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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第七話 「幻を映すもの」
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第七話 「幻を映すもの」(2)



 比叡山麓の小さな盆地、大原。

 みやげ物屋の立ち並ぶ狭い参道をバス停からゆるゆると登っていくと、道の突き当たり左が三千院のいかめしい山門である。

「大原は、別名、『声明の里』と呼ばれている」

 堂々たる体躯で声の大きい神林が、拝観受付の前で演説をぶつものだから、お年寄りの観光客の中には、ツアーガイドと間違えて聞き惚れている人さえいる。

声明しょうみょうとは、僧によって唱えられる声楽のことで、仏教儀式音楽として慈覚大師によって唐から持ち帰られ、平安後期に完成した。大原においては、勝林院と来迎院という二つの道場において声明梵唄が盛んになっていったのである。

この三千院門跡は呂川・律川というふたつの川に挟まれているが、これは声明の呂旋法と律旋法に因むといわれる。声明において、このふたつの旋法を使い分けられない未熟な演奏者を『呂律が回らない』と称したのである」

「すっごーい。神林くん」

 嶋田がぱちぱちと拍手をする。

「お褒めにあずかり、光栄である」

「あれぇ、私、ぜんっぜん褒めてるつもりじゃないんだけど」

「きゃはは。おっかしい」

 山根と嶋田はバスの中で神林と仲良くなったようで、詩乃の班はようやく和気藹々としたムードに包まれ始めた。

 もっとも、彼女たちは相変わらず統馬には近づこうとしない。あの澤村教諭と夜叉刀との戦いの夜以来、彼がただの高校生ではないことに感づいているらしい。

 三千院の内部は広い。青苔むす庭と杉の木立の中に、池や御堂や石仏などが配される。参拝客の少ない時期なら、もっと静謐な空間だったろう。

 しばし、心地よい樹木の緑を浴びたあと、5人は境内を後にした。

「弓月委員長の作った計画書によると、次は『妙幻庵』という寺に行くことになっているが」

 神林は旅行のしおりを、ためつすがめつしている。「聞いたことのないところだな」

 西に向かってなだらかな山道をさらに数分歩くと、細竹の組垣がくるりと取り囲んでいるその奥、ヒバの木立の向こうに鄙びた小さな庵が見えた。門のところには大勢の女性が群がっている。

「ここよ。新しい名所なんですって。庵そのものは鎌倉時代にできた古いものを改装しているらしいけど」

 詩乃が、説明する。

「そうそう、雑誌にも載ってたわ。庵主あんじゅさまが女優みたいに綺麗で、訪れる人ごとに説法してくれて、すごく感動的なんだって。今若い女の子でブームなのよ」

 山根と嶋田もはしゃいでいる。もちろんその雑誌は、詩乃がさりげなく学校に持ってきたものだ。

「だが、庭のその奥から向こうは男子禁制なんだろう。そのあいだ僕たちは何をしてればいいんだ」

「別のお寺でも回ってればいいじゃない」

「それじゃ、班行動にならんじゃないか。……なあ、矢上」

「……別に俺は、かまわんが」

 詩乃の目には、統馬はいつもにまして怒ったように見える。その間、神林とふたりきりになるのが、よほどイヤなのだろう。

「ま、師匠がそう言うなら、僕も異存はない」

「ごめんなさい。せっかく大原へ来たんだから、話題のところに行ってみたいの」

 詩乃は心の中で級友たちに手を合わせながら、計画を押し通した。本当は、ここがひそかに今日の最大の目的地なのだ。

「それじゃあ、1時間後の12時にここに集合ね」



 鷹泉孝子の声が、詩乃の耳によみがえる。

「妙幻庵は、このところ若い女性向けの雑誌に取り上げられて、一躍、京都の人気スポットになりつつあります。

だが、そこを訪れた女性の中に、夜叉の影響を受ける者たちが続出している。わかっただけでも、そのうち5人が自殺や行方不明、傷害その他の未遂事件を起こしているのです。敵地のまっただなかであるかもしれない、危険な場所です。くれぐれも注意を怠らないで」

