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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第六話 「空に翔けるもの」
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第六話 「空に翔けるもの」(4)




 T高の文化祭は3時でお開きとなる。

 例年ならば、外部からの来客が帰ったあと、校庭の真ん中に廃材を持ち寄って大きなファイアーストームを焚くことになるのだが、今年は例の火事を連想させるというので、学校側から厳重に禁止されている。

 それぞれ出し物の片付けが始まり、看板や角材やベニヤ板、張り紙やチラシなどの紙くず類を裏門脇のごみ集積場に運ぶ生徒たちで、ちょっとした喧騒が始まった。

「そろそろ私、実行委員のところに戻らないと」

 と、詩乃が言い始めた。「それに、D組の片付けも手伝いたいし」

「ああ」

「統馬、今日はあきらめよう。わたしにもさっぱり事の次第が飲み込めぬ」

 草薙も腑に落ちない表情を引きずっている。

「いずれにせよ、見失ってしまった以上、後の追いようがない。見たところ、そうひどい悪さをする夜叉とも思えぬ。さっきのカップルにしても、魂をほんのひとかじり、というところじゃろう」

「そうだな」

「じゃあ、私行くね」

 詩乃が後ろ髪をひかれるような笑顔を残して、立ち去ろうとした。

「弓月」

「なに?」

「悪いが、今だけ草薙を置いていってくれ。少し相談したいことがある」

「あ、うん」

 ウェストポーチにくくりつけていた紐をはずして、白狐を統馬の手に渡す。

「あとで、返しに行く。……それから」

 中庭に斜めに差し込む乾いた午後の光に、統馬はまぶしそうに目を伏せた。

「さっきのことだが……。安心しろ。おまえは、信野の生まれ変わりなどではない」

「え……?」

「万が一おまえが信野だったら、最初に会ったときに俺には一目でわかったはずだ」

 それを聞いて、ズキンと詩乃の心が痛む。

 統馬を裏切り、兄の誠太郎のもとに走ろうとした彼の妻・信野。彼女の生まれ変わりではないかと疑われたことを、詩乃が不快がっているとでも考えたのだろう。誤解を解こうとしてくれているのだ。

