「霞恋湖畔の怪」
夏休みもあとわずかで終わりを迎えるという朝。
秋を思わせる高い青空のもと、ビルのはざまの洒落たオープンカフェのテラスには、楽しい笑い声が響いていた。
「本当にこの数ヶ月、詩乃さんにはお世話になりました」
金髪をツンツンに立てた、一見業界人風の服装の男が言った。
「これからも当分この町にいることになったので、一度お礼をしたいなと思いまして」
「こちらこそ、久下さんにはいろいろ助けていただきました」
女子高生らしい少女がにこやかに答える。
「それに、こんな美味しい朝食は初めて。ご馳走さまでした」
「やっぱり一人前の男は、食事に誘う店からして違うのう」
テーブルの上にちょこんと乗っていた小さな白い狐が、にまにまと笑った。
「ハンバーガーしかご馳走できぬ誰かとは大違いじゃ」
「……」
黒い髪の少年は不機嫌そうに、サラダの野菜をばりばりと食んでいる。
「それはそうと詩乃さん、もうすぐ夏休みも終わりですが、宿題のほうは順調ですか?」と、久下。
「はい。なんとか」
「詩乃どのは宿題など、もうとっくにやり終えているぞ。ちゃんと毎日こつこつと計画的に机に向かっていたからな」
詩乃といっしょに暮らしている草薙が、自分のことのように自慢した。
「……ところで統馬、おまえはどうなのじゃ」
「宿題? なんだ、それは」
「……」
「……」
「聞いたわたしが、馬鹿じゃった……」
「夜叉追いは、漢字だけ読めたらいいんだって、矢上くんいつも言ってるものね」
詩乃が苦笑をこらえて、フォローする。
「いいや、ただこいつは阿呆なだけじゃ。平安時代生まれのわたしが横文字をすらすら読めるのに、六百年もあとの戦国の世に生まれたこいつが、エービーシーさえまともに書けぬのじゃからな」
「なんだか、スケールの大きな比べかたよね」
詩乃は笑いながら、カフェのパラソル越しに澄み切った秋空を見上げた。
弓月詩乃はこのひと夏のあいだ、彼ら三人と関わって多くの不思議な経験をしてきた。
夜叉追いの矢上統馬。
人間を苦しめる夜叉を祓う矢上一族の最後の生き残りである彼はまた、内に封印された夜叉を宿す存在でもあった。
その彼の持つ霊剣・天叢雲の一部であり、白狐に変化することのできる草薙。
そして、統馬を助けながら江戸時代から転生を繰り返してきた密教の僧侶、久下尚人。
彼らの何百年にも及ぶ運命と絆の中に、詩乃は自分の意志で進んで飛び込んだ。それがまた、自分自身の運命だと信じるがゆえに。
「そう言えば、ひとつ聞きたかったことがあるんですけど」
詩乃は物思いをふりはらうかのように、久下に訊ねた。
「はい、なんでしょう」
「久下さんて、確か5回転生したんですよね。それってやはり、全部男だったんですか?」
「は?」
「転生した体がたまたま女の人だなんてことはなかったのかなあって。
久下さんて絶世の美人になりそうだし、矢上くんもひとめ惚れしちゃったりして。うふふ」
「……」
「……」
無邪気な詩乃のことばに、久下も統馬も困った様子で、互いの顔をそむける。
「まさか……本当に?」
「な、なんかそんなことも一度あったような」
久下が頭を掻くと、
「誤解を招くようなことを言うな。干からびたジジイの生まれ変わりに誰が惚れたりするものか」
憮然とした表情で、統馬がつぶやく。その様子を見て、からかわれているのではないことを詩乃も悟った。
「冗談じゃなくて、本当にあったんだ……」
「厠に行ってくる」
統馬は逃げるように席を立ってしまった。
「詩乃さん、心配しなくても、女性だった僕に統馬は見向きもしてくれませんでしたよ」
久下は、安心させるように微笑んだ。
