第七話 「幻を映すもの」(4)
「半遮羅よ。おぬしは、まぎれもなく我が力の八等分を与えし者。なぜ我に逆らう。今からでも遅くはない。戻ってまいれ」
幻。幻でしかありえない。毘沙門天は須弥山のふもとの牢に永久に封じ込められているのだから。
そうは頭で理解していても、正視することもあたわぬ威容にあたりの空気はぴりぴりと震動し、それに呼応して統馬の体内では、まがまがしい妖気が暴れ、今にもあふれ出しそうだ。
ようやく、天叢雲をぐいと握りなおし、恐怖のもたらす衝動に打ち勝った。
「ほう、あくまで我に逆らうつもりか」
「オン・バン・ウン・タラク・キリク・アク・ソワカ」
問いかけに答えぬまま、統馬は五部総咒真言を唱え、そして刀をかざして毘沙門天に飛びかかった。
剣閃はむなしく空を切り、地面に木っ端と土ぼこりの飛沫をあげた。そこにあったはずの毘沙門天の姿は、もうない。
かろうじて体勢を立て直したとき、突然、斜め後ろから小山ほどもある虎が襲ってきた。虎は毘沙門天の子飼いの霊獣。地鳴りのようなうなり声とともに統馬の身体にむしゃぶりつく。
気の遠くなるような痛み。すとんと降り立った虎の牙のあいだから、食いちぎられた統馬の右腕と、手の先に握る天叢雲がぶらりと垂れ下がった。
「統馬!」
龍二の叫び声が聞こえた。
ふと気づくと、天叢雲も右の腕も元に戻っている。痛みもない。
「いったい、あんた、何と戦っていたんだ?」
駆け寄った龍二が、うす気味悪そうに彼を見つめる。
「どういうことだ」
「俺には、あんたがひとりで剣を振り回しているようにしか見えなかったぜ」
「……なんだと」
統馬は、悄然として立ち上がった。妖気はいまだに周辺の空気から立ち昇っている。早鐘のように打ち続ける己の心臓の律動も、思い違いではない。
「鈴の音……」
「え?」
毘沙門天が現れる前、鈴の音が確かに聞こえた。
「ここを狩り場に定めたのは、金剛鈴の毘灑迦だったのか」
駐車場に停めてあった龍二のワゴン車のところで、6人は再会した。
「いったい、どうなってるんだ」
思いも寄らなかった集団の来襲に、車中でも神林と山根と嶋田は、まだ夢の中にいるような表情をしている。
詩乃も、いったい何があったのか聞くこともできず、機嫌の悪い統馬に気を揉むばかりだった。
車は碁盤の目になった京都大路を南に進み、彼らが今夜宿泊するホテルに無事たどりついた。
ロビーには、彼らと同じく5時の集合時間にすべりこんだT高生たちが三々五々、興奮した様子でしゃべったり、買ってきたお土産を見せ合ったりしている。
「弓月」
教師への班の帰還報告を終えたあと、統馬はようやく重い口を開いた。
「俺は、頃合いを見計らってここを抜け出す。龍二といっしょに大原に戻ってみる」
「妙幻庵へ?」
「おまえの張った結界の様子を確かめてくる。今夜は帰らんかもしれん。教師には、適当にごまかしておいてくれ」
「私も行く」
「だめだ。ここで待っていてくれ。このホテルのそばで、久下も待機して結界を張っている。何かあったらすぐに連絡を入れろ。……それから」
彼は、懸念の色を宿した目で詩乃をまっすぐに見た。
「鈴の音に気をつけろ。もし何か聞こえたら、即座に真言を唱えるんだ」
「何かわかったのか。統馬」
草薙が気遣わしげに訊ねる。
「ああ、今度の敵はおそらく……厄介だ」
大広間での夕食が終わったあと、学生たちは思い思いの時間を過ごし始めた。例年許可されている夕食後の外出が今年は廃止になってしまったため、広間でのカラオケ大会やそれぞれの部屋でトランプに興じているものが多い。