 友人といっしょに門をくぐるとき、思わず拳を固める。

 統馬の助けが届かない場所を、はじめて自分ひとりだけで探索に赴くのだ。

「ナギちゃん、お願い。助けてね」



 順路に従って趣ある庭園をぐるりと回り、茅葺きの庵に着く。入り口の土間で靴を脱ぎ、坪庭を愛でながら短い渡り廊下を行くと、その奥が本堂だった。

「弓月さん、ラッキーだよ。ちょうど庵主さまの説法が始まるみたい」

 山根の言うとおり、広縁に囲まれた中央の畳の間にたくさんの女性がぎっしりと身体を寄せ合うように座っている。

 詩乃たち三人も、部屋の端にもぐりこんだ。

 ほどなく、妙幻庵の庵主が姿を現した。

「ようこそ、いらっしゃいました。わたくしは幻彰げんしょうと申します」

 年齢は40歳代ほど。鼠色の袈裟、白い頭巾からのぞく肌はなめらかで、目尻の小さな皺が、美しくも穏やかな笑みを彩っている。

 若い女性のあいだから、感嘆のため息がもれた。

 彼女は正面の手本台の前に座すと、脇息にゆったりと肘を預けた。その拍子に、袈裟の胸に下げる小さな鈴がちりりと音を立てる。

「旅とは、人の心とのふれあいです」

 部屋にいるひとりひとりの顔を見回しながら、丸みのある声で語りかける。

「数年来の友人と夜を徹して語り、今まで知りえなかった意外な素顔に触れることも、旅の醍醐味。ひとり旅ならば、道行く旅人同士が袖擦り合うときに交わす笑顔もまたよし。その地に暮らす人の家々の軒先にある何気ない生活の様子に、ふと旅情を感ずることもあるでしょう」

 皆うなずきながら、聞きほれている。

「しかしながら、旅とは日常から逃がれることでもあるのです。単調な勉強や仕事だけの毎日から。もつれてしまった友人関係から。一番理解してほしいのに、理解してくれない家族から。私たちは、行き詰まった心をかかえて逃げ出してきてしまう。そういう方も、この中にはおられるでしょう」

 それを聞いたとたん、詩乃の肩がぴくりと動いた。

 お 父 さ ん――、 お 母 さ ん。

「旅とは、新しい自分を発見をすること。新しい発見とは、とりもなおさず古い自分を見直すこと。旅の空の下、あなたはそう望むだけで新しい自分になれる。御仏があなたにお語りになるのを、心を開いて聴くことがその第一歩なのです」

 幻彰の声は、高く低く、ゆりかごのような緩やかな韻をもって部屋に流れた。涙を流している者もいる。

 心満ちる不思議な感動に、誰もがひたっているようだった。



「ふうん、これが声明の伴奏に使う十二音階のしょうか」

 三千院の北隣の實光院。神林は、自由に触れるのをいいことに、展示の石琴や編鐘を叩きまくっている。

「おい、矢上。こっちで抹茶がもらえるんだぞ、飲まんのか」

「いらん」

 統馬は苛立ちを隠そうともせず、庭に出た。ここの庭園には紅葉の隣で満開になるという「不断桜」が植えられているが、今年は暖かい気候のせいか、花も紅葉もまだ姿を見せていなかった。

 思いはいつのまにか、詩乃に戻っていく。

 あの庵の内部には、どれほどまがまがしい妖がはびこっているのか。その只中に詩乃をやってしまった後悔がずっと胸にうずいている。

 何か取り返しのつかない間違いをしたような気がしてならない。

「矢上は、冷酷な顔をして、意外とアツい奴だな」

「え?」

「僕は見逃したが、弓月委員長と教室でキスまでしたそうだな」

「……」

「今も彼女と離れているから、うわの空なんだろう?」

「なにを、たわけたことを」

 ますます腹を立てた統馬は、神林を置いてさっさと寺を出てしまった。

「怒るなよ」

 負けじとズンズン、巨体が追いかけてくる。

「そんなことはどうでもいいんだ。チャネラーの修行とはまず、生涯ただひとりの師にめぐり合うことだと本で読んだ。僕はあの日、きみがその師ではないかと潜在意識に強く感じたんだ」