「けっこう僕のほうは真剣に恋したんですけどね。……あ……と言っても、それは前世の話です。今は男同士ですから、そんな気持ちは微塵もありませんよ。ね、草薙」
「ふっふふ。ノーコメントじゃ」
「へええ。いいこと聞いちゃった」
「ははは。詩乃さんも、案外と腐女子なんだなあ。目が輝いてますよ。
――それより、今日詩乃さんを食事にご招待したもうひとつの理由なんですが」
咳払いをすると、久下はあらたまった調子で言う。
「あなたと統馬に、また夜叉追いの仕事をお願いしたいんです」
統馬が戻ってくるのを待って、久下は詳しい話を始めた。
「岐阜県に、「霞恋湖」という美しい湖があるのです。「霞」に「恋」と書いて「かれんこ」」
「うわあ、ロマンティックな名前ですね」
「昭和になってから地主が観光用に改名したのでしょう。小さな湖で、交通もとても不便なのですが、名前のおかげで、若いカップルのあいだでは知る人ぞ知る観光地で、湖畔にペンションも一軒立っています。
実は、そのペンションのオーナーから今度の調査の依頼があったのです」
久下は意味ありげに声をひそめる。
「このところ、ペンションに来るカップルに異変が起きているらしいのです。みんなペンションに来るときは、とてもラブラブなのに、帰るときまでに、ほぼ100%仲たがいしてしまう。
中には、それで結婚が破談になってしまったカップルもあり、悪い噂が口コミであっというまに広がって、ペンションのお客も激減してしまったそうなんです。
あまりの異常さに、これは何かのたたりではないか。そう思ったオーナーがうちの心霊調査事務所に相談に来たというわけでして……。
そこで、2日の予定で詩乃さんと統馬に現地に行っていただき、カップルになりすまして、そのペンションの周辺を調査してもらいたいのです。
宿題ももう終わっているということですし、夏休みの最後の思い出がてら……いかがでしょうか」
「泊りがけの調査になるんですね」
と、詩乃が訊ねる。
「はい、そのほうが原因をつきとめやすいと思うんですよね。
ただ、カップルが必ず破談するという因縁のお仕事なので、おふたりにはちょっと可哀そうかなと迷ったんですが」
久下の気遣う様子に、詩乃はあわてて手をひらひらと振った。
「あ、で、でも、私と矢上くんは全然カップルなんかじゃありませんから、だいじょうぶですよ。引き受けます」
「統馬は、どうです? 引き受けてくれますか」
「どうせ先方には、もう行くと返事してあるのだろう?」
いつものこと、と言うように、統馬は吐息をついた。
「はは……、まあそうなんですけど。じゃあ決まりですね」
「ふふふ、久下もなかなかやるのう」
テーブルの上では、草薙がひとり、ごちていた。
「だが、読者のみなさま、安心めされい。
「詩乃どのの貞操を守る会会長」のこのわたしがいる限り、統馬には詩乃どのに指一本触れさせんからな」
さて、その翌日。
早朝に東京駅から新幹線で出発した統馬と詩乃のふたりは、名古屋で高山行きの急行に乗り換えた。
「詩乃どの。とっても楽しそうじゃな」
いつものように、マスコットの白狐に変化している草薙が、窓際で缶飲料のそばにちょこんと座って、詩乃に話しかける。
「だって今まで、家族で旅行ってほとんどしたことがなかったから。ペンションに泊まるのも初めてなの。すごく楽しみ」
「いい思い出になると、いいのう」
「ねえ、矢上くんてば。駅弁食べないの? おいしいよ」
「まったく、こいつはよく寝る奴じゃ。好きな女との旅で、どうしてこんなに寝られるものかな」
単線に乗り換え、さらにバスで1時間。
ようやく一行は昼過ぎに、霞恋湖畔のペンションに着いた。
