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夜叉往来  作者: BUTAPENN
番外編
33/63

番外編  桜舞ふ頃



 ようやく秋の気配が漂ってきた頃であった。

 東京近郊T市の官公庁街のはずれに、おどろおどろしい看板を掲げた怪しい事務所がある。

『久下心霊調査事務所』

 今しも、紫のメッシュを入れた白髪の、ド派手な老婦人がドアをノックしている。

 それに応えて、中から現れたのは、清楚な服を着た高校生の少女である。

「あ、鷹泉ようぜんさん、いらっしゃいませ」

「詩乃さぁん、お久しぶり。会いたかったわあ」

 チュッ。ムギュ。すりすり。内閣府特別調査室の室長で元華族、という立派な肩書きもなんのその、鷹泉孝子のいつもの熱烈な抱擁である。

「あ、あ、く、苦しい~」

 耐えかねて、弓月詩乃は音をあげた。

「あら、久下さんは?」

「それが、ちょっと危険な夜叉追いのお仕事が入ったので、矢上くんとナギちゃんといっしょに、おとといから東北のほうに行ってます」

 東北の山あいの村。そこで起こった恐ろしい呪いの惨劇……だなどと、この事務所の所長、久下尚人はさんざん詩乃を脅かして行った。これでは、さすがの詩乃も同行したいとは言えるはずはない。

 わずか数日といえど、矢上統馬のそばにいられないのは寂しい。それほどに彼は、詩乃にとって思いのすべてとなりつつあった。

「私、そのあいだ事務所のお留守番を頼まれてるんです」

「それは残念。久下さんのいつもの、『孝子さぁん、おやめなさい!』が聞きたくて来たのに」

「うふふ。確か、久下さんの前世は、孝子さんの大叔母さんだったんですよね」

 孝子の大叔母、つまり祖父の妹にあたる鷹泉董子ようぜんとうこの生まれ変わりが久下尚人だ。董子は昭和28年に没し、そのおよそ15年後の昭和44年に、久下尚人が誕生している。