統馬はいつのまにか、姿を消している。今頃は龍二といっしょに、大原に着いたころだろうか。一緒に連れて行ってもらえなかった一抹の寂しさを心に抱えながらも、詩乃は湯上りのほっと人心地のついた時間を、ロビーからホテルの日本庭園の景色を見て過ごしていた。
「弓月……さん!」
切羽つまった大声が、玄関から響いてくる。
ユキと理恵だった。彼女たちの班は今日も集合時間に遅れ、今回はさすがに学年主任の先生からも厳しく叱られていた。またトラブルを起こしたのだろうか。
「朋美が、たった今ひとりで出ていっちゃったのよ」
「え?」
ふたりは、いつも詩乃に向ける嘲るような表情はどこへやら、泣きそうになって訴える。
「なんか、様子が変なの。今夜はもうやめようって止めたのに、『戻らなきゃ』ってまるで夢遊病みたいに出て行っちゃったの」
「ねえ、詩乃、止めに行ってよ」
詩乃は思わず、カッとなった。この半年ずっと彼女をシカトしてきたくせに、修学旅行中もさんざん迷惑をかけてきたくせに、こんなときだけ友だち呼ばわりなのか。でも、かろうじて自分を制する。それほど彼女たちの顔は必死だった。
「戻らなきゃって、いったいどこに?」
「わからない……」
「今日の班行動は、どこに行った?」
「北山通りでウィンドウショッピングとか、岩倉実相院とか……。午後は大原にも」
「大原? 大原のどこ」
「妙幻庵ってところ」
詩乃は息を詰めた。それでは朋美が出て行ったのは、まさか夜叉が関係しているのだろうか。
「朋美、ほかに何か言ってなかった?」
「なんか怖かったよぉ。何度も『鈴の音が聞こえる』って言うの。隣にいる私たちは全然聞こえないのに」
ふたりは一斉にしくしく泣き出し始めた。
詩乃は持っていた小型のリュックを鷲づかみにすると、急いで玄関の自動ドアを飛び出した。朋美の姿を求め、夜の街路を見渡す。
「待て。ホテルの中で待っていたほうがよい。統馬もそう言っていたじゃろう」
マスコットのふりをしてリュックにぶらさがっていた草薙が、反対の声をあげた。
「でも、今すぐに朋美を止めないと大変なことになるかもしれない」
数十メートル先の車道脇で、タクシーに乗り込もうとする少女の後姿を認めた。
「朋美!」
駆け寄るが、そのわずか数秒差でタクシーは走り去った。
「詩乃どの、とりあえずは久下に連絡するのじゃ」
しかし、そのことばをかき消すように聞こえてきたのは、かすかな鈴の音。
「だめよ……」
うつろな声で、詩乃は答えた。
「私も……呼ばれた。すぐ、行かなきゃ」
「詩乃どの!」
白狐の必死の叫びもむなしく、詩乃は手をあげてタクシーを止め、そのまま何処ともなく姿を消した。
同じ頃。観光客も去り、森閑と数百年前の静けさを取り戻した大原の里に、統馬と龍二は戻っていた。
「どうだ」
両手に印を組み、妙幻庵の垣の外で内部の様子をさぐっていた統馬が目を開いた。
「ここの寺は、もぬけのからだ」
「何?」
「夜叉どころか、人ひとり気配を感じない。奴らはここを捨て、どこかに逃げたようだ」
そして、唇を強く噛みしめる。
「鞍馬寺で大挙して襲ってきたくらいだ、当然俺たちがここも探っていることは、向こうにとっくに気取られていたにちがいない」
「そうか、まいったな」
路肩に止めてあったワゴン車に戻ったとき、車内に残しておいた統馬の携帯が震動しているのに気づく。
「やっと、つかまった。いったい何をしてた!」
耳が割れんばかりの大声が、小さな機械から飛び出してきた。神林だ。
「弓月委員長がいなくなった。ホテルは大騒ぎだ」
「なに?」
「2Dの崎原朋美が先に飛び出して、その後を追いかけて行ったんだ。一緒にいたヤツの話では、大原の妙幻庵や鈴の音の話をしたら、血相を変えてたらしい。おい、おまえ今いったいどこにいるんだ?」
「くそっ」