ペンションは、湖と森を背後に独り占めする恵まれた立地。設備も豪華で、庭のすみずみまで手入れも行き届き、詩乃と草薙はおおはしゃぎだった。
だが、ロビーに入っても客の姿はひとりも見えない。まだ夏休みだというのに、閑散とした雰囲気が漂っていた。
オーナーである40代の男性が、さっそく事情を説明してくれた。
この「カップル崩壊現象」が起こり始めたのは、今年の春あたりからだという。
最初は仲の良さそうだった男女が、いきなり鬼のように目を吊り上げて、口論を始める。
「裏切り者」
「そんなことはしていない」
「おまえみたいな女とはもうやっていけない」
などと罵り合ったかと思うと、荷物をまとめて、さっさと別々に帰ってしまうのだ。
双方が異常な興奮状態にあるので、いったい何があったのか聞くこともできないという。
最初は従業員たちも気にも留めなかったが、そんなことが何度も続くようになると、何かの祟りではないかと怖がるようになった。
「一度、ペンションの中を見せていただけませんか」
詩乃の頼みに、オーナーはうなずいた。
「どうぞ。おふたりがお泊りになる部屋にまずご案内しましょう」
「わあ。すてきなお部屋。
……でも、ダブルベッドなのね……」
詩乃は思わず、統馬のほうをちらりと窺った。
「うちは、夫婦やカップルが多いので、ダブルの部屋のご要望が多いんですよ。お気に召しませんか」
「えっと、一応、あの、私たちまだ未婚なもので」
「別にかまわない。俺は廊下で寝る」
詩乃の弁解を、統馬は鋭くさえぎった。
「いえ、こちらからお願いして調査に来ていただいているのに、そういうわけにはいきません。
別々の部屋をおとりします。どうせ、空き室はいっぱいあるんですから」
オーナーはそう言って、別室の鍵を取りにロビーに降りていった。
気まずい雰囲気が、残されたふたりの間に漂う。
「統馬はのぅ、実はベッドでは寝られないんじゃ」
草薙が、沈黙を破った。
「ええ? そうだったの?」
「一度、ベッドから落っこちたことがあってな。それ以来、ベッド恐怖症になってしもうた。情けないヤツめ」
「……うるさい」
統馬は心なしか顔を赤らめて、ぶいと横を向いてしまった。
そのあと、彼らはオーナーの案内で、ペンションの内部やテニスコートなどの屋外施設をあちこち見て回った。
だが、統馬や草薙の霊力をもってしても、敷地内に異常な気配の存在は感じとれなかった。
「この森の奥が湖か……」
統馬がふと、裏手のほうに険しい目を向けた。
「そう言えば、ひとつ気づいたことがあります」
オーナーが大きな声をあげた。
「別れたカップルはたいてい、湖の周囲を散歩してくると言って出かけたあとに、判で押したようにけんかを始めているんです」
統馬と詩乃はさっそく、湖の周辺を探索することにした。
「いいところだね。空気がとても澄んでいる」
「……」
何を話しかけても返事をしない統馬に、詩乃は悲しげに立ち止まった。
「ナギちゃん。やっぱり矢上くんは私といても、ちっとも楽しそうじゃない。きっと、私につきまとわれるのが迷惑なんだね」
「そんなことはない。彼奴はただ不器用なだけじゃ。内心はうれしいのに、それを素直に表に出せぬだけだと思うぞ」
「うん……」
(とほほ、「詩乃どのの貞操を守る会会長」のわたしが、こんなフォローをせねばならぬとは。アンビバレントなジレンマを感じるのう)
草薙は、心の中で嘆息する。
少し行ったところで、統馬が詩乃たちを待っていた。
「遅いぞ。男女がふたりでいないと、調査の意味がないだろう」
「あ、ご、ごめんね。空気があんまりおいしいものだから、深呼吸してたの」
