絶叫を上げた。その手は、みるみるうちに壊死を起こした組織のように、どす黒い紫に変色していく。刀身に御仏の霊力を込められた天叢雲は、忠実に愚直に、悪しき夜叉を滅ぼすための活動を始めたのだ。

「く、そ……」

 半遮羅は自らを突き刺している少女の喉ぶえに、残った左手でもう一度つかみかかろうとした。

 しかし、その動きはなおも躊躇いにさえぎられた。詩乃の心が念話となって、さらに流れ込んできたからだ。



 あなたのことを忘れてしまいたかったの。

 過去の世界で信野さんとあなたが見つめ合う姿を見て、もう何もかも、どうでもよくなってしまったの。

 そこに矢萩くんがいてくれて、私は彼にすがりたいと思った。

 そんなふうに彼を身代わりにしてしまうなんて、私って最低だよね。

 ごめんなさい。一番悪いのは私。一番、卑怯なのは、私。



 その間にも霊力を注入され続ける半遮羅の手は、すさまじい勢いで腕から肩へと変色を広げていた。さらに真っ黒に炭化した部分は一転して真っ白な灰をかぶったように鉱物の色と固さへと変化した。

「こい……つ」

 無邪気な悪魔の笑みを浮かべている詩乃を、半遮羅は間近に向き合いながら、憎憎しげに睨みつける。生存本能と詩乃への情愛が激しくぶつかっている。



 私には、あなたを裏切った信野さんの気持ちが、ほんとうによくわかる。

 あなたを好きな気持ちを無理矢理あきらめて、そばにいた誠太郎さんに思わずすがってしまった信野さんと、今の私は同じ。

 そして、誠太郎さんの哀しみも、今彼に操られている私には痛いほど伝わってくる。信野さんのことを愛していたのに、信野さんからあなたの身代わりとしてしか必要とされなかった。自分のことを見てもらえなかった哀しみで心がいっぱいなの。

 だから、統馬くん。誠太郎さんのことを、どうぞ憎まないで。赦して。



「赦せ……だと?」

 本心なのか。本心から言っているのか。それとも誠太郎に心まで操られて、そう言わされているのか。

 誠太郎が信野をあやつって、俺をあざむいたときのように。

「どうした。さっさとその女をくびり殺さねば、おまえは調伏されてしまうぞ」

 誠太郎は、勝ち誇った笑い声を上げる。

「統馬、いかん。詩乃どのを自らの手で殺してはならん」

 草薙の必死の叫びがそれにかぶさる。

「そんなことをすれば、おまえの統馬としての心は永久に死んでしまう!」

 


 赦せだと? 誠太郎を赦せというのか。

 父と母を殺し、おのれの一族を滅ぼし、信野を自害に追いやり、今またおまえを滅茶苦茶にしたこの男を。

 こんな悪業を重ねることのできる人間を、おのれの利のために他を滅ぼし合って生きる人間を、御仏は赦せというのか。

 いくらきれいごとを並べたって、おまえだって本当は憎んでいるはずだ。

 おまえを犯して、ぼろぼろにしたこの男を。

 すべてを忘れて過去に逃げ込み、おまえのことを助けにも来なかったこの俺を。

 そうなんだろう? 赦せるものか。赦せるはずがない。



 ううん。

 詩乃は、かすかに首を振り、微笑んだ。

 自分自身を赦せるなら、誰のことだって赦せるのよ。統馬くん。

 もう、自分を憎んで苦しまないで。そんなことをしても、何も生まれるものはない。

 自分を大切にして、生きて。私はどんな姿になっても、どこに行っても、きっとあなたを愛しているから。



「詩乃――」

 猛烈な勢いで身体を石化し続ける、天叢雲の霊力に抗おうともがいていた身体が止まった。

 憤怒と狂乱がもつれた螺旋となって暴れていた半遮羅の瞳の奥が、静かに凪いだ白い海となって広がった。薄衣に似た光がその海の上をおおっている。



 【結局、おれの怒りの正体とは、人の世を滅ぼしてやまないほどの憤りの正体とは、何もできぬ自分への怒りだったのだ――】



「いちばん悪いのは……俺だった」

 その場に立ち尽くしたまま、半遮羅の眼から大海の滴のような一すじの涙がしたたり落ちた。

「もう一度過去を生きてみて、自分がどれほど間違ったことをしてきたのか、ようやくわかった。すべてを諦めているつもりで、なお父や兄を恨み、自分の気持ちをひた隠しているつもりで、多くの人たちを傷つけていた。

俺は、信野や誠太郎を憎んで夜叉に変じたのではなく、本当は……己自身を憎んで、夜叉になったのだな。

そして、おまえのことも……傷つけ……詩乃……すま……ない……当は、お……れが……」

 ことばは、そこで途切れた。

 夜叉の将の全身はついに、ひと塊りの岩と化した。



「統馬くん……」

 詩乃は頭を前に傾げ、ものいわぬ彫像の胸にいとしげに髪をこすりつけた。

「わはは、とうとう半遮羅を滅ぼしたぞ!」

 離れたところから、その様子を逐一ながめながら、誠太郎は狂ったように哄笑した。

「これで、奴の代わりに俺が夜叉の将となれる時が来た。……詩乃、これでおまえも立派な夜叉だ。もう一度その刀を、半遮羅の頭に突き立てろ。完全に息の根を……」

 しかし、誠太郎のことばもまた、最後までは続かなかった。

 詩乃の身体がまばゆい光に包まれ始めたのだ。

         



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