「気の迷いだ、忘れろ」

「そんなわけはない」

 神林は両腕を広げて、行く手に立ちふさがった。

「頼む。霊力をつけるために、毎日どんな修行をしたらいいか教えてくれ」

「おまえには霊力などない。修行するだけ無駄だ」

「おお、そのにべもない答えこそ、すでに修行に入っているんだな。弟子の本心を試しているんだろ」

 彼を殴り倒したくなるのを堪えて、統馬は天を仰いだ。こうなったら、何か答えてやるしかないのか。

「教えてくれ、霊力を高めるにはどうすればいい」

「修行などいらん。ただ、一念をもって願うこと」

「何を願うんだ?」

「国を守り、地を守り、人を守りたいと」

――だから、何ひとつ守ることができなかった俺には、人に教える資格などないんだよ。

「すばらしい! それこそ僕が長いあいだずっと求めていたことばだ!」

 神林は狂喜のあまり小躍りしている。

「ち、ちょっと待ってくれ。今のは一言一句漏らさぬよう、メモするから。

『霊力とは、すなわち国を守り、地を守り、人を守りたいと願う心』。これすなわち、愛にほかならん」

「あ、愛?」

「そうだ。愛の力を高めよという、至高の存在からの教えを、僕は今確かに聞いた!」

「……き、気色わるい」



「隣のお堂に、ご本尊の弥勒菩薩がおわします。ぜひお参りしてお帰りになられますよう」

 30分あまりで説法は終わり、妙幻庵の庵主は去って行った。

「あこがれの有名人を近くで見られてよかったね、弓月さん」

「ええ」

 大勢の人間の移動する喧騒の中で、詩乃たちも広縁に出た。

「あの、ごめん、ちょっとおトイレに行きたいんだけど、先に門の外に行っててくれる? 神林くんと矢上くんが待ちくたびれているといけないから」

「いいわよ」

 詩乃は靴箱のところで山根たちと別れると、人々の目を盗んで池をぐるりと回り、木立の後ろに隠れた。

 リュックサックから、久下に渡された小振りの錫杖を取り出す。

「私に、できるかしら」

「大丈夫じゃ。わたしが念を合わせている。練習したとおり落ち着いてやりなされ」

 草薙の応援を背に、大きく息をして、庭の角に向き合って立った。

「オン・サラサラ・バザラ・ハラキャラ・ウン・ハッタ」

 統馬もT高で使っていた四方結の結界である。夜叉やその他の邪念を持つ霊が出入りすると、即座に術者にわかるようになっている。この庵に夜叉の存在があれば察知できるよう、ひそかに結界を張ること。それが、今回の詩乃の任務なのだ。

 真言を唱え終わると錫杖は、背後の割れた竹垣に溶け入るように見えなくなった。

 続いて、次の地点に向かう。四隅にそれぞれ錫杖を立てる必要があるのだ。

 最後の錫杖を無事立て終え、ほっとして庵の裏を通って表門に向かおうとしていたときだ。

「もし、あなた」

 心臓が飛び出るかと思った。声の主は、あの幻彰だったのだ。まさか、気づかれたのだろうか。

「先ほどは、お友だちといっしょにいらっしゃいましたね。こんなところで、一人でどうなされました」

「あ、あの、トイレを探していて、迷ってしまって」

「ご不浄なら、靴を脱いだ土間のすぐ脇ですよ」

 彼女は下駄で苔むした地面を踏み、近づいてきた。

「お説法はいかがでした?」

「は、はい、あの、とても感銘を受けました」

「どのあたりが?」

 にっこりと笑みながら、詩乃の髪をそっと撫でる。そのとき、胸の鈴がまたちりりと鳴った。

 詩乃は顎を少し持ち上げ、おずおずと、優しく自分に注がれる尼僧の眼差しに見入った。

「家族、特に両親を大切にするようにと。現世を越え、時を越えるえにしを、家族はともにつないでいるのだからと……」

「そう、私のところからでも、あなたがそこで俯いてしまったのが見えましたよ」

 幻彰のほっそりした指先が、詩乃の髪にからまる。「あなたには過去に、何かとても悲しい家族との別れがあったようですね」

「はい……」

「それは、どなた?」

「3歳年上の姉が……、私の小さいとき、亡くなったんです」

「そう、おかわいそうに」

「姉は、姉は、私の……」

 はっと気づくと、袈裟姿の尼僧は背を向けて、石畳を歩いていくところだった。

「お友だちがお待ちかねですよ。早く行っておあげなさい」

「は、はい」

 詩乃はしばらく、その場に呆然と立ち尽くす。

「詩乃どの? どうした?」

 草薙が不思議そうに訊ねた。

「あれ、おかしいな。私……今、何をしゃべっていたんだろう」



「遅いぞ、弓月委員長」

 門の外で、班の全員がふたたび合流した。統馬と顔を見合わせたとたん、詩乃はなぜだか泣きたくなる。大役を果たした気のゆるみだろうか。

「ところで、予定では鞍馬寺に移動してから昼食をとることになっているのだが」

 また、神林があれこれと仕切り始める。

「ええ」

「問題がひとつある。平日は大原・鞍馬間のバスが運行していない。宝ヶ池までバスで戻って、叡山電車で行くことになると、一時間以上かかるぞ。ちょっとこの計画は無理すぎやしないか」

「ええ、でも、あの……」

 詩乃が口ごもっていると、

「なんだ、矢上じゃないか!」

 狙いすましたようなタイミングで、大声が響いた。

 見ると、大学生くらいの男が駆け寄ってくる。眠たそうな目をして、髪を短いしっぽのように後ろで縛った、ひょろ高い男。

 もちろん、夜叉追いのひとり、矢萩龍二だ。

「久しぶりだな。高校を転校したと聞いていたが、こんなところで会えるとは。俺は今、こっちの大学に来てるんだ。

……おい、見たところ、おまえ修学旅行中か? 奇遇だなあ。今日は俺、六人乗りのバンに乗ってきてる。なんなら、目的地まで送ってやろうか?」

 暗記したまんまの、一本調子のセリフ。

「龍二の奴、予想していたこととはいえ、なんてヘタクソな演技なんじゃ……」

 草薙が呆れ果てて、つぶやいた。

 



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