詩乃は木々の梢を見上げながら、思い切り胸をふくらませた。
「こういうところでないと、深呼吸できないもん。特にうちの町は国道が走ってるから、空気がとても汚いって」
「みずから自然を押しのけて暮らしているから、息もできぬ、日の光も浴びられぬ国になってしまうんだ」
「そうだね」
「たかだかこの数十年だ。日本がこれほど変わったのは」
統馬は視線を遠くにたゆたわせた。
「人の暮らしだけではない。草木の色や空気の匂いまですっかり変わった。まるで異国にいるようだ」
「矢上くんは、今の日本が嫌いなの? 昔のほうがよかった?」
「さあな。だが人が人を殺すことが当たり前だった世にくらべれば、――どんなに汚くても、今のほうがずっとましだ」
そう言って、統馬は詩乃のそばをすりぬけ、また先に歩き始めた。
「そうだね。肉親同士で憎んだり殺し合ったりする時代に、矢上くんは生まれたんだったね」
詩乃は遅れないように歩きながら、その背中を見つめて小さくつぶやいた。
「矢上くんがお兄さんと信野さんに殺されそうになったという話を聞いて、私、矢上くんが憎しみのあまり夜叉になった気持ち、よくわかったの。私もときどき、お父さんとお母さんが家に帰ってこないと、すごく憎らしくなる……」
詩乃は、自虐的な笑いを含んだ息を吐いた。
「ナギちゃん。一番愛してほしい人に愛してもらえないときの気持ちって、ズキンズキンって体が痛くなるね。息ができなくなるよね」
「詩乃どの――」
「だから、矢上くんは私に優しくしてくれるんだと思う。私の寂しさを誰よりもわかってくれてるから。
本当は私のことをちっとも好きじゃないのに。死んだ信野さんのことが忘れられないくせに」
森を突き抜けると、そこはすぐ、霞恋湖のほとりだった。
清らかに澄んだ水は、木々の深い緑を映し、そして空の色まで映し出している。
ときおり湖面を渡る風が作り出すさざなみの紋様が、永遠の静寂に時の流れを添えている。
「きれい……」
詩乃は、感極まって両手で頬をおおった。
「あんまりきれいなものを見ると泣きたくなるって、本当ね……」
統馬は答えない。
ただ詩乃のかたわらに立って、同じ景色をじっと見つめている。
小鳥が舞い、木々の葉がそよぎ、雲が移りゆく。
時は、17歳の詩乃の上にも、四百年以上の歳月を生きてきた統馬の上にも平等に流れる。
そのとき突然、空がカッと白くなった。
「きゃああっっ」
晴れた空に突然の稲妻。そしてみるみるうちに、湖の上空は真っ黒な雲に覆われ、ほどなく滝のような雨が降り始めた。
森の木々の枝の重なりも、まったく傘の役目を果たさない。
「弓月、森の奥に小屋が見える。あそこまで走るぞ」
統馬の目には見えているらしい木立の向こうの景色が、詩乃にはまったく見えない。
「え、小屋なんてどこに……。きゃあああ! 待ってぇ」
ふたりは雨の中を走りぬけ、ようやく以前は建築の資材置き場か何かに使われていたらしい物置小屋にたどり着いた。
「ああ、びしょ濡れになっちゃったね」
「古い材木の切れ端があるな。これで火を熾そう」
「でも、マッチもライターもないのに、どうやって?」
「今の人間は、マッチやライターがないと火を熾せんのか?」
統馬は小屋の中に散乱していた木屑や古新聞を集めて、あっというまに焚き火を作った。
「詩乃どの。震えておるぞ。もうちょっと火のそばに近づきなされ」
と草薙が勧める。
「うん、わ、私、寒くて震えてるんじゃなくて。本当は雷がとても怖いの」
詩乃はますますしっかりと、膝をかかえこんだ。
「小さいころ、ひとりで留守番してるときに、近くに雷が落ちたことがあって。そのとき以来、雷が鳴ると、怖くて、心細くて……」