 そして久下は、鷹泉董子のみならず、僧侶・慈恵から五代にわたる転生の記憶を全て持つという。

 またチャイムが鳴った。いつも暇な事務所は、今日はちょっとした千客万来の様相だ。

 ドアを開けると、そこに立っていたのは、長い髪を馬のしっぽみたいに縛り、眠そうな目をしている大学生の青年。この事務所に所属する夜叉追いのひとり、矢萩龍二だ。

「ちわーす。……あれ、今日は珍しいメンツだね。久下さんは?」

「矢萩くん、こんにちは。久下さん、明日まで帰ってこないの」

「ちぇっ、今月のバイト代、前借りしようと思ってたのに。無駄足かあ」

 頭を掻いている龍二に、

「そうだわ。今日は美味しい桜餅を持ってきたの。いっしょに食べましょう」

 孝子がバッグから、有名和菓子店の包みを取り出した。

「うにゅぅ。俺、田舎育ちだから、あんこモンには目がないっす」

「そしたら、とっておきの玉露を入れるわね」

 夜叉追いたちが今頃、決死の戦いを演じているであろうというのに、東京の事務所ではのどかなお茶会が始まった。

「おお、うんまい」

「ほんと」

「秋に桜餅もオツなものねえ」

 ずずとお茶をすすり終わると、龍二が居住まいを正した。

「それはそうと、鷹泉さん、一度あんたに聞きたいと思ってたんだ。久下さんも統馬もいないときじゃないと、怖くて聞けないからな」

「あら、何かしら」

「久下さんの前世って、董子とうこって女だったんだろ。そして統馬に片思いして、一生独身を貫いたってわけだ。

……それくらいの大恋愛だから、男に転生した今も、久下さんは統馬に惚れてるんじゃないか。そういう疑惑があるんだけど、これ本当かなあ」

「あ……。あはは。矢萩くんったら……冗談ばっかり」

 触れてはならないことに触れられてしまったという表情で、孝子と詩乃は顔を見合わせている。

「こんな与太話でも言ってないと、夜叉追いなんて重労働やってられねえからな」

 矢上一族の傍系・矢萩家の子孫である龍二は、統馬に対して複雑な感情を抱いているらしい。

 無理もない。一族が四百年前滅びたとき当主であった矢上統馬は、責任を負うどころか、夜叉を体内に宿したまま今も永遠の時を生きているのだから。

 そんな彼に対する怒りと畏怖、そして一抹のあこがれ。ひとことで言えば「苦手意識」をふりはらうために、龍二もいろいろと苦労しているのかもしれない。

「そうねえ。子どもの頃、董子おばあさまには統馬のお話をせがんだものだけど。久下さんからは、いまだに直接、話を聞いたことはないのですよ」

「董子さんのお話って、どんなだったんですか」

 詩乃が興味しんしんで訊ねた。

「今から100年以上前の話になるよな」

「私も聞いてみたいな」

「そうねえ、午後のお茶飲み話にちょうどいいかもしれないわね」

 孝子は湯飲みを手に、ほうっと吐息をついて、事務所の天井を見上げた。その微笑からは、かつて孝子自身も統馬に抱いていた思慕の情が、かすかににじみ出ている。

「それはちょうど、19世紀から20世紀に移り変わる頃。日本がロシアと戦争を始める前夜になるかしら」




 孝子さん。

 私がこのお話をしてあげられるのは、もうこれが最後かもしれませんねえ。

 私が鷹泉董子ようぜんとうことしての生の中で、どのように矢上統馬と出会い、彼とともに戦うようになったのかを最後に語れたらと思います。

 あれは、明治34年。帝都東京の桜のつぼみは、まだまだ固い季節でしたよ。



 寒さの染みる夜更け、家路をたどる馬車の中で、私はドレスに羽織ったショールを掻き寄せておりました。

「董子おじょうさま。喉の奥まで見えるおおあくびをなさって。まさか舞踏会でも、そんなお振るまいをなさっているんじゃないでしょうね」

 車内では世話役の老女が、くどくどと文句を言っていました。

「ふふ。ちゃんとトミの言いつけどおりにやっています。エレガントに淑女らしく、ぼろを出さないように」

「まったく。おじょうさまくらいの歳になれば、いつ御輿入れが決まっても不思議ではないのですよ。殿方というものを、少しは意識なさいませ」

「はいはい」

「『はい』は一度でけっこうでございます!」

 私はそのとき、15歳になったばかり。母は数年前に亡くなり、4歳年上の兄は、英国に留学中。伯爵である父と、駒込にある屋敷で暮らしていました。