 しかし、その弁解のことばは、彼と詩乃の間には最初から何も響き合うものがなかったと宣言しているのと同じだった。

「わかった。ありがと」

 詩乃はもう一度寂しく微笑んで、きびすを返した。涙があふれそうになるのをこらえながら。

 本当は、信野の生まれ変わりであったなら、どんなに嬉しかったか。悪しき因縁であってもいい。統馬と前世からのつながりがあると言われたかった。

 憎まれながら愛されている。四百年の時を越えた彼の激しい感情を身に受けて、魂の底から揺すぶられたかった。

「統馬、おまえは!」

 草薙は、目を吊り上げて統馬の手の甲にがぶがぶと噛み付いた。

「今のおまえのことばは何なのじゃ! 詩乃どのに対して、あまりにも残酷ではないか」

「え、なぜだ?」

「まったく、おまえは本当に、その口ベタというか、無意識に本心を隠す習癖を何とかせい!」

 白狐はあきらめて、長々と吐息をついた。「過ぎたことは、もうよい。わたしが後でフォローを入れてやるわい。それより、夜叉のことだ」

「ああ。あんな夜叉はこれまで会ったこともない。人間に及ぶ害は今は少ないように見えるが、いずれ何が起きるかわからぬ。放っておくわけにはいかない」

「どんな気配をしているのじゃ? わたしにはほんのわずかしか垣間見ることはできなんだ。いつのまにやら、おまえの霊力は、わたしより遥かに強くなっているようじゃな」

「突然現れて、突然消える。その消え方があまりにも一瞬で、尋常ではない。まるで……まるで何かのスイッチを入れたり切ったりしているようだ」

「スイッチ? たとえば、テレビのスイッチか?」

「そうだ、まるで電気のようだ。そして、魂から魂に移動する素早さはまるで……」

 統馬はそこまで言いかけて、何かを思いついたように、はっと空を見上げた。

「草薙。今の時代は、目に見えなくても電波というものがこの空中を飛び交っているんだったな」

「何を今さらのように言うておる。おまえとて、携帯を使っているではないか」

 統馬はズボンのポケットから携帯を取り出し、じっと視線を注ぐ。

「電波……」



 一時間後。金券の清算や後片付けに追われていた詩乃が、ふと窓の外に目をやると、夕暮れの色が徐々にせまってきた空に異様な光景を見つけて、驚愕した。

「どうしたの、弓月さん」

「そ、空が……」

「空? 何も変わりないよ?」

 彼女の目にだけ見えているようだった。無数の光の筋。縦横無尽に張り巡らされているまばゆい網の目。そして何かの結界の力を感じる。

 もっともらしい理由をつけて、後片付けから放免された詩乃は、結界の中央と思われる場所に急いだ。

 校舎の裏手の藪にまぎれた人影。果たして、それは統馬だった。

 印を結んで立つその身体は、空中のイオン粒子を浴びて、ぼんやりと光のオーラを放って輝いている。

「統馬くん!」

天鼓雷音如来てんくらいおんにょらいの『感応道交真言』じゃ」

 休むことなく真言を唱え続けている彼に代わって、肩に乗っている草薙が解説してくれた。

「この学校全体に、雷の道筋――電波をキャッチする結界を張っておる。今度の夜叉は、電波を利用して次々と人間に憑いているようなのじゃ」

「なんですって……」

「そして統馬の言うには、その夜叉に知恵を貸している人間がそばにいるじゃろうと……。わしらは今、その人間の発する電波を探し出そうとしているのじゃ」

 統馬の声が急に途絶え、瞼が開いた。

「体育館の中だ」

「行きましょう!」

 さきほどまで軽音楽部やアマチュアロックバンド、ジャズダンス部などが熱演していた体育館は、今はパイプ椅子を片付ける音で騒然としていた。

 統馬に導かれ、楽屋横の小部屋にそっと近づくと、言い争う声が中から聞こえた。

「きみには申し訳ないことをしたと思っている」

 沈鬱な男の声がした。

「明るく溌剌としたきみの姿を見ていたら、きっと愛せると思ったんだ。でも、そうじゃなかった。僕はきみを、出会った頃の彼女の面影に重ねていたに過ぎなかったんだ」

「ひどいよ、先生……」

 すすり泣く、少女の声。

「あたし、もっと綺麗になる。がんばって、お料理も上手になって、先生に似合う大人の女性になるから。……ダメなの? もうあたしにチャンスはないの?」

「ダメなんだ。すまない……。きみを抱けば抱くほど、僕は彼女の感触を思い出してしまうんだ」

「この声って……」

 詩乃は叫びそうになるのを両手で押さえている。「物理の島本先生……。ひええ。こ、こんなことになってるなんて……」

「まったく今の学校は、風紀乱れとるのう」

 統馬は憮然とし、草薙は空いた口がふさがらないと言った風情だ。

「統馬」

 草薙が、すばやく作戦を立てる。

「わたしをあのふたりのもとに放り投げてくれ。取り憑いている夜叉を脅かしてやる。驚いて、離れた瞬間を、おまえは追跡するのじゃ」

「わかった」

 統馬は物陰からそっとにじり出ると、舞台への階段の影に立っていた男女に向かって、草薙をぽいと放り投げた。

 草薙は空中で一瞬にして狐から白蛇に変化して、三年生らしい少女の腕に巻きつく。

「キャアアアァァッ」

 超音波のごとき悲鳴が鳴り響いた。

 とたんに、ふたりの頭上からもわりと光の湯気のようなものが立ち昇り、一瞬後には、矢のように天井を突き抜けて飛び去っていく。

「あっちだ」

 短く言い残すと、統馬は外へ駆け出した。

 詩乃は、その場に凍りついたように立ち尽くすふたりから、草薙を引き離した。おどろおどろしい蛇の形とは言え、首に相変わらずピンクの蝶ネクタイをしているのがお茶目だ。

「お、お邪魔しましたっ」

 詩乃もあわてて、統馬の後を追って体育館を飛び出る。空には、明らかに他のものとは違う青い光線の残像が、くっきりと浮き出ている。

「プレハブのほうよ!」

 もとの白狐の形に戻った草薙をウェストポーチに突っ込みながら、言う。

 新館が焼け落ちたために、急遽建てられたプレハブの数棟。そのうち何室かは、クラブの部室にも使われているはずだが、今はみんな文化祭に出払っていて、人影はあまりない。



「別れた昔の女を今でも恋し続ける男、か。馬鹿だな」

 眼鏡をかけた男子生徒は、画面をスクロールしながらクツクツと笑った。

「数年の歳月のあいだに、この教師の頭の中では究極に美化された思い出が住み着いた。別れた彼女のほうは男のことなど思い出しもせずに、新しい相手に「あなたが生涯ただひとり愛した人よ」なんて囁いているに決まっているのに。いっそ、昔の相手に偶然出会わせて、徹底的に打ちのめされるという筋書きも面白そうだな。