震えることばを掻き消すように、ごろごろと低く長い雷鳴が小屋を振動させている。
「きゃあああっ!」
ふたたびの稲妻の閃光に、詩乃は思わず統馬に抱きついた。
しかし統馬は、彼女の背中に手を回そうともせず、ただ彫像のように動かない。
「ご、ごめんね。そ、そう言えば、前もこんなことあったね。土屋さんの家の幽霊騒ぎのとき――」
詩乃は、あわてて冗談でごまかそうとした。
「あのときは、一晩中矢上くんに抱きついてて、とても安心して、そのまま寝ちゃったのよね……。重かったでしょ。あはは……ごめん、今度は……すぐ……離れるから」
やがてその声は途切れ、涙に変わった。
「……やだ。……やだ。離れないで。お願い。このままでいさせて。
ずっとこのまま。好きでなくていいから。信野さんの身代わりでいいから。私を抱いていて」
詩乃は顔を伏せ、小さな嗚咽に肩をふるわせた。
冷たく濡れたシャツを通して、体のぬくもりが互いに伝わる。
「離れろ……」
統馬は固い声で、答えた。
「弓月。俺には二度と、人を好きになる資格がない。
俺は、妻が兄と通じたと思い込み、心の底から憎んだ。真実を知らぬまま、信野を死に追いやってしまった」
「……」
「そしてその憎しみが、俺自身を夜叉に変じた。自分の愚かさをずっと二百年間悔いてきた。その悔いがある限り……、俺は、おまえを抱くことができない」
「わかってる、わかってるよ」
詩乃はしゃくりあげる。
「私がわがままを言うことが、ますます矢上くんを苦しめてるって。私って、自分のことしか考えてない。好かれてもいないのに。ばかみたいだよね。恥ずかしい。プライド、ゼロだよね。自分から抱きついたりして……」
そのまま、すっくと立ち上がった。
「……ごめんなさい……っ」
絶叫を残し、彼女は小屋の扉を開け、雨が小ぶりになった戸外に飛び出して行った。
「統馬! 何をしとる。早く詩乃どのを追いかけろ」
「追いかけて行って、何を言えばいい?」
うつろな声で統馬は答えた。
「あいつに、言ってやれることなど何もない」
「統馬。おまえはまた同じあやまちを繰り返すのか」
焦れたように、草薙は叫ぶ。
「おまえが信野と想い合う気持ちを互いに伝えていれば、あんな悲劇にはならなかった。
人を愛することに臆病になるな。詩乃どのは信野と違う。あれほど素直に自分の気持ちをぶつけてくれるではないか。……おまえも、本当の気持ちで返さねばならぬ」
いつのまにか雷は遠ざかり、戸外の雨もすっかり上がっている。
そのとき、小屋の扉に人影が立った。
詩乃だ。
詩乃は微笑むと、あっという間に着ていたものを全部脱ぎ、一糸まとわぬ姿となって統馬に近づいた。
「弓月?」
「私をあげる……」
甘い吐息が彼女の口から漏れた。白く柔らかい体が、統馬に押しつけられる。
「弓月、……待て」
「何をためらうの。ほしいのでしょう。私が……」
詩乃が、統馬の顔に唇を近づけようとしたそのとき。
「統馬! そいつは……」
「キャッ!」
詩乃がとびのく。いつのまにか、統馬の両手には印が形作られていた。
「おまえは、――弓月じゃない」
恐ろしい形相でにらみつけ、統馬はぐいと右腕を伸ばした。
「叢雲、来い!」
小屋の壁に立てかけられていた霊剣・天叢雲はふわりと空中を浮かび、その手の中に飛び込んだ。
「オン・バザラヤキシャ・ウン」
真言を唱えながら、鮮やかに刀を鞘から放つと、少女の体を上から下にためらうことなく斬りおろした。
「ギャアアアッッ」
銀色の刃を受けたとたん、詩乃だったものは煙となって四散した。
「詩乃どのにそっくりに変化した夜叉であったのか。あぶないところじゃった」
草薙のつぶやきに、
