捨てられ公爵令嬢は領地ごと引越します
「エリシア・ローレンス公爵令嬢。お前との婚約はここで破棄させてもらう!」
収穫祭の夜会。
王城の大広間に響き渡った王太子レオンハルトの言葉にエリシアはすぐには反応せず、やがて静かに尋ねた。
「理由をお聞かせ願えますか?」
「お前とお前の家門の罪は、もはや見逃せぬ」
空気が凍りついた。
「罪、でございますか?」
「そうだ。王家が行っている貧民救済事業において、ローレンス領から買い入れている小麦の質が基準に満たないにも関わらず市中価格で納入されていることが分かった。これは王家と王国民に対する明らかな背信行為だ」
「そんなはずはーー」
「黙れ! この件はすでに財務卿が調査済みだ」
レオンハルトは声を荒げエリシアの言葉を遮る。
「財務卿……ベルクロフト伯爵ですか」
「黙れと言っただろう。小麦の件だけじゃない。お前自身のリリアナへの嫌がらせと中傷もすべて調査済みだ」
ざわめきが広がる。
「まあ……」「ローレンス公爵家が……」
どれもここ数ヶ月王都で囁かれていた噂そのままだ。エリシアは静かに瞼を伏せる。
その時レオンハルトの横に立っていた金糸のドレスの少女――伯爵令嬢リリアナ・ベルクロフトが震え声で言った。
「レオンハルト様おやめください……。エリシア様は本当はお優しい方なのです」
涙をこらえる少女に王太子は首を振る。
「リリアナ。これ以上、君を苦しませるわけにはいかない」
そして再びエリシアを見据えた。
「ローレンス公爵家には本来の小麦価格との差額で儲けた分の全額を返金し、さらに賠償金としてその同額を王家に納めるよう命じる。また陛下がローレンス公爵家に与えていた特権はすべて見直すものとする。王宮での役職も解任だ。今後は王宮への出入りも制限させてもらう」
一つひとつの宣告が深くエリシアに突き刺さる。だが彼女は静かにただ現実を受け止めた。
(やはり完全にうちを切るつもりなのですね)
「そして」
レオンハルトはわざと一拍置いた。誰もが息を潜める。
「王太子妃の座はリリアナに与える! 彼女こそ民のために涙を流せる真の妃だ」
ーーパチ、パチ、パチ
誰かが空気を読んで叩き始めた拍手がやがて大きな波になる。賛同とも追従ともつかぬ音が周囲に響き渡った。
エリシアは静かに息を吸う。そしてーー
「……畏まりました」
自分の声は驚くほど澄んでいた。
「殿下がそうお決めになったのであれば、わたくしから申し上げることは何もございません。これまでのご厚情に心より感謝いたします」
顔を上げるとレオンハルトがわずかに眉をひそめた。もっと取り乱すと思っていたのだろう。
「それだけか?」
「はい。それだけでございます。……いえ、一つだけ。この度の沙汰、病に伏していらっしゃる王陛下はご存知なのでしょうか?」
「と、当然だ!」
「承知致しました。ならば私から申し上げることはございません」
ささやきが広がる。助け舟はどこからも出ない。貴族たちは距離を取りながら見世物を見ているだけだ。
エリシアはスカートの裾をつまみ最後まで礼儀正しく一礼した。
「それでは、これにて失礼いたします」
人の輪が自然と割れる。誰も彼女を止めない。
重い扉が開きひんやりとした空気が流れ込んだ。
廊下に出た瞬間、夜会の熱気は遠ざかる。
エリシアはふうっと息を吐いた。
「……これで終わり、ですか」
王太子の婚約者としての十年が頭をよぎり、通り過ぎてゆく。
「領地に戻ってお父様に報告しなければなりませんね」
エリシアは振り返らずに歩き出す。
その背に王城の光はもう届いていなかった。
婚約破棄の翌日。王都にあるローレンス公爵家の屋敷は前日の騒動にも関わらず異様に静かだった。
自身の執務室で持ち運び用の書類箱に書類を詰めるエリシア。彼女が机の引き出しから取り出していたのは、領地の収支表、改良した農具の図面、そして隣国との交易案のメモなどだ。
「お嬢様……本当に王都を去ってしまわれるんですか」
侍女のヨンナが泣き出しそうな顔で見つめてくる。
「ええ。これ以上ここに留まる理由がないですもの」
エリシアは淡く微笑んだ。