……なぜ、途中でやめて帰ってきてしまったんだ」

 画面の中央に文字が浮かぶ。

【わからぬ。強い霊力を突然ぶつけられた】

「僕はこいつらを次の主人公にする構想を練り始めたんだ。もう一度飛んでくれよ。そろそろおまえも、しっかり食事がしたいだろう?」

 しかしモニター画面は次の瞬間、怒ったようにバチバチと火花を散らした。

【近づいている。敵だ。危険】

 事情を問うこともなく、彼は素早くノートパソコンの蓋を閉めた。そしてそれを小脇に抱え、窓をがらりと開け放った。



「あれは……、文芸部の戸塚とつか先輩!」

 走り去る男を追いかけながら、詩乃が驚いて叫んだ。

「知っているのか」

「……有名な人」

 男は、工事現場の立ち入り禁止のロープをくぐりぬけ、積み上げた建築資材の陰に隠れようとする。

 統馬は、太い鉄管を足がかりに宙を飛び、男の行く手をさえぎるように飛び降りた。

「三年A組の戸塚トシキ先輩ですね」

 と、詩乃はゆっくり近づいた。資材の作る細い通路で前後から挟み込む。

「おや、きみは……会ったことがあるね」

「弓月といいます。去年、校内新聞の記事を書くためにお話をうかがいました。トツカトシキを縮めて、「とっと」というペンネームでウェブサイトに、登場人物の心理を細やかに描写した恋愛小説を発表して人気を博し、去年出版を果たして、高校生作家として一躍注目された。そのときのインタビューでした。先輩の書かれた本も、そのときから全部拝読しています」

「ふうん、それは光栄だな」

 彼は悪びれた様子もなく、資材にもたれながら微笑んだ。

「ところで、なぜ追いかけられているのか、理由がわからないんだが」

「じゃあ、なぜ逃げるんです?」

「きみたちが追ってくるからさ」

 彼は愉快気に、笑った。

「まあいい。本当のところを教えてやろう。きみは、『ファウスト』というゲーテの戯曲を知っているかい?」

「はい」

「『魂と引き換えに、この世のすべての快楽と知識を得るだけの青春を与えよう』と言われ、悪魔メフィストテレスと契約を結ぶ男。こいつも今年になったある日、僕に語りかけてきたのさ」

 いとおしそうに、ノートパソコンの縁をなでる。

「デビュー第二作めが全然書けず、苦しんでいるときだった。何度書いても満足のいくものができない。もう僕の才能は枯れてしまったのか。それとも、恋愛について書くべきテーマはもう世界中で書き尽くされてしまったのか。

悶々としていたとき、こいつが僕のところに現れた。悪魔なのか夜叉なのか、こいつの名前すら僕は知らない。知る必要もない。僕はただ、自分のパソコンの中にこいつを住まわせ、適当な人間のところに飛ばしてやると約束した。

そのかわり、こいつはその人間の心の中を、ありのまま文章にしてくれる。僕はそれをもとに恋する人間の心理を探求し、恋愛小説に仕上げる」

「小説のために、大勢の人間の魂を食らわせたっていうのか」

 統馬が険しい声で問いかける。

「それぞれ、ほんのわずかずつさ。熱い恋をしている奴の魂はことのほか美味らしい。それに質より量ってやつらしくてね。できるだけ多くの人間を、殺すことなく調べる。それが、僕たちが交わした契約だった。

まずこの高校の中で恋愛中の奴らを探りだし、その携帯に彼を送り込む。通話の履歴を読み取って、また他の恋愛中の奴らの携帯に飛ぶ。おかげで、次々と高校生の恋愛模様を取材し、たくさんの小説が書けたよ」