「……それじゃあ、弓月は?」
統馬が顔色を変えた。「本物の弓月は、どこだ?」
統馬が草薙を連れて外に駆け出すと、湖の岸の水打ち際に、詩乃が横たわっていた。
体の右半分を時折寄せる波に、ゆらゆらとひたしている。
「弓月!」
統馬が上半身を抱き起こしたが、目は堅く閉じたまま開く気配がない。
「草薙。弓月の気をまったく感じない」
「これは……」
草薙は詩乃のこめかみにちょんと鼻先をつけて、そして顔を上げて叫んだ。
「夜叉によって、完全に心を閉じられておる。
……いや、違う。詩乃どの自ら心を閉ざしておるのだ」
「どういうことだ、それは!」
「ペンションの泊り客がことごとく仲たがいをしてしまった理由……。それは、この湖の周囲に住みついた2体の夜叉が、それぞれを惑わしておったのじゃ。
一体は、カップルの一方の姿を借りてもう一方を誘惑する。統馬、さっきのおまえのようにな。誘惑された者には自分の恋人と見えるために、恋人と抱き合ったつもりになって、知らずに夜叉にもてあそばれる。
そして、もう一体の夜叉は、姿を真似られた人間を操って、自分の恋人が夜叉に誘惑されている現場を目撃させる。その者の目には、見知らぬ異性と抱き合っているようにしか見えぬのだ。当然、浮気をされたと思って激しく怒る。
双方とも理性など、とっくに夜叉によって失わされておる。それが、今度の事件の真相なのじゃ。だが……」
ことばを続けながら、いたましげに詩乃を見下ろす。
「詩乃どのは夜叉に操られまいと、せいいっぱい抵抗した。いきなり襲われたので真言を唱える間もなく、とっさに意識ごと閉じてしまったのじゃ」
「このままだと、どうなる?」
統馬が噛みつかんばかりに、詰問した。
「夜叉に心に入り込まれたまま抵抗し続けて、やがて意識を取り戻せないで衰弱してしまうじゃろう。
それを防ぐ手立てはひとつ。わたしとおまえのふたりで、詩乃どのの心の中に入り込むのじゃ。おまえが夜叉を祓うと同時に、わたしが詩乃どのの意識を開かせる。
だが、もし失敗したら、ふたりとも詩乃どのの心の迷宮の中から出られなくなってしまうぞ」
「そんなことはどうでもいい。さっさと誘導しろ」
「あいわかった」
草薙はこっくりとうなずくと、黄金色の目を閉じた。
「オン・バザラ・シャキャラ・ウン・ジャク・ウン・バン・コク!」
「くそぅ。夜叉はどこだ」
草薙と別れ、統馬はひとりで暗黒の空間に立ち、うなった。
「まるで迷路だ。どちらに進めばいいのか、わからん」
まさしく、そこは迷宮だった。とは言え、目に見える壁があるわけではない。
人間の感情がもつれた糸のようにからまり、統馬の意識が正しい方向に進むのを拒んでいるのだ。
(にくい……さびしい……いとしい……)
「これは、……弓月の心の声なのか?」
(人を愛したいと願う心と、人を憎む心……。全然違うはずなのに、私の心の中ではひとつになってしまうの)
声は止むことなく途切れることなく、低く、高くこだまする。
(矢上くんを好きになった、そのままのキレイな心でいたかった。
でも、私の中にどんどん、醜い思いが生まれてしまう。
彼を独り占めしたくて、彼が応えてくれないからって絶望して、……死んだ信野さんのことをねたんでいる私)
いたたまれぬ思いで、思わず統馬は耳をおおった。でも声は耳ではなく、心を突き刺して侵入してくる。
統馬自身が自分の心の奥底に沈めていた感情を浮かび上がらせ、絡み合っていく。
(こんなだったら、矢上くんを好きになるんじゃなかったよ。……もう、疲れた。このまま、何も考えずに眠りたい……)
「弓月……。違う、俺は、俺は……」