「でもこのまま殿下に捨てられてしまうなんて……」
「さて、捨てたのは一体どちらになるのかしらね」
ぽつりと呟いた主人の言葉に、ヨンナはぽかんと口を開く。
(わたくしは王太子妃の座を乞うた覚えはありませんもの)
書類を見ているとこれまで自分が尽力してきた事業の数々が思い出される。
ここ数年の干ばつ被害。公爵家の備蓄を放出し王都の倉庫を満たしていたのはエリシアだった。
穀物備蓄を分類し、古いものを格安で優先的に出荷できるよう流通を整え、王都に供給した。
この施策は王都の食料価格の安定に繋がった。
(レオンハルト殿下の「英断」と称えられているけれど、実際に動いたのはうちだけだった)
畑の収量を増やすためにエリシアが主導して公爵家で開発した改良農具は、今や王国全土の畑で使われている。
だがその功績は王家のものとして発表され、エリシアの名は報告書の隅に小さく添えられただけだった。
断罪の根拠となった貧民救済事業にしてもそうだ。
元々の発案者はエリシアで、王都の貧しい人々が餓死しないよう公爵領の二級品の小麦や食物を格安で王家に卸す形で始めたものだ。その質は二級品とはいえ十分に売れるレベルのものだったはずだ。
輸送と中継を請け負うベルクロフト伯爵家がこっそり自領の四級品にすり替えなければ。そして買い入れ金額と卸金額との差額を着服したりしなければ。
国の財政を担っているはずの財務卿の手により、数字と品物が静かに汚されていった。
エリシアが不正に気づき秘密裏に調査を始めた頃には時すでに遅く、いつの間にか広まっていたのは『ローレンス公爵家は王太子の婚約者である令嬢を使い不正を行っている』という噂だった。
(見事に嵌めてくださいましたわね。本当に)
エリシアはため息を吐き、窓の外を見た。
鳥が飛んでいる。青い空を。自由に。
ふと机の一番下の引き出しに手を伸ばす。
そこには、封蝋が割られた数通の手紙がしまわれていた。
封に刻まれているのはこの国のものではない紋章。隣国フェルディア王国の宰相補佐カイル・ヴァンデルの家門のものだ。
数年前からエリシアは自身が主導して改良した農具や農業改革のヒントを偽名でカイルに送っていた。
そうして返された礼状の文面はいつしか具体的な相談へと変わっていき……ついに先日、彼は本題に触れてきたのだ。
エリシアはその手紙を取り出した。
『貴殿の施策に感嘆しております。もしもあなたが今の立場に満足しておられないのであれば、ご家族やご友人とともに我が国にいらっしゃる気はありませんか』
丁寧な言葉の裏に鋭い計算が透けて見える誘い文句。手紙の差出人はエリシアの名を知らないことになっている。……が、きっともう調べはついているのだろう。
エリシアは手紙を丁寧に畳み、箱の一番上にそっと置いた。
「ねえヨンナ。今から手紙を書くから、ある所へ届けてきてもらえるかしら」
「はい、もちろんです!」
「では荷造りの続きは後で。わたくしたちの『引越し』の準備はまだ始まったばかりですものね」
ヨンナには意味の分からない言葉だったが、エリシアはウキウキした様子で手紙をしたためにかかったのだった。
三週間後。
ローレンス公爵ヘルマンは、娘が差し出した書類に目を通しながら眉間に皺を寄せていた。
「王都の穀物倉庫の二割以上がうちの備蓄の放出品か」
「はい。特に昨年と一昨年は三割を超えていますわ。公表値はごまかされていますが」
エリシアは淡々と答え、別の束を指し示した。
「こちらが私主導で開発した改良農具の普及状況と国内の収量遷移、そして発明料を取ったと仮定した場合の収入額です。王家の発明として技術を無償公開しましたが、仮に発明料を受け取るとするとそのくらいの金額になります」
公爵は深く息を吐く。
「分かっていたつもりだったが、いざ数字で見せられるととんでもない金額だな」
「私も数字をまとめていて自分で驚きました」
苦笑するエリシア。
「そしてこちらが貧民救済事業で当家が出荷した農作物の『本来の利益』です。ベルクロフト伯爵家の中抜きによって、王家と国民に還元されたはずのこのお金は全て伯爵家に入りました。また同家は四級品へのすり替えも行っていましたから、転売利益を考えるととんでもない額を得ていたことになります」