 社交界にデビューしてからは毎週のように、公爵家の園遊会や、歌舞伎座での観劇や東京倶楽部での夜会と忙しくはしているものの、

……正直言って、すべてが退屈でした。

 私とトミを乗せた馬車が、屋敷の門の前につけようとしたとき。

 車輪の音が止まったとたん、なにやら男たちの罵声や悲鳴のようなものが聞こえてきたのです。

「なにかしら」

 そして、突然馬車の扉ががたりと開きました。

 ひとりの男が車輪の泥よけに足をかけ、中をのぞきこんだのです。

「無事か?」

 薄汚れた着物と袴を着た、若い書生風の男。

「な、なんですか、無礼な」

 トミは気丈にも、私を男からかばおうとしました。男の目は、車内を素早く舐めたあと、じっと私に注がれました。

 暗い夜の底のような瞳。背筋にぞっと何か冷たい衝撃が走るようでした。

「な、何用です」

「無事ならば、それでよい」

 男は低い声でそう言うと、去り際にふと言葉をこぼしました。

「……なぜ、女なんだ」

 そして、来たときと同じように唐突にいなくなったのです。

 門番たちがそれと入れ違うように駆けつけてきました。

「お、おじょうさま」

 トミがへなへなと座り込むかたわらで、私は茫然と、男の消えて行った夜の街並を見つめていました。



 その夜、私は眠れませんでした。

 突然の事態に対して、不覚にも一歩も動くことができなかったからです。ひととおりの護身術の心得はあったはずなのに。

 思い返せば、男は手に木刀のようなものを持っていました。もしあれで襲いかかられたら、ひとたまりもなかったでしょう。

 怖いというよりも、自分の弱さが悔しくて、情けなくて、涙がこぼれます。

 男に生まれたかった。

 強い男に生まれて、海軍の将校になるか、兄上のように政治家になるための勉学に励んで、立身出世の道を歩みたかった。

「なぜ、女なんだ」

 男がつぶやいた言葉が、いつまでも耳に残っています。その声にほんの少しこめられた哀しい響きは、気のせいだったのでしょうか。

 なぜ見知らぬ私に向かって、そんなことを言ったのでしょうか。目的はなんだったのでしょうか。

 そして何よりも、初対面のはずなのに、彼のことを懐かしく感じるのはなぜなのでしょうか。

 もう一度会いたいと、強く思いました。



 翌日、父の書斎に呼ばれました。

 まだ早朝だと言うのに、父はすでに外出の身支度を整えていました。

「今朝は、委員会前の打ち合わせがあるので、手短に話さねばならん」

 父、鷹泉治臣ようぜんはるおみは貴族院の議員で、内閣の閣僚のひとりです。その頃は、事のほか多忙をきわめ、家で食事を取ることもほとんどありませんでした。

 その理由は、今政府や議会をまっぷたつに割っている外交の大問題らしいのですが、私には詳しいことは何も教えてくれないのです。

「執事から聞いた。ゆうべ門のそばで、不審な者が馬車に押し入ろうとしたらしいな」

「はい」

「けさ周辺を調べると、付近の茂みで乱闘の跡が見つかったらしい。下賎の内輪もめのたぐいだとは思うが、用心に越したことはあるまい。これからは通学にも、ささいな外出にも、必ず護衛をつけることにする」

「はい、わかりました」

 いつも素っ気ない父との会話ですが、この日は特別に素っ気なく感じました。それは、父が心中に渦巻く焦燥と懸念を押し隠すためであったことに、そのときの私は気づく由もありません。

「それでは、行ってくる」

「はい。あ、お父様」

 私は、父のネクタイをまっすぐに直してあげました。

 母が亡くなってからというもの、これが私の毎日の日課です。父のタイはいつも少しだけ曲がっていて、まるで私の仕事を取り上げないために、わざとそうしているかのようでした。

 玄関のところまで出て、丁寧にお辞儀をして父の乗った車を見送りました。

 空は青く広く澄み、近づく春の訪れを告げていました。



 二日ほど経った、夜のことでした。

 私はふと何かの気配に目を覚ましました。

 そして目を凝らし、窓から差し込む月明かりを切り取る人影に気づいたのです。

「く、くせもの!」

 大声を上げようとしたとき、その影は、まるで何かの魔法ででもあるかのように瞬時に、私の横たわっていた寝台に飛び乗りました。そして、私の体の上におおいかぶさると、片手で私の口をふさぎ、もう片方の手で小柄こづかを押し当てたのです。小柄とは、刀の鞘に差し込まれている、小さな刀のことです。

