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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第六話 「空に翔けるもの」
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第六話 「空に翔けるもの」(5)



 埃のたまった窓ガラスから、高い秋空にゆったりと舞うとんびの姿が見える。

 その姿をあこがれるように見上げていた統馬は、いきなり詩乃に頭をはたかれた。

「いたっ」

「ほら、そこ、よそ見しない! ちゃんと全部30回ずつ書いたの?」

「弓月。実際、おまえの本性は鬼だな」

 統馬はうめきながらも、しぶしぶ座りなおす。

「だって、鬼にもなりたくなるわよ。これじゃ」

 ちゃぶ台の上に散らばったレポート用紙を一枚取り上げて、そのミミズののたくったような字に、詩乃はふうっとため息をついた。

「筆と墨で真言を書いたら、あれほどの達筆なのに、どうしてシャーペンにアルファベットだとこうなっちゃうのかしら」

「だから、言ってるだろう。俺の手は、文字を横に書くようにはできていないんだ」

「何を負け惜しみを。パソコンの基礎講座でキータッチに手こずっておるオヤジのようなセリフを吐くでない」

 と口を出したのは、白狐に変化した霊剣・草薙。ちゃぶ台の下で、ふだん離れ離れに暮らしている片割れ、天叢雲に身体をすりつけて、親交を深めているところだ。

 統馬の住む六畳間のアパート。

 日曜と文化祭の代休にかけての2日間、詩乃はここに通いつめて彼に英語の基礎を教えていた。もちろん、夜はきちんと自分の家に帰っている。そして豪華な精進料理の弁当の入った風呂敷を手に下げて、朝早くから統馬をたたき起こすのだ。

「ナギちゃんて、いつも矢上くんと同じものを見て同じことを聞いているだけなのに、どうしてそんなに現代のことに詳しいの?」

「ふふん。わたしは昔から、一を聞いて十を知る男と評判じゃった。なにせ、京の都随一の賢人と、あざなされておったくらいじゃからな」

 草薙はもともと、平安時代に実在していた陰陽師だった。死に際してその霊力を惜しまれ、刀に魂を遷されて霊剣となったことを、詩乃は少し前に教わっている。

「それに比べると統馬のヤツは、十を聞いてやっと一がわかるかどうかの、ニブチンのトーヘンボクなのじゃ。ことさら、女の気持ちに関してはな」

 と、文化祭の日の統馬の失言へのフォローも、さりげなく忘れない。

 いつのまにか、へそを曲げた統馬はシャーペンを放り出し、ごろりと畳の上に仰向けになってしまった。

「ああん、もう、統馬くんったら」

「ほほう。詩乃どのはいつのまに、こいつのことを『統馬』と呼ぶようになったのじゃ?」

 そのとき、突然携帯の電子音が鳴り響いた。

「久下の呼び出しだ!」

 がばと跳ね起き、画面を見たときほどの統馬のうれしそうな顔を、詩乃は今まで見たことがなかった。



「詩乃さん、お久しぶりです。……すみませんでした、またまたデートの最中に呼び出してしまって」

 と謝る久下に、

「いや、おまえの電話が、今日ほど都合よかったことはないぞ」

 と強調する統馬。

 久下が所長を務める「久下心霊調査事務所」の客用ソファでは、さっそくなごやかな会話が交わされた。

「それで、今日はまた調伏のお仕事なのですか?」

「いえ、実は今日の用事というのは、鷹泉からの緊急招集がかかったのです」

「ようぜん?」

「詩乃さんにはまだお話していませんでしたね、鷹泉のお嬢さんのことは。この事務所の実質的オーナーで、私たち夜叉追いを経済的・社会的に支援してくだすっている方なのです」

 と、久下は暖かい湯気の立つほうじ茶の湯呑みを配りながら、説明する。

「夜叉に関する新しい情報が入ったと、今朝連絡があったのです。急なことだったので関東に今いるメンバーしか集まることができませんでしたが……。龍二くん、お茶が入りましたよ。こっちへどうぞ」