吐き捨てるように、統馬が叫んだ。
「神林。山根と嶋田はまだそこにいるな」
「ああ、いる」
「ふたりを絶対にホテルの外に出すんじゃねえぞ!」
「どういう意味だ?」
「うるせえ、なんでもいい。それに、他の誰であっても外に出ようとする奴は、力ずくでふん縛ってでも引き止めろ。いいな!」
「わ、わかった」
「そっちはすべて任せたからな。弓月は俺が探す」
携帯を切ると、もの問いたげな龍二に手短に説明した。
「詩乃ちゃんが?」
龍二はいつも眠たそうな目を見開いて、心なしか慌てている。
「どうするんだ、ここで待つのか」
「いや、もし崎原が夜叉に操られているとすれば、奴らのもうひとつの本拠地に向かっているはずだ。草薙が一緒なら、こいつに探させるのが早い」
統馬は、袋の中から天叢雲を取り出し、鞘を払う。天叢雲と草薙は一対の剣。離れていても、互いに呼び合うのだ。
刀を宙にかざし、所有者の強い思念をこめると、剣は暗闇の中でかすかに震えながら、濡れたような光のしずくをこぼす。
統馬はすっと指差した。
「あっちだ」
「よし、乗れ」
ふたりは、ワゴン車に乗り込んだ。龍二はエンジンをかけると、力をこめてハンドルをグイと握った。
「西でいいんだな」
「ああ」
「ずっとそのまま草薙の気配を探ってろよ。カー・ナビじゃなくて、カー・ナギだぜ、まったく。
……つかまれ。フルスピードでとばすぞ!」
「ああ、なんたる不覚じゃ。わたしともあろう者が」
詩乃のスカートのひだの間から顔を出し、草薙がひとりごちる。
リュックの金具に結ばれていたひもを引きちぎり、ずっとポケットの中にひそんでいたのだ。
鄙びた茅葺きの庵と見えるところに着くと、一室に詩乃は押し込められた。
十二畳ほどの灯りもない部屋。障子の外では、鬱蒼と茂る竹がざわざわと黒い影を揺らす。
詩乃は、相変わらず心を喪った様子で畳の上に正座していた。同じ部屋にはすでに数人の女性たちが、ぐったりと倒れ伏し、あるいは壁によりかかっている。
「あの、鈴の音……あれが聞こえたとき、とっさにもっと強い結界を張るべきだったのじゃ。あれはまさに、幻を見せて人を思いのままに操るという金剛鈴の音色。聞きしにまさる妖術じゃった」
呟いては、またポカポカと肉球で自分の頭を殴る。
「相手が金剛鈴の使い手、夜叉八将のひとり、毘灑迦であるのは間違いないが、それにしてもこれほどの妖力を持っていたとは。認めたくはないが、わたしの力が衰えておるのか。それとも逆に……。
ああ、詩乃どの、詩乃どの」
草薙は彼女の背中を駆け上がり、鼻先で幾度も頭の後ろをつついた。
「だめか。……すまぬ、少し手荒なことをするぞ」
草薙は口の中で短い真言を唱えると、ふさふさの白い尻尾で詩乃の頬をはたく。
びりっと小さな稲光のような静電気が走り、詩乃は小さな悲鳴をあげた。
「ナギ……ちゃん」
「しっかりされよ、詩乃どの。正気に戻ったか」
詩乃は、今初めて見る場所のように、きょろきょろとあたりを見回した。
「ここ、どこ?」
「詩乃どのは、クラスメートの朋美どのを探しにホテルの外に出て、そのままあやかしの術にかかってしもうた。そして二人して、ここに誘い込まれてしまったのじゃ」
「なんですって」
詩乃はまだ、信じられないという顔をしている。「それじゃ朋美は?」
「黒装束の男どもに、先ほど朋美どのだけ連れて行かれた。残念ながら、あとのことはわからぬ」
「そんな……」
「とにかく、ここを脱出することが先決じゃ。統馬も、ほどなくここを見つけように」
意気消沈している彼女を元気づけようと、草薙は髭をぴんと張り、わざと明るく笑った。
「さあ、『正義のヒロイン脱出大作戦』開始じゃ」