 それは、あの夜、馬車で会った男でした。

「声を出すな」

 身体をねじって逃れようとする私の首筋には、ますます小柄のひんやりと冷たい感触が強くなりました。

「大声を出さぬと約束するなら、手は離す」

 私は観念しました。隙を見て助けを呼ぼうとしても、この男の素早さなら、その前に喉を描き切られてしまうでしょう。

 こっくりと目で合図を送ると、男はようやく手を離し、かがめていた背を伸ばして私を見下ろしました。

 こんな状態にあるのに、不思議と恐怖は感じませんでした。男の動作に荒々しさはなく、その体から伝わる温もりは、優しささえ感じさせるものだったのです。

 男はまだ、私を見下ろしていました。そして困ったように眉をひそめました。

「驚いたな……。ほんとうに、今のおまえには乳房まであるのか」

「な、な、何ですって」

 私は恥ずかしさのあまり、卒倒しそうになりました。

 組み伏せられたときに、男の腕が私の胸に当たっていたことに、今さらながら気づいたのです。

『わはは。相変わらず、女の扱いが下手なヤツじゃのう』

 そして、もっと驚いたことに、彼の手の中の小柄がしゃべったのです。

 小柄はみるみるうちに、ふわりと長い尻尾のある白い動物へと姿を変えました。それはどう見ても、小さな狐にしか見えません。

慈恵じけい、いや、董子どの。久しぶりじゃのう」

「き、狐がしゃべった……」

「草薙と申す。そして、こやつは矢上統馬。どうじゃ、わしらを見ても、前世のことを何も思い出されぬか」

 混乱した私の頭に、草薙、統馬、前世ということばが素通りして行きました。考えが、ついていかないのです。

「私のことを知っているのですか。あなたたちは」

 統馬という名の男は、寝台のかたわらに降り立つと、じっと私を見つめて言いました。

「俺はおまえが死んでから今まで、35年待った。女に転生するなどとは最初は信じられなかった。だが、おまえは間違いなく、慈恵だ。

夜叉を追うために、俺にはどうしてもおまえの力が必要なのだ。とっとと自分のことを思い出せ」

「夜叉……ですって」

「統馬。せかしてはならん」

 草薙なる白狐が、いましめるように言いました。

「董子どのには董子どのの、それまでの15年の人生があるのじゃ。御仏の時が来れば、必ず思い出す」

「……」

 統馬はぷいと顔をそむけると、そのまま仏蘭西窓の陰に身をひそめて、外をうかがいました。

「董子どの。そなたはもともと江戸時代におわした慈恵という仏僧。それから二回の転生を経て、幕末に『新右衛門』という名の勤皇派の志士に転生した。だが、夜叉に憑かれた者たちとの戦いの中で、わずか20歳で命を落としたのじゃ」

「え……」

「統馬は、前世のそなたを守りきれなかったことを悔いて、今も自分を責めておる。だから、今生では何としても、そなたを守ろうとしておるのじゃ」

「……私を、守る?」

「董子どのは今、狙われておる。そなたの身柄を幽閉して、お父上の鷹泉伯爵を脅迫しようとしている者どもがいるのじゃ」

「なんですって」

「しっ!」

 そのとき、統馬の鋭い声が飛びました。「奴らが、来た」

 彼は腰に差していた刀を鞘のまま握り直すと、仏蘭西窓をばっと開け放ち、庭に飛び出ていきました。

 窓辺から外を見やると、なんと十数人の暴漢たちが押し入ろうとしているのです。けれど、彼はまったく動じる気配もなく刀を構えました。

 いったい何流の剣であるのか、私にはわかりません。月明かりの下、まるで何かの舞いを見ているようにさえ思える静かさと美しさで、彼は敵をことごとく打ち伏せていったのです。