「くそっ、外道め」

「非難される理由がわからないね。僕は誰も傷つけていないよ。話をおもしろくするために、けんかをさせたり、多少の心理操作はしたけどね」

「自分の心の中を暴かれて、土足で踏みにじられて、傷つかない人間はいないわ!」

 詩乃が、涙を浮かべて叫んだ。「今日見た二組とも、とても苦しそうだった。つらそうだった。ああいう恋は、きっと人を一生苦しめる」

「芸術のためだよ。それに、元はと言えば、そういう不毛な恋愛を選んだのは彼らだ。自業自得だと思うけどね」

「オン・バザラヤキシャ・ウン」

 答えの代わりに、統馬は天叢雲を鞘から放った。

「おい……。待ってくれ。こいつを消してしまうんじゃないよな。そんなことをしたら、小説が書けなくなる。次の原稿の締め切りが迫っているんだ」

「夜叉の力を借りた芸術なんぞ、金輪際この世に残す価値はねえっ!」

 戸塚はその恫喝を聞いて顔をひきつらせ、あわてて建材の山を登り始めた。

「先輩、あなたなら自分の力だけで、本当にすばらしい小説が書けるはずです!」

 詩乃はその背中に向かって必死で呼びかけた。「だって、私が一番感動したのは、先輩の第一作だったもの!」

「うわああっ」

 突然、足場が崩れた。彼は鉄パイプの雪崩の中に巻き込まれそうになった。

「オン バザラギニ ハラチハタヤ ソワカ」

 とっさに真言を唱えたのは、詩乃だった。戸塚の身体が鉄の凶器で損なわれるのを、目に見えない金剛結界の垣根が守る。

 その隙に統馬は、霊剣を彼の抱えていたノートパソコンに打ち下ろした。

 清浄の光があふれる。

 パソコンの中から夜叉の気配が消えた。――それとともに、今まで集めたすべてのデータも消えているだろう。

「だいじょうぶですか。先輩」

 戸塚は放心したような表情で、鉄パイプの海の上に仰向けになっていた。少し歪んだ眼鏡の蔓をくいと押し上げて、邪気のすっかり晴れたおだやかな微笑を浮かべる。

「ねえ、きみたち。お願いがあるんだけど」

「何ですか?」

「きみたちを主人公にしたら、なかなか面白い冒険恋愛小説が書けると思うんだが。

――取材させてくれるかい?」



「結局、夜叉の正体は何だったのじゃ」

 すっかり薄暮に包まれた校内からは、心地よい疲労と満足感に包まれた生徒たちが、ひとりまたひとりと帰っていく。こうして、それぞれの心に思い出を刻みつけて、今年の文化祭が終わったのだ。

「わからん。電波として飛び交う多くの人々の思い。それがひとつにまとまり、邪に傾き、夜叉の形を取ったのは間違いないのだが」

「まさか、インターネットの中に夜叉が身を潜めて、取り憑く人間を探すとは、……時代も変わったもんじゃのう」

「ああ、夜叉追いより夜叉のほうが、ずっと先を進んでいる」

「おまえも、横文字のみならず、携帯やパソコンくらい使いこなすようにならんと、21世紀の夜叉追いと呼ばれる資格はないぞ。詩乃どののほうがよっぽど、一人前の夜叉追いらしいわい。あんなとっさの場面で結界真言を唱えられるのじゃからな」

 草薙の軽口に、統馬はめずらしく悪態を返さなかった。今度の調伏は彼にとっても、かなりショックなできごとであるらしい。

 ひとりでぶつぶつと、「【いんたーねっと】と、英語も勉強せねばならねえのか……」とつぶやいているのを聞いて、詩乃は思わず吹き出しそうになった。

「あさっての月曜は、文化祭の代休でお休みなの」

 心の奥からふつふつと湧いてくる喜び。初めて、統馬とともに戦えた。彼のそばにいて、役に立つことができたという自信と誇りが詩乃の中に生まれていた。

「だから、明日、明後日の二日間アパートに行くね。中学校からの英語の教科書全部取ってあるから、みっちりABCから教えてあげる」

「え……?」

 詩乃のいたずらっぽい笑顔を、統馬も草薙もポカンとして見つめている。



 あるときは「悲しみ」。あるときは「憎しみ」。そして、たっぷりの「不安」とたっぷりの「幸福」と。

 それを一度に味わえるのが恋なんだ。それがわかって、よかった。統馬を心から好きになって、よかった。

 星の瞬き始めた、冴え冴えとした藍の空を見上げながら、詩乃は晴れやかな思いでつぶやいていた。

 



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