「え……?」

 詩乃は、キャビネットの奥から出てきた人影を見て、思わず立ち上がった。

 それほど、今の今まで、全く気配を感じさせなかったのだ。

「紹介します。こちら、矢萩龍二くん。愛媛県出身で、今は東京の大学に通っています。彼も夜叉追いのひとりです」

「矢萩? ――それじゃあ」

「ええ」

 久下は、驚いている詩乃に向かってうなずいてみせた。

「彼は矢上郷の下の村、『矢萩家』の生き残りのひとりなんです」



 デニム地のラフなジャケットにジーンズ。髪の先を無造作に輪ゴムで結び、いかにも身なりを構わない理工科の学生といった風情。口をへの字に曲げて、じろじろと詩乃を観察していたかと思うと、

「こんちは」

 と、肩をすくめたように挨拶する。

「こちらが、弓月詩乃さん。統馬が今潜入している高校の同級生で、何かと私たちを助けてくださっています」

「よろしくお願いします」

 詩乃の丁寧なお辞儀に、龍二はぽりぽりと頭を掻いた。

 矢萩の子孫だと聞かされたからだろうか。どことなく統馬に似ているような気がする。特にその愛想のなさが、と思って、詩乃は可笑しくなった。

「やはり、慈恵さんが昔からずっと探していた、矢上一族の生き残りはいたんですね」

「はい。言い伝えどおり、どういう経緯か数人があの難を逃れて落ちのびたらしいのです。それから数百年、人目を避けるように宇和の周辺にひっそりと隠れ住み、連綿と矢萩の血を守り続けてきた。その存在を近年になって鷹泉のお嬢さんが探し当てたというわけです」

「そうだよ、こちとらはいい迷惑」

 と龍二は不貞腐れたように言う。「どーでもいいけど、呼び出しておいて、本人はまだ来ないの?」

「ああ、まだ省庁会議が長引いているらしいですね」

「2時っていうから、オレ大事な実験抜けてきたんだよ。待たされた分も時給もらうからね」

「相変わらず、せこいヤツめ。バイト感覚の夜叉追いがいるか」

 草薙も彼のことはよく知っているのか、遠慮がない。

 そして同族であるはずの統馬は、先ほどから彼のことを一顧だにしない。

 けっこうこのふたりって気まずい雰囲気なのかも。沈黙の中ではらはらしながら、詩乃がお茶をすすっていると、

「ねえ、あんた」

 気がつくと、龍二が上半身を乗り出すようにして、まっすぐ彼女を見ていた。

「あんた、どうして統馬にくっついてんの?」

 詩乃に興味を持ったようだ。

「あ、あの、矢上くんがうちの高校に来て夜叉を祓ってくれて、私もそのときに憑いていた夜叉を祓ってもらって……。だから、少しでも役に立ちたいと思ったんです。矢上くんのそばにいて」

「ずっといっしょにいるってことは、統馬の正体、知ってるんだろ?」

「え、ええ」

 ちらりと見ると、統馬は無言でプイと立ち上がって、事務所の奥に行ってしまった。

「信じられないね。あいつは人間じゃない。人間のふりをしているだけの夜叉だ。そんなヤツと平気でつるんでられるなんて」

「……矢萩くんは、矢上くんのことが嫌いなの?」

 いささかムッとした調子で、詩乃は問い返した。

「ああ。あいつが当主としての責務を果たさなかったせいで、俺たちの一族は滅びたんだぞ。

小さい頃からずっと腑に落ちなかったよ。なぜ、うちの家だけが、毎朝経を読まされて、ことあるごとに滝に打たれて、こんなにたくさんの理不尽なしきたりにがんじがらめにされてるのかって。