その声に答えようとしたとき、統馬の目が、今まで見ることができなかった邪悪な影をはっきりと捉えた。
詩乃の心に忍び込んでいた、もう一体の夜叉だ。
(幸せそうなおまえたちが、憎い……。われらふたりは現世では決して結ばれなかったゆえに)
「そこかッ」
彼は、天叢雲をしゃりんと鞘走らせた。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサトバダトン・ソワカ!」
渾身の力をこめて、上段から振り下ろす。
ひとたまりもなく、夜叉は白い煙となって消滅した。
統馬は、その途方もない怨嗟を浴びて霊力をそぎとられ、がっくりと片膝をついた。
「……草薙! あとはまかせる」
同じころ、草薙のいる詩乃の心の最奥部には、白い清浄の光が満ちていた。
「おお、あたりを覆っていた邪念が晴れていく。統馬め、夜叉を倒したな」
ひとりつぶやくと草薙は、胎児のように丸くなって手足を縮こめていた詩乃の深層意識に向かって、やさしく呼びかけた。
「詩乃どの、起きなされ。もう大丈夫じゃ」
「う……ん」
詩乃は少しずつ目を開いた。
まばゆいほどの白い光の輪の中に、古の高貴な衣装を身にまとった若者が、微笑みながら見下ろしている。
「誰……?」
「ナギちゃん人間バージョンじゃ。夢の中でしか見せられぬのが残念じゃが」
「夢? ここは夢なの? 私……、いったいどうして、こんなところに?」
「詩乃どのは夜叉と戦ったんじゃよ。よくがんばったな」
「私……、勝ったの?」
「ああ、そうじゃよ。さあ、統馬も待っておる。急いで現実の世界に帰ろう」
草薙は、若草色の狩衣の袖にすっぽりと詩乃を覆い隠すと、真言を唱えた。ふたりの意識はゆっくりと七色にきらめく意識の表面に向かって、上昇していった。
統馬と詩乃、そして白狐に戻った草薙は、湖のほとりでゆっくり起き上がった。
「あ、……矢上くん」
統馬はひとことも発せず、いきなり詩乃を抱きすくめた。
「弓月。おまえは……どれほど俺を心配させたら気がすむんだ」
「く、苦しいよ、矢上くん……」
「これからは何があっても、絶対に俺のそばから離れるな」
「え……?」
詩乃は何がなんだかわからず、呆気にとられている。
「返事をしろ!」
「……は、はい」
統馬は詩乃の髪に片手を差し入れると、互いの唇を重ねた。
「ありゃりゃ。やってしもうた」
草薙は回れ右をして、笑いの浮かぶ口元を隠す。
「ま、「詩乃どのの貞操を守る会会長」のわたしも、今日だけは見逃してやるとするか」
2体の夜叉を調伏した一行は、とりあえずペンションに戻ることにした。
「くそぅ」
道すがら、統馬はいまいましげにつぶやいている。
「後悔しとるのか、統馬。詩乃どのに接吻したことを」
「ああ――。俺は修行が足りない」
「うおっほっほ。もっと精進することじゃな」
草薙は、高らかに笑った。
「わたしからすれば、四百歳のおまえなぞ、まーだまーだヒヨッコじゃ」
ペンションの中は出かけたときとは見違えるくらい活気に満ち、電話の音がひっきりなしに鳴り響いていた。
「あ、心霊調査事務所のおふたり。どうしたんですか。そんなにびしょぬれになって」
ばたばたと走ってきたオーナーに、詩乃は夜叉を倒したことを話した。
「なんと! では、そのおかげでしょうか? ついさきほど、県内の旅館で食中毒が発生したので、今晩泊まる予定だった団体客を引き受けてくれないかという連絡が、観光協会から入ったのです。もう、スタッフ総出で準備におおわらわです」
額に汗を光らせているオーナーも、久しぶりの忙しさにうれしそうだ。
「それに、なぜか突然、秋の観光シーズンの予約の電話も鳴りっぱなしで……、ほら、また」