その総額を見た瞬間、公爵は目を見開いた。
「これほどまでに……」
「はい。それがわたくしたちが奪われた国への貢献です」
エリシアは目を伏せる。
「けれど殿下はわたくし達を罪人と呼び、その金額の返還のみならず、同額の賠償まで請求されました。それが、建国以来国を支え続けた我が家門へのこの国の答えなのでしょう」
静かな言葉だった。
公爵の大きな手が、ぎゅっと拳を握る。
「許せぬ。ベルクロフトも、無能な王太子も。だがそれでも我らには領民を守る義務がある。勝算もなく王家に反旗を翻すことはできん」
「でしたら反旗を翻すのではなく『お引越し』を提案いたしますわ。お父様」
「引越しだと?」
怪訝な顔をする父親を前にエリシアはフェルディア王国から送られてきた書簡を机の上に置いた。
カイル・ヴァンデル小侯爵。隣国の若き宰相補佐が草案を書き、フェルディア王のサインが記された正式な提案文。
そこにはざっとこのような提案が記されていた。
『ローレンス領をフェルディア王国の自治領として迎えたい』
『エリシア・ローレンスをフェルディア王国の経済顧問として迎えたい』
「随分とお前のことを買っているな」
「ええ。釣り餌は厳選しましたから」
さらりと言ってのける娘に公爵は頭を抱えたくなった。
「エリシア、お前……」
「お叱りでしたら後でいくらでも承りますわ。今は領地と領民をどう守るかだけを考えるべきかと」
エリシアは父の目を見る。
「このまま現王国に留まれば、我が家門は無実の罪を着せられ滅びることになるでしょう。ローレンス領は王家かベルクロフトのものとなりこの世から姿を消してしまう」
目を閉じ、腕を組むヘルマン。
「ならば、わたくしたちの価値を正しく理解し一番高く買ってくれる相手と組むべきです」
「それがフェルディアだと?」
「少なくとも今はそうです」
公爵は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「お前はそこまでしてこの国を捨てたいのか」
「いいえ」
エリシアは首を振る。
「わたくしたちを捨てたのは王家ですわ。わたくしはその事実を受け入れ次に進みたいだけです」
「ふむ…………」
やがて公爵は椅子から立ち上がり、窓の外の空を見た。
「分かった。ローレンス領はフェルディア王国の編入提案を受け入れることにする」
「お父様……」
「だが一つだけ条件がある」
公爵は振り返り、娘をじっと見つめた。
「お前自身も幸せにならなければならん。領地と領民を守ってお前が壊れてしまうような選択は、父親として認められん」
エリシアはほんの少し目を丸くした後、ふっと笑った。
「ではやはりお引越しが正解ですわね」
「ほう?」
「フェルディアの宰相補佐には以前交流行事でお会いしたことがありますが、なかなか有能な方でしたもの。共同事業を行う相手として申し分ありませんし、将来の……」
言いかけて、エリシアは口をつぐむ。
「将来の?」
「いえ、なんでもありませんわ」
その日のうちに公爵はフェルディアへの使者を立て、同時に王都の屋敷と商会をたたむ準備が始まった。
ローレンス公爵家とその領地は静かに『引越』の支度を始めたのである。
数週間後。
王城の評議室では怒号が飛び交っていた。
「ローレンス公爵が我が国からの離脱を宣言しただと!?」
「フェルディアと保護協定を結んだ模様です! フェルディア王国から正式に領地編入の宣言書がまいりました!!」
「ローレンス公爵家の王都の屋敷、商会、穀物倉庫、全てがもぬけの殻になっているとの報告が!!」
報告を受けた大臣たちは青ざめ、口々に危機を叫ぶ。
「王都の穀物相場はどうなる?」「軍の食料は!?」「税収が二割は減るぞ!」
レオンハルトもまた顔を青くしていた。
「か、代わりの領地などいくらでも……」
「殿下」
宰相が震える手で書類を差し出す。
「こちらはローレンス領の過去五年の王都との取引実績と、離脱後の変化を予測したものです」
数字を追うにつれ、レオンハルトの表情から余裕が消え失せる。