何もかも矢萩の血の存在を夜叉に気取られぬように、秘密裡に後世に伝えていくため。その先祖からの因縁を全て知ったのは、ここに来てこいつらに会ってからだ。

あいつさえ、しっかりしていれば、オレたちはこんな窮屈な生き方をしなくてもよかったんだ。一度しこたま、ぶん殴ってやりてえよ。敵いっこないから、やらないけど」

「龍二。おまえは、自分のアイデンティティを探しに、みずから仲間に加わったはずじゃろう」

 草薙は、彼の頭にぴょんと飛び乗り、その長い髪をぎゅっと引っ張る。

「霊力を磨いて、自分が何のために生きてるのか、試してみたい。夜叉追いの仕事にやりがいがあるとまで言っておったではないか」

「そ、それとこれは話が別だ」

「別ではない。過去の不幸をどう嘆いても、何も変わるものではない。大事なのは、これから自分がどう生きるかを見極めることじゃろう」

 言いくるめられ、また頭を掻いている龍二を見て、詩乃は思わず笑った。

「ナギちゃん、矢萩くんと仲がいいのね」

「ああ、こいつも夜叉追いになった最初の頃はドジばっかり踏みおって、夜叉に取り憑かれそうになって、わたしはしばらくコイツといっしょに暮らして、結界を張ってやっておったんじゃ」

「じゃあ、私と同じなんだ」

「な、ナギちゅあん? 草薙、おまえのことか? ははは、なんじゃそりゃ」

 大笑いしている彼を見て、そんなに悪い人ではなさそうだと詩乃はひとまず安堵した。

 そのとき、事務所のドアがばっと開いた。

 詩乃はそれまで、「鷹泉のお嬢さん」という呼び名を聞いて、元華族の楚々としたうら若い令嬢を思い浮かべていた。

 しかし、そこに現れたのは派手なスーツをまとい、みごとなまでの白髪に紫のメッシュを入れた、60歳くらいの豊満な女性だったのだ。

 そして、もっと詩乃を驚かせたのは、

「おばあさまっ!」

 彼女がそう甲高い声で叫ぶなり、なんと、久下に抱きついていったことである。



「やめっ、やめっ、やめてくださいってば」

 久下はその息苦しいまでの抱擁から逃れようとむなしく試み、ついに力尽きて叫んだ。

「孝子さぁんっ! おやめなさい!」

「はーい」

 とたんに老嬢は、童女のような笑みを浮かべて、おとなしく巨体を離した。

「ああ、この『孝子さぁんっ』を聞くと、おばあさまにお会いしたという気がするのよね」

「まったく……」

 久下はよろよろとソファの背もたれに寄りかかると、口紅だらけの顔をティッシュでぬぐった。

「詩乃さん、こちらが鷹泉孝子さん。――孝子さん、こちらが弓月詩乃さんです」

「お噂はかねがねうかがっております。とても、可愛らしい方ね」

「は、はじめまして」

 詩乃はひきつった笑顔で、握手を返す。

「あれ? 久下さんのおばあさまが鷹泉さんじゃなくて、鷹泉さんのおばあさまが久下さん……?」

「ほほほ。混乱するのは無理ないわね」

 孝子はふくよかなピンクの頬をにっこりとゆるませた。

「実はここにいる久下さんの前世、鷹泉董子ようぜんとうこは、何を隠そう、私の祖父の妹、つまり大叔母にあたる方だったの」

「えええっ」

 久下が元は江戸時代の僧侶・慈恵であり、今までに五回転生していること、そしてそのうちの一回は女性として生を受けたことまでは聞いていた。だが、まさかその生き証人が目の前にいるなんて。

「大叔母さまのことを、私は董子おばあさまと呼んでいたの。私が12歳のときまで、それはそれは可愛がってくださった。上品で、不思議な魅力を持った方で、若い頃はさぞかしお美しかったろうに、生涯独身を貫かれたのよ。そして、統馬のことをくれぐれもよろしくと言い残して逝かれたの」

 「ね」と孝子はウインクし、久下は照れくさそうに微笑んだ。

「それでは、矢上くんともそのときから……」

「ええ、董子おばあさまは久下尚人として転生するまでに15年以上かかりました。統馬はそのあいだ私に数えるほどしか会いに来てくれなかったけれど、私はおばあさまの遺言どおり、なんとか彼を影から支えようと努めたわ。私自身には霊力はないので、内閣府に入り、全国の夜叉に関する情報を集めるネットワークを作りあげようとしたの」

