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夜叉往来  作者: BUTAPENN
第五話 「時を経しもの」
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第五話 「時を経しもの」(5)



 雪まじりの風が、朽ちてぼろぼろになった庵の戸に叩きつける。

 暖を取るために熾したわずかな火も、そのたびにかき消されそうになる。まるでこの部屋で消えていこうとしている命の灯火のように。

「統馬よ……」

 藁ござの上に寝かされ、ひゅうひゅうと苦しげな息を吐いていた老僧は、かたわらに座していた黒髪の若い男を見上げた。

「よいか。決して二度と憎しみに囚われるな。悪しき思いの虜になれば、わしのかけた封印の術はたやすく解け、おまえは夜叉に戻ってしまう」

「覚えておく」

 男は小さくうなずいた。

「慈恵。おまえは……もう逝くのか」

「人間はいつか死ぬ。それは定めじゃ。もうこの身体は限界に来た。ましてやわしは特別に、二十年の寿命を御仏によって加えられた身――おまえとともに過ごした二十年のために」

「おまえがいなくなって、俺はこれから、どうすればいい」

「日本国中を巡り歩け。その天叢雲をもて、夜叉を祓い続けよ。そしておまえにその刻印を記した七体の夜叉を滅するのじゃ。さすればおまえは……」

 老僧は骨のような細い指で、男の粗末な着物の襟からのぞく梵字を指差す。胸に三つ。そして背中に四つ。七つの呪いの種印。

「おまえはそのときようやく、まことの人間に戻れる。……たとえ何百年、何千年かかろうと、人の世に仇なす夜叉の将どもを追い続けよ」

「ああ」

「御仏のお許しを得れば、わしはまたすぐ、新しい体の中に戻ってくる……。

よいな、統馬。おまえは夜叉を追いながら、わしを見つけてくれ。わしは必ずおまえとともにあり……ともに夜叉を……」

「慈恵」

 老僧はかすかに笑むと、ふーっと長い長い息を吐いて、そして動かなくなった。

 男は、その枕元で手を合わせていたが、意を決して刀を取り、立ち上がった。戸を引き開けると、ますます激しくなった吹雪が、挑むように襲いかかる。

 うち捨てられた山あいの庵の回りは、どちらを向いても白また白の雪に覆われた、荒涼とした風景が広がっていた。

(統馬よ)

 腰の刀が、心細げな声を出した。

(今から、どこへ行くつもりじゃ)

「どこへなりと」

 男は答えた。

「片っ端から目につく夜叉を斬る。そして慈恵の生まれ変わりを草の根分けても探し出す。

急ぐ必要はない。俺もおまえも、時間ならたっぷりあるからな。――草薙」



「おい、あいつ、おまえのことをまた見てるぞ」

 放課後のチャイムが鳴り響く中、後ろの席の友人がナオトの背中をつつく。

 視線をめぐらすと、その先には背中を向けて歩き去る男子生徒の姿が映った。

 先週、クラスに来たばかりの転校生。名前は忘れてしまった。

「ときどき、気づくんだよ。何かの拍子におまえのことをじっと見てる。惚れられたんじゃないか。今はやりのホモってやつ」

「よせよ。ただの偶然だよ」

 ナオトは級友を軽くあしらうと、鞄に手際よく教科書を詰め始めた。

「今日も家に帰って勉強か? 周囲の期待が重過ぎると大変だな。いくら教師から、東大確実と太鼓判を押されてはいても」

「そんなことはないよ。じゃあな、また明日」

 ゆっくりと教室を出た。

 鞄を持たないほうの手がいらだたしげに、見えない何かを握りつぶすように動く。

 学校一の秀才。東大確実。期待の星。

――夜まで、持ちそうもない。

 ナオトは、途中にある本屋に立ち寄った。

 周囲をゆっくり見回してから、背表紙のタイトルを確かめもせずに一冊の本を棚から抜き出し、こっそり鞄の中に入れた。

「馬鹿なことをするな」

 突然、後ろから低い声がして、心臓を縮み上がらせた。

 振り返ると、あの転校生が冷たい眼でナオトを見ていた。

「おまえは今までの5人の中で、一番の阿呆だな」

 無表情に言い放つと、きびすを返す。

「ち、ちがう。これはちょっと、ぼんやりして……」

 その背中に弁解のことばを投げるが、追いつかない。ナオトは本を棚に戻すと、書店を飛び出した。

 もう彼の姿はどこにもなかった。



 家に帰ると、母親が玄関まで出迎えた。

「今日は高校はどうだったの、ナオトさん」

「別に。いつもと同じでしたよ」

 母のいれてくれた紅茶を飲みながら、とりとめのないおしゃべりをする。カップを持っていないほうの手は背後に隠して、ソファの表面にぎりぎりと爪を立てる。

「出かけるの? 今日は予備校はないんでしょ」

「ええ、でもわからない問題を先生に聞きたいので、自習室に行くことにしたんです」

 家を出たナオトは、予備校とは反対の方向に向かった。駅のロッカーにしまっておいた紙袋を取り出し、用意した服に着替える。

 それは、ナオトのことを知っている者でも、誰も彼だとはわからないほどの派手ないでたちだった。

 繁華街に出た彼は、行きつけの店で浴びるほど酒を飲んだ。

 いつからこんな二重生活を送るようになったのか、覚えていない。ただ、ときどき無性に我慢できなくなるのだ。巧妙に優等生の仮面をかぶりながら、その陰で自分を崩し、壊し、痛めつける。そうしないと重圧に押しつぶされそうになる。