 私が外にまろび出ると、

「使用人たちが騒ぎだした。もう行く」

 統馬は屋敷のほうをちらりと見て、そのまま塀をひらりと飛び越え、姿を消しました。

 私は夜着のまま、茫然と庭の真ん中に立ち尽くしました。

「董子おじょうさま!」

 トミの悲鳴が遠くで聞こえます。

 まるで何もかもがが、春のうたかたの夢に思えました。

 しかし、夢であるはずもなく。今自分が、人知を超えた不可思議な出来事を見聞きしたことを、信じないわけにはいきませんでした。



 自宅に賊が侵入したことを伝えられ、父は夜更けの議会から呼び戻されました。大勢の警察官が家の中まで入り込み、明け方まであちこちを調べていました。

 庭に倒れているところを逮捕された者たちは、取調べを受けても、「見知らぬ者から小金を握らされて命令を聞いただけだ、何も知らない」の一点張りでした。

 父はその背後にいる黒幕が誰か、当然知っていたでしょう。しかしそこに至る証拠は何もありませんでした。

「ゆうべはよく眠れなかったようだな。無理もない」

 食卓で、父は食の進まぬ私の手元を見つめて、言いました。

「これからは、さらに屋敷周辺の警備を厳重にさせる。何、ただの夜盗の一味に違いない」

「お父さま。昨夜の賊たちは私を狙っていたと聞きました。董子を人質にして、お父さまを脅迫する魂胆だと」

 それを聞いて、一瞬だけ父の顔色が変わりました。「誰が、そんなことを申した」

「私を助けてくれた方です。いったいお父さまは、これほどの政敵をお作りになるような、どんなお役目をなさっているのですか」

「何も案ずるには及ばない」

 すぐに父は、元の落ち着いた表情に戻りました。

「今、帝国政府は、近頃のロシアの南下政策に対して、日露協商論と日英同盟論の二派に分かれて対立しているところだ。

わたしは、戦争を回避するためにはロシアと協定を結ぶべきだと思っている。しかし、あくまで英国と同盟を結び、ロシアを討つべしと論ずる意見も根強いのだ」

「では、お父さまが強いられて好戦論に回ることで、情勢が変わるかもしれないのですね」

「まさか、わたしひとりのことで国の政治が動くなどということはあるまい。それは考えすぎだろう」

 父はそう言って、私の心配を笑い飛ばしました。いえ、笑い飛ばすふりをしたのでしょう。

 私は、政治のことに疎い小娘でした。

 父の奉ずる日露協商論というのも、満州における利権をロシアに認める代わりに、韓国における利権を独占するという協定。結局は、よそさまの国を土足で踏みにじる行為には変わりないことも、当時はわかりませんでした。