「……これは本当なのか?」
「はい。間違いありません。王都の食料政策はほぼ全てエリシア様が差配されておりました。要するにローレンス公爵家による備蓄の放出がなければ王都は到底まわらない状態になっていたのです。またエリシア様の部下の告発により、ベルクロフト伯爵家が貧民救済事業用の作物を劣等品にすり替え、王都に横流しして販売していたことが分かりました。今後はその分の作物の品質も低下しますから、民衆の反発は非常に大きなものになると思われます」
「ま、まさか財務卿が?!」
「はい。証拠もそろっておりましたので先程騎士団が伯爵の身柄を拘束しました」
「そんな……そんなバカな……」
拳を握り、プルプル震える王太子。
部屋に広がる重い沈黙。
今さらになって王太子は気づく。
婚約者とその家門がどれだけ国のために尽くしていたのかを。
そして自分がどれほど婚約者に頼り切っていたのかを。
「エ、エリシアを呼べ。話をしなければ……」
だがレオンハルトの命は果たされることはなかった。
すでに所属を変えてしまったローレンス公爵家は、もはや彼の戯れ言を聞く耳など持たなかったのだ。
後日。ローレンス公爵領。
公爵家の屋敷の車まわしに一台の豪奢な馬車が停まっていた。
「まさかカイル様自らわたくしを迎えに来られるとは思いませんでしたわ」
旅装に身を包んだエリシアは、目の前に立つフェルディアの紋章をつけた青年にそう言った。
淡い灰色の瞳をもつ男――カイル・ヴァンデルだ。
「レディ・エリシア。国の顧問となって頂く方をお迎えにあがらぬほど我が国は礼儀知らずではありませんよ」
「あら、うれしい。フェルディア王家と貴殿のご配慮に感謝いたしますわ。…………それで、実のところはどうなのです?」
にこりと笑みを向けるエリシアに、カイルはふっと笑った。
「貴女に一刻も早くお会いしたかった。ご存知の通り近年我が国は大変な食糧難に陥っており、貴女の力を必要としているのです」
「あら、それだけですか?」
「……貴女は聡い方だ。もちろん私が個人的に貴女に早くお会いしたかったというのもありますよ」
カイルは首をすくめると、馬車にエリシアを案内する。
「心残りはありますか?」
「ありませんわ」
エリシアは即答した。
「わたくしの努力を『罪』としか見なさなかった場所から、『功績』と呼んでくれる場所へ引越すだけですもの」
その先には、新たな仕事と忙しい日々、そしてまだ見ぬ未来がある。
「ただ、一つだけ誤算がありましたわね」
「ほう?」
カイルが興味深げに眉を上げる。
「フェルディアの宰相補佐は思っていたよりもずっと積極的な方でした」
「それは光栄ですね」
彼は立ち止まり、真剣な眼差しでエリシアを見る。
「以前お会いした交流会で貴女を見た時から――いえ、交流会前の事前調査で貴女の施策を知ったときから、私は貴女に惹かれていました。その覚悟と才覚にね」
エリシアは一瞬きょとんとし、それから小さくため息をつく。
「軽々しく『惹かれた』などと口にする方は信用できませんわ」
「軽い気持ちで申し上げている訳ではありませんから、どうぞご安心を」
「言い返しにくいことをさらっと仰いますわね」
二人の口元が緩む。
(婚約破棄から始まった騒動が『貴女に惹かれていた』なんて話になってしまうなんてね)
エリシアはカイルが差し出した手を取り、馬車に乗りこむ。
「それでは行きましょうか。わたくしが新たに過ごすことになる場所へ」
「はい、レディ・エリシア。貴女と領地の引越しの総仕上げですね」
馬車が動き出す。
車輪の音が、古い縛りを踏みしめるように、軽やかに響く。
こうして公爵令嬢エリシア・ローレンスは自分が捨てられた国を離れ、領地とともに彼女を必要とする隣国へと引っ越していったのだった。
数年後。
フェルディア王家の血を引くカイルが色々あって王位についたり、王国の食料問題を解決したエリシアが『賢妃』と称えられ国内外にその名を轟かせるようになったりするのだが……それはまた別のお話。
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