 シンナーの幻惑の中で、ナオトはずっとあの転校生のことを考えていた。

『おまえは今までの5人の中で、一番の阿呆だな』

 あれはいったいどういう意味だ。あいつは、僕のことを何か知っているのだろうか。

 そう言えば、あの顔はどこかで見たことがあるような気がする。あの鋭く突き刺すような目。

「くそうっ!」

 荒れに荒れまくって、店を出た。都会の深夜の雑踏。クラクションと光の洪水が、酒や薬に汚染された感覚をマヒさせる。

 信号待ちの交差点でぐらりと身体が前に泳いだとき、後ろからすごい力で引き戻された。

「まったく、おまえは世話が焼ける野郎だ」

 身体が浮き上がるほど襟首をつかまれて、そして地面に放り投げられた。

「おまえに死なれると、俺が困るんだ。また何十年も待たせるつもりか」

「ゲホ、ゲホッ」

 ナオトはようやく顔をあげて、自分を睨み下ろしている転校生を見つめた。

 そのとき突然、レンズが焦点を合わせたように、意識がひとつの記憶に収斂する。

『おまえに死なれると、困る』

 あのときも、そう言われた。

 まだ幼い頃。友だちとザリガニ採りをして遊んでいて、貯水池に足をすべらせておぼれそうになったとき、見知らぬ「おにいちゃん」が、引き上げて助けてくれたというおぼろげな記憶が、ナオトにはあった。

 あのときも。あのとき彼を抱き上げた少年も、同じことを言ったのではなかったか。こいつとまったく同じ目をして。

 そんな馬鹿な。あれは13年も前だ。

「お、おまえは誰なんだ、なぜ僕につきまとう」

「まだ思い出せないか」

 心が焼けつくようなまなざしを残して、彼は雑踏に消えていった。



 怖い。

 あいつがそばに来ると、自分が自分でないモノに変わってしまう。何かが忍び入り、内側に触手を伸ばしてくるような心地がする。

 僕を、僕自身を壊すことができるのは僕だけだ。あいつじゃない。

 ナオトは、公衆電話ボックスに飛び込んだ。

「僕だよ……。ああ。頼みたいことがある。

明日の晩、何人か集めてくれ。やっつけてほしい奴がいるんだ。……いや、ひとりだけだ。金はいくらでも払う」



 廃工場の跡地で、呼び出した転校生が数人に取り囲まれるのを、ナオトは震えるような戦慄を感じながら遠くから眺めていた。

「悪いが、ちょっと手ひどくやらせてもらうぜ。たんまりお駄賃もいただいてることだしな」

 本物の麻薬に手を染めている彼らは、金さえもらえば人殺しでも何でもやってのけるという巷の噂だった。

「ふん、ガキが」

 舌なめずりをする狂った目の男たちを、転校生はおびえた様子もなく、あざ笑った。

 彼らは一斉に殴りかかった。しかしその攻撃はどれも、髪の毛ひと筋の差で避けられてしまう。

「くっそうっ!」

 からかわれていることに気づいて逆上した不良たちは、次々と懐からナイフや物騒な武器を取り出した。

「殺してやらあっ」

「やめろ、殺せなんて言ってない!」

 ナオトは必死に叫んだ。「もういい。金はやるから、やめてくれ!」

「うるせえっ」

 突き出された武器を難なくかわし、信じられないほどの距離を後ろに跳んだ転校生は、手に持つ長い棒を包んでいた布をくるくると巻き取った。

「オン・バザラヤキシャ・ウン」

 一声、呪文のようなものを唱えると、彼は現れた刀を鞘から放ち、銀色に光る刀身をふりかざした。

 うわああああっ。

 まばゆいほどの白い光が工場跡を満たしたかと思うと、絶叫が響き渡った。

「やめろ、やめろおっ」

 ナオトは、膝を抱えて暗がりですすり泣いていた。

「殺……さないでくれ。命ある者を……殺さないでくれ……」

「慈恵」

 頭をぽんと叩かれ、気がつくと転校生が彼をじっと見つめていた。

「あれを見てみろ。今のおまえなら見えるはずだ」

 地面に倒れ伏す不良どもの身体から、真っ黒な煙が立ち昇っている。

「あいつらは、ことごとく夜叉に憑かれていた。俺は奴らを追っているうちに、おまえの引っ越した町に来ていたんだ。偶然にしてはできすぎているな。これがおまえの言っていた仏の導きってやつか」

「死んだ……のか」

「いや、死んではいない。これは憑かれた人間を傷つけずに、憑いた夜叉のみを調伏する剣。天叢雲と草薙。覚えているか?」

「天……叢雲……」

(久しぶりじゃのう、慈恵)

「草薙……?」

「やっぱりおまえは、どうしようもない阿呆だな。こんなに待たせやがって」

 転校生は、そのとき初めて笑った。

 その笑みを見たとたん、ナオトの頬に理解のできない涙が伝い出した。

「なぜだ……。そんなはずはない。僕が、そんなこと記憶しているはずはない。

だって、僕は……僕だ。僕を壊さないでくれ。僕は……、僕は?」

「ああ」

「慈恵?」

「そうだ」

「そして、君は、矢上……統馬」

「やっと思い出したか」

 ナオトは、統馬の肩に顔をうずめて大声を上げて泣いた。なつかしさとともに次から次へとあふれる涙が、今までの自分を壊していく。

 そして、本当の自分を取り戻していく。

 さんざん泣き尽くしたころ、統馬は彼を自分の足で立たせた。

「これから、忙しくなる。残る夜叉八将はあと4体。おまえの力をまた借りなきゃならねえ。わかってるだろうな、慈恵」

「はい、わかっています」

 ナオトはぐいと袖で涙を拭き上げると、朝焼けの空に見入った。不思議と世界中の何もかもが、生まれて初めて見るもののように美しかった。

「……それから、統馬」

「なんだ」

「僕の今生の名前は……、久下尚人です」

 






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