 けれど、「極東の憲兵」として欧米列強の後押しを受け、武力をもってアジアを侵略せんとしていた日本の中で、父が戦争をなんとしてでも避けたいと願っていたこと。

 これだけは、娘として弁明してあげたいと思うのです。

 それ以来、私の周辺は、ますます警備が強固になりました。

 夜の外出も取りやめになり、どこに行くにも厳重な見張りがつき、毎日が息がつまりそうでした。



 ようやく桜が咲き初め、淡い桃色の華やかな気配が街を飾っていくのが、馬車の窓からも見えるようになった頃。

「あら」

 女学校からの帰路、家の近くの川の橋をとおりかかるとき、私は統馬を見つけたのです。

「止めて!」

「おじょうさま。こんなところで寄り道なさっちゃ。おまけにあれは、馬車に押し入った汚い書生ではありませんか。あんな者に近づいてはなりませぬ」

「だいじょうぶ、あの人は敵ではありません。私を人さらいから守ってくれたのです。――ほんの数分だけですから」

 反対するトミと護衛に馬車にとどまるようにきつく命じてから、私は若草の萌え出した土手を一気に駆け下りました。

 統馬は草の上に寝転んで、ぐっすり昼寝を決め込んでいました。

 その無防備な子どものような寝顔に、思わず笑みがこぼれます。

 私がそばに腰をおろすと、とたんに彼は目を覚まし、面倒くさそうに言いました。

「……何の用だ」

「ひとことお礼が言いたいのです。私、あなたを曲者呼ばわりして、きちんとお礼を言っていませんでしたから」

「俺とおまえには、百年以上の付き合いがある。今さら礼を言われる筋合いはない」

「やっぱり、そのお話は何かの間違いです」

 私はくすくす笑いながら、答えた。

「私は慈恵という僧侶の生まれ変わりではありません。どんなに考えても、何も思い出せないんですもの」

「……」

「でも、そう思い込んでいたから、あそこまでして私を守ってくださったのですね。ごめんなさい。本当に感謝しています」

 統馬は顔をしかめただけで、また目をつぶってしまいました。照れくさげに。

 春を思わせる暖かい湿った風が、川を渡って吹いてきます。私は久しぶりに満ちたりた、解放された気分でした。

 この矢上統馬という人のそばに、自分もいること。それがこのうえない安心感を与えてくれることに、私は気づき始めていました。

「おまえは、今幸せなのか?」

 突然、彼が目を閉じたまま、問いかけてきました。

「え……」

 私は、答えに窮しました。15年の人生の中で、そんなことを聞かれたことはありませんでしたから。

「今の生活は幸せなのか?」

「……ええ、幸せです」

「そうか」

 統馬は、私の答えを反芻するように、それきり黙ってしまいました。私たちは言葉を交わすことなく、並んで土手に座っていました。



 夜、私は何とも言えぬ嫌な気分で起き上がりました。頭ががんがんと痛むのです。

 陶器の水差しから水を汲んで飲むと、しばらく窓からの冷気に当たりました。そして、ガウンを羽織って部屋の外に出ました。

 廊下には誰もいません。警備の者が立っていたはずのところにも、です。

 私は、かすかな胸騒ぎを感じて、ホールを横切り、ふと二階を見上げました。

 そこにひとりの男が立っているのを見たのです。猫のように暗闇に爛々と光るふたつの目。

「ひいっ」

 異様な不気味さを感じ、私は思わず悲鳴を上げました。

 見覚えのある顔でした。使用人のひとりです。でも、同時にそれはまったく見知らぬ顔でもありました。何かに取り憑かれたような、邪悪でうつろな表情なのです。

 「夜叉」。

 統馬や草薙の言っていたことばを思い出しました。

 男は超人的な動きで、手すりを乗り越えると一階にどすんと飛び降りました。私を狙っていることは明らかです。

 私は逃げようとしました。しかし、夜着の裾は長いうえにレースをあしらっているために、走る前に私は足をもつれさせてしまいました。

「きゃあ!」

 男は私の喉笛をぐいとつかみました。

 殺される? 私を誘拐することが狙いだったはずではないの? とっさにいろいろな考えがめぐりました。

 男の大きな手は、ますます力をこめて私に食い込み、血管が破裂したかのように目の前が真っ赤に変わりました。

「とう……ま、あ」

 あえぎながら、統馬の名を呼んだそのとき。

 私の頭の中に、まったく知らない思考が入ってきたのです。

 ぐるぐると意味のわからない言葉の羅列が浮かんできました。思わず、それをそのまま口にしました。

「ナウマク……サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサドバダトン・ソワカ!」

 男は、ぐっとうめくと、私から飛び退りました。

 今の呪文のようなことばが効いたことは確かです。

 いえ……。私はこのことばの正体を知っている。これは――真言陀羅尼。夜叉を祓うための文言。

「董子!」

 鋭い叫びとともに、統馬が部屋に飛び込んできました。

 そして、鮮やかに刀を鞘から払うと、

「オン・バザラヤキシャ・ウン」

 大上段から斬り下ろしたのです。

 男は声もあげずに、その場に倒れました。

「だいじょうぶか」

「は、はい」

 統馬は、つらそうに肩で息をしていました。

 夜叉を祓うとは、夜叉に取り憑かれた人間や霊の持っている恨みや憤怒を一身に浴びてしまうこと。私は誰から教えられたわけでもないのに、そう知っていました。

「奴らは直接、夜叉に憑かれた者を送り込んできた。俺たちが夜叉追いであることを嗅ぎつけられたのかもしれん」

 私はそのことばを聞いて、理性を失いました。自分が夜叉追いと決めつけられたことへの怒り。これからは、幾万もの夜叉に狙われるかもしれないという不条理への恐怖が、心の底から湧き上がってきたのです。

「そんな。私は夜叉追いなんかじゃない。関係ない! ……関係ないのに」

 そう言って泣き叫ぶ私を、統馬はじっと見ました。無表情に、しかしほんの少し、悲しそうな目で。

 そのとき、騒ぎを聞きつけて、屈強の者たちが部屋になだれこんできました。

 抜き身の刀を下げている統馬。床に伏している私。そして、その間に倒れているこの家の使用人。

 どう見ても、状況は誤解されるものでした。

 弁解の余地はなく、警備の者たちにつかまることを嫌って、統馬は反対側の窓を破って逃げていきました。

 私は事情を説明することもできずに、何を聞かれてもただ泣くしかありませんでした。

 襲われたことがショックだったのではありません。

 すべてを思い出してしまったからです。

 私が本当は鷹泉董子などではなく、統馬を助けて4回転生した慈恵という名の僧侶であり、そして夜叉之将をすべて祓うまで、永遠に転生を続ける宿命にある存在だということを――