「この付近をおおっていた夜叉の呪いが解けたのですね。本当によかった」
と、詩乃が言う。
「おふたりのおかげです。ありがとうございました」
ところがそのときになって、急に彼は頭を掻き始めた。
「あ、……ですが、実は申し訳ないことになってしまいまして……。団体客を受け入れるためにどうしても、お泊りいただく予定だった部屋をひとつ、そちらに回さなくてはいけなくなったのです」
「ええっ! じゃあ、今晩はあのダブル一部屋で、矢上くんといっしょ……」
詩乃がまた傍らの統馬をちらりと見ると、彼も珍しくうろたえている。
「そ、それは困る……。弓月、このまま東京に帰ろう」
「ふふふ。よいではないか。統馬」
草薙は、意地悪な笑みを浮かべた。
「「詩乃どのの貞操を守る会会長」のこのわたしが、詩乃どののために特別の痴漢よけ結界を作ってあげるわい。
それになによりも、煩悩多きおまえの修行になるというものじゃ」
「……」
統馬はひとこともなく、顔を赤らめている。
「なあ、詩乃どのも、今晩はこのペンションで、統馬といっしょに楽しい一夜を過ごしたいじゃろう?」
「……うん、ナギちゃん」
詩乃は、心から幸せそうに微笑んだ。
完
* * * *
「みなさん、ご苦労さまでした」
ふたたび彼らは、あの朝と同じオープンテラスのカフェに集合していた。霞恋湖から帰って数日後の週末のことである。
「おかげでペンションのオーナーから破格の報酬もいただいて、うちの事務所もうるおいました」
心霊調査事務所の苦労人所長、久下も満足げだ。
「こちらこそ、楽しい旅行ができました。ありがとうございます」
詩乃が答える。
「食事もおいしかったし、矢上くんとテニスもしたんですよ」
「へえ、統馬、テニスなんかできるんですか」
「どうということはない。刀の袈裟懸けの要領だ」
「それじゃゲームにならないでしょう」
「そうそう、ネットにでかい穴を開けて、詩乃どのがペンションの人にあやまっておったな」
「ははは。くつろいだ時間を過ごせたようでよかったです」
久下が、そう言ってから居住まいを正した。
「ところで、今朝みなさんに集まっていただいたのは、他でもない、もうひとつ夜叉追いの仕事が入ったのです。
それも、ふたたび湖畔が舞台の事件なんですよ」
「ええっ、また?」
「今度は「霞霊湖」という湖でして。「霞」に「霊」と書いて、「かれいこ」。不気味な名前でしょう?」
と、意味ありげに声を落とす。
「この湖が、近頃急に茶色く濁りはじめたのです。おまけに、香辛料のような異臭まで漂ってきて、近所の住民は、そのために体調を崩して、めっきり老け込んでしまったというのです」
「まあ、大変。でも、なんだか香辛料の異臭って変ですね」
詩乃は、あることに気づいて、首をひねった。
「おまけに名前が……、「かれいこ」……「カレー粉」……近所の住民が老け込んで「加齢」する――?」
草薙がぶっと吹き出した。
「まさか久下、それはダジャレじゃあるまいな」
「ははは、もうばれちゃいましたか」
久下が金髪頭をぽんと叩いた。
「いやね、せっかく報酬が入ったところですし、今日はみなさんをインドカレーのレストランにご招待しようと思いまして」
「……久~下~、おまえってヤツは……っ」
統馬が怒りに身を震わせている。どうやら、馬鹿正直に本気で聞いていたらしい。
今度こそ、完
この番外編は、映像音楽つきフラッシュノベルのテキストバージョンです。
フラッシュノベルは、作者サイトにて視聴できます。
http://butapenn.com/soundnovel/yasha_soundnovel.html