「そして、そのかたわら、ひとりでも多くの霊力のある若者を集めて、夜叉追いを組織的に育成しようとしてくださったのです。ここにいる龍二くんもそのひとり」

 久下の説明に、詩乃は納得して何度もうなずく。

 T高に来たとき、統馬は「上からの調査の命令」だと言った。それはたぶん、孝子のことだったのだろう。T市全体を覆った暴動と火災にあれほど早く県警や機動隊が駆けつけたのも、今から思えば、政府がらみの力が働いていた。暗くひそやかな夜叉との戦いは、その背後に日本全土を覆うほどの大きな広がりを持っているのだ。

「詩乃さん」

 ぼんやりと物思いにふけっている彼女をのぞきこむように、鷹泉孝子がにっこり笑いかけた。

「董子おばあさまや私が知っていたころの、統馬の様子が気になるのではなくて?」

「え? は、はい」

「あの頃の統馬はね。今よりもっと無慈悲で、血も涙もない冷血漢でしたよ。私やおばあさまの恋心なんて一刀両断にするほどに。だから私たちふたりとも、生涯独身だったのかもね。ね、久下さん?」

「ありゃあ」

「まじっかよー!」

 久下は額を押さえて嘆息し、龍二は初耳だったらしく眼を剥いてソファにのけぞり、草薙は「うおっほほ」と喜んでいる。

 統馬はたぶん、事務所の奥で渋い顔をしているのだろう。

「だから、詩乃さん、あなたのおかげよ。統馬があれほど優しい表情ができるようになったのは。人間らしい姿に戻ることができたのは。ありがとう」

 孝子の優しい語りかけを聞いた途端、詩乃の目から堰を切ったようにぼろぼろと涙があふれた。

「ど、どうしたの、詩乃さん。私、なにか悪いことを言ってしまった?」

「いいえ、ただ……、矢上くんは、ずるい」

 自分でも何が言いたいのかわからぬまま、詩乃は両手で顔を隠して、しゃくりあげた。

「これだけ暖かい人たちに囲まれて、長いあいだ見守られてきたのに……、ひとりぼっちだなんてふりして。ずるいよ……、私の方が、私の方がずっと……。心配して、損しちゃった……」

「詩乃さん」

 ふわりと、柔らかくいい香りのする身体が彼女を包み込んだ。

「あなたももう、私たちの一員なのよ。私たちはひとつの家族。みんなであなたのことを味方するわ。よろしくね。そして、統馬を助けてあげてね」

「はい……」

 後ろで涙を追う咳払いが聞こえたあと、草薙が話し始めた。

「さらに、もうひとつ肝心なことがある。矢上郷が滅びて以来四百年。長いあいだ統馬とともに歩んできたわたしにも、これだけの人間が我らの回りに集結して、夜叉との戦いにたずさわった記憶はかつてない。そして、何よりもひとつの世代に時同じくして二人以上の夜叉之将が活動するなどとは、今までに考えられなかったことだ。

――今日の話は、そのことなのじゃろう。鷹泉のご息女よ」

 孝子は抱擁の腕をほどくと、険しい表情でうなずいた。

「そうです。歴史はうねり始めている。これこそ正に御仏の定めた時の到来なのかもしれません。

この数週間、不穏な空気が感じられます。犯罪・非行率の急激な上昇。常識では理解できない事件の連続。明らかに、上位の夜叉の存在を感じる。いいえ、先走って言わせていただくならば、夜叉八将のひとりが新しい『狩り場』を定めたのかもしれません」

 「夜叉八将」ということばを聞きつけ、統馬がすばやく姿を現した。

「どこだ。それは!」

 噛みつくように、叫ぶ。

 孝子は頭をめぐらして、彼をじっと見つめた。



「京都です」




                   第六話  終

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