 否応なく思い出してしまったからなのです。



 私はそれから数日のあいだ、高い熱を出して寝込みました。

 床から起きたあとも、ぼんやりと部屋の中で過ごしました。

「董子おじょうさま、お願いですから、どうぞ召し上がってください」

 トミがあれこれと勧めてくれる好物でさえ、口に運ぶことができませんでした。

 前世の記憶の中でもとりわけ、幕末の動乱の中で生きた新右衛門の経験した、死の直前の恐怖と苦痛が私をおびえさせていたのです。

 夜叉を追い続ける限り、私の人生から戦いはなくならない。

 あてどのない旅に暮らさなければならなかった彼ら。伯爵令嬢として何不自由のない生活をしてきた私にとって、それは気の遠くなるような苦難の連続でした。

「トミ……、いやです。私は董子であることを捨てたくない……」

 あれほど退屈だった園遊会や舞踏会でさえ、捨てなければならないとわかった途端に、なつかしく輝いたものに見えるのはなぜでしょう。

「おじょうさま。お気をしっかりとなさいませ。あなたは董子さまです。他の何になられることがありましょう。

……あの男なのですね。あの男に出会ったことが、おじょうさまを苦しめているのですね」

「ちがう、ちがうの……」

 トミにも父にも、私の苦しみは理解できませんでした。

 父は私が夜叉を追うために家を出たら、どれほど悲しむでしょう。卑しい身分の男と駆け落ちをしたと誤解なさるでしょうか。

 それに私がいなくなったら、父のネクタイは誰が直すのでしょう。

 娘として、愛する父を悲しませたくはありませんでした。

 そして何よりも。

 私は女であることも捨てなければならない。統馬に対して抱き始めていた燃えるような想いさえも、私には許されないものだったのです。



 その夜が来ました。

 いつもとまるで違う、特別な夜であることは明らかでした。空気はざわめき、巷にさまよう霊どもがキイキイと悲鳴を上げていました。以前の私なら聞こえないはずの声でした。

 いつのまにか、統馬は私のそばに立っていました。

「今夜、上位の夜叉がこの北にある神社に手下どもを集めている。俺は先回りして、そいつらを一気に叩いてくる。そうすれば、おまえを直接、夜叉が襲うことはもうないはずだ」

「……」

 私はじっと項垂れて答えませんでした。今から彼が向かおうとしている戦場にどんなことが待っているかを、具に感じ取ったからです。

「おまえは、ここにいろ。そして、鷹泉董子として生きろ」

「え……?」

 意外なことばに、思わず顔をあげると、

「女であるそなたに夜叉追いとして生きろというのは、むごい話じゃからのう」

 草薙も寂しそうに言います。

「でも、それでは、あなたは……」

「俺は、おまえが次の生を受けるまで、また何十年か待つ。……今度こそ、男に生まれてくれ」

 統馬はうっすらと笑うと、身体をひるがえしました。

「ただ、言っておく。夜叉之将はこの世に戦を引き起こすために、あらゆる手立てを講じるだろう。おまえの父がいくら止めようとしても、それは止められまい。

人と人との争いこそが、人間を苦しめる最上の手段、夜叉之将に与えられた使命だからだ。俺も、そうやって魂を食らってきた。……この半遮羅はんしゃらもな。

これは、本来俺ひとりの戦いだった。……おまえをこんなにも長く巻き込んでしまって、すまない」

 彼はそう言い残して、去って行きました。

「統馬……統馬!」

 私は月の清かに照る夜空に向かって、いつのまにか叫んでいました。涙があとからあとから頬を伝うにまかせて。

 統馬。あなたが好きです。

 でも、私の前に広がっている道は、ただふたつしかない。

 あなたと別れ、あなたへの想いを抱きながら鷹泉董子としての平和な生をまっとうするか。

 それとも、あなたへの愛など無かったことにして、僧侶・慈恵の生まれ変わりとしてあなたのそばで戦うか。

 私は……どちらを選べばよいのでしょう。



 統馬と草薙は、近くの神社の境内に来ていました。

 神社仏閣といった霊場は、苦しみの癒しを求めて来る霊たちを夜叉が取り込み、みずからのしもべとして捕まえるための恰好の餌場なのです。統馬たちは数千の夜叉と、今まさに対峙しようとしているのでした。

「董子どのの助けを借りずには、おまえは半遮羅には戻れぬぞ。もし夜叉八将に出くわしたら、それでどうやって戦うつもりなのじゃ」

「そのときは、そのときだ」

「相変わらずの投げやりな言葉じゃのう。まあ、わたしは地獄の底までついて行くしかないがな」

 草薙が気持ちを引き立てるように笑いました。

「あ……」

「董子どの」

 ふたりはびっくりしたように、私の方に振り返ります。

 ようやく私は、統馬に追いつきました。戦いに間に合いました。

 薄墨の袈裟。錫杖を右手に、数珠を左手に。

 桜は……夜風に舞い散り、長い髪に、あとからあとから降り注ぐばかりでした。

「董子、なぜ……」

 呆気にとられた統馬の問いをさえぎるように、私は言いました。

「統馬。今このときから、慈恵としてあなたをお助けいたします」

「董子どの……」

「さあ、草薙も。話はあとです。

……「仏頂尊勝陀羅尼」を唱えます。援護してください!」

 そうして、私たちの長い戦いが始まったのです。



 私は、そのときから女であることを捨て、統馬のそばに影のごとく仕えてきました。

 一時は鷹泉家を勘当されましたが、後年に父と和解することができたのは幸いでした。

 あの決心を、今も後悔はしていません。もうあれほどに人を愛することは、生涯ありませんでしたが。

 統馬の調伏により、夜叉たちは次々とその力を奪われて消えていきました。

 だが結局、ロシア側の事情により日露協商は実らず、日英同盟を結んだ日本は、日露戦争への道をひた走ったのです。

 人の死体を防塁として戦うという悲惨な戦いの果てに、大正時代というひとときの平和は来ました。

 ですが、やがて日本は、昭和十五年戦争と呼ばれる暗黒の時代に突入していき、夜叉の策謀さえ及ばぬほどの、憎悪と破壊をもたらしました。

――それは夜叉追いの力をはるかに超えた、人間の巨大な悪に翻弄され続けた時代でした。



 孝子さん。

 今、私は世を去ろうとしていますが、あなたは私の代わりに、統馬を助けてあげてください。

 悲しむ必要はありません。私はまた、来ます。

 統馬が夜叉を追い続けている限り、私もまた何度でも、この世に生を受けます。

 それが、私の宿命。私の愛のかたちなのですから。




「ぐす、ぐすっ」

 詩乃はハンカチを涙でぐしょぐしょに濡らして、孝子の話を聞き終えた。

「なんてけなげで一途なの。董子さん。矢上くんと結ばれてほしかった」

「あらあら、詩乃さんたら。それじゃあ、あなたはどうなるの?」

 自分も統馬に恋していることを忘れて董子を思いやっている詩乃を見て、孝子ははがゆい思いを心中に抱きながら苦笑した。

 女たちはいつも、統馬への思いを断ち切ってきたのよ。あなただけは、そうであってほしくない。

「俺は、久下さんのツンツン金髪頭が目の前にちらついて、どうも気色悪かったなあ」

 龍二はまだ軽口を言っている。

「ふふふ。そうね。たぶん久下さんも、男に転生した今では、統馬に対する恋愛感情というのは、とっくに無くなっていると思うのですよ。ただ、二百年の時を越えた忠誠心と友情が残っているだけで」

「へへっ。それじゃ面白くないっすよ。今頃、東北の温泉宿で、久下さんが統馬を押し倒しているって図を妄想しなくちゃ」

「やだあっ。矢萩くん。やめてよ」

 詩乃が悲鳴をあげたそのとき、事務所の電話が鳴った。

『あ、僕れす。久下れすけど』

 久下の不明瞭な声が、受話器から響いてくる。

「あら、ら、ら。久下さん。どうしたんですか? すごい鼻声で」

『それが、こっちの仕事が終わって宿に帰ったところなんでふけど。なんらか、ちょっと前から、ひどいくしゃみに襲われちゃって、止まらないんれすよ。

ハ……、ハックション!

もしかして、事務所で誰か、僕の悪口言ってません?』

「わ、悪口というか。押し倒すとか……あわわ、何も言ってませんよ」

『そうかなあ。統馬も背筋にぞくぞく寒気が走るって言ってるし。これって、新手の夜叉の攻撃れすかねえ』

「うふふ。どうなんでしょうね」

 夜叉の攻撃より怖いかもしれないですよ。百年の時を越えた恋バナシは。

 詩乃は笑いをかみ殺すのに、必死だった。







この番外編は、映像音楽つきフラッシュノベルのテキストバージョンです。

フラッシュノベルは、作者サイトにて視聴できます。

http://butapenn.com/soundnovel2/yasha2_soundnovel.html

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