次の慣用句の空欄を埋めよ.
「はあ」
六月、梅雨に湿った部室にため息が漏れた。
「梅雨って憂鬱よねえ」
アンニュイな空気を醸し出す装置と化した部長が言う。
「部長は梅雨が嫌いなんですか?」
「好きな人なんてどれくらいいるのかしら? あんたは好きなの?」
「僕ですか?」
僕は少し考えた。別に梅雨は嫌いではない。というかある特定の季節を好きとか嫌いとか言うのは好きではない。ただ、本が曲がるので少し苦手である。
「あまり人に好かれる季節でないことは事実ね」
貴子先輩が話に加わった。
「でもさっちゃんは他にも嫌なことがあるのよね」
「ぎくっ」
「自分の口でぎくって言う人を僕は初めて見ましたよ」
「別にいいでしょ、それくらい!」
部長はすねたように唇を尖らせた。貴子先輩の落ち着いた声が言う。
「別に大したことじゃないの。ただこの間、現代文で抜き打ちテストがあったの」
「ああ」
僕はすべてを察してできるだけ優しい目をして部長を見た。
「ああって何よ! ああって! 馬鹿にしてんの!?」
「別に馬鹿になんてしていませんよ」
「じゃあなんて思ったのよ」
「ただ部長は成績悪そうだなあって」
「馬鹿にしてる!」
「してません」
でもほんのちょっとはしていたかもしれない。
「それで、やっぱり成績悪いんですか?」
僕が問う。部長はやけくそ気味に答えた。
「悪いわよ! なんか悪い!?」
たぶん成績が悪いのだろう。と思ったが、さすがにそのことは口にしなかった。
「一回のテストがちょっと悪かったことくらい気にすることないと、私は思うんだけどね。それに今回のテストはちょっとおかしかったし」
「ちょっとおかしかった?」
どういう意味だろうか。
「わたしもね、成績自体は実はそれほど気にしてないの」
それはそれでどうなんだと思わんでもないけれど、部長はため息をついて続けた。
「でも現代文が悪いって言うのはショックだわ。貴子に会ってから本を読む量が増えたし、ちょっとくらいできるようになるんじゃないかと思ったんだけどねえ」
「貴子先輩に会ってから?」
ということは貴子先輩と部長は別に古なじみというわけではないのだろうか。
「貴子と知り合いになったのは高校に入ってからなの」
「それじゃあまだ会ってから2年くらいってことですか、なんか意外ですね」
根拠もなくなんとなく、二人はずっと昔からの友達なのだとばかり思っていた。
「そう?」
部長は首をひねった。
「まあとにかく、今日の『書籍部』の活動は決まったわね」
「決まったって何がですか?」
僕の問いに、部長は力強く答えた。
「今日は勉強会をしましょう」
****
「勉強会って要するに、部長に勉強を教えろってことですか」
「まあそうとも言うわね」
部長はえらそうに頷いた。なんでそこまで偉そうなのか――いやまあそれはいいとして、それ以前に僕は一年生で、部長たちは三年生だ。
「学年が下の生徒が上の生徒に教えるのは難しいと思うんですが」
「別にそんなことないんじゃないかしら」
貴子先輩が手元にあった現国の教科書を見ながら言う。
「現代文の問題って、数学とか化学とかと違って、別に何かの記号とか公式を知っていなければ解けないってわけじゃないんだし、解こうと思えば一年生でも三年生の問題を解けるんじゃないかしら」
「ちなみに成績はどうなの?」
部長が僕に問う。
「いい方だとは思いますけど」
「あっさり答えるわね」
「別に否定するようなことでもないですし」
「優秀な部員たちに囲まれてわたしは幸せな部長ね……」
と、一人成績が微妙な部長は遠い目で窓の外を見た。
「とこでろさっちゃん、この間の試験の問題用紙と解答用紙は持ってる?」
貴子先輩の質問に部長はこくんと頷いた。
僕はその意図をすぐに理解した。
なるほど、前回の試験で駄目だった部分をまずは復習しようというのだろう。
「そうね、普通ならそうなのだろうけど、でも今回はそれだけじゃないわ」
「というと?」
貴子先輩は意味深な笑みを浮かべて僕を見た。
「まあ、見ればわかるわよ」
ということで、その問題を見てみることにした。
大問1の最初の問題は穴埋め問題だった。
問1(配点3×3) 次の慣用句の空欄を埋めよ。
1 ( )に油揚げをさらわれる.
2 ( )が鷹を生む.
3 一富士二鷹三( ).
なんか偏った問題だなあとか、高3に出す問題でこれは馬鹿にしてるとか、2つ目は慣用句っていうのだろうかとかいろいろ思ったが、とりあえずそれらすべてを飲み込んだ。
ここで突っ込んだら話が進まないのだ。
そう今日はできるだけ突っ込みは抑えようと心に誓う。
今回は部長の成績がかかっているのである。
「でこれがさっちゃんの答え」
貴子先輩は記入済みの解答用紙を取り出した。
問1(配点3×3) 次の慣用句の空欄を埋めよ。
1 (ゾンビ)に油揚げをさらわれる.
「どういう状況!?」
思わず突っ込んでしまった。部長が答えた。
「わからないわ!」
「なんで部長がわからないんですか!? 部長の回答なんでしょう!?」
「だって知らないもの!!」
「じゃあ意味不明じゃないですか!」
「わからないじゃない! 油揚げが好きなゾンビがいるかもしれないじゃない!」
「いませんよ!」
「なによ、あんたがゾンビの何を知ってるのよ!」
「何も知らないですけど!?」
「次の回答もすごいわよ」
貴子先輩に促されて次の答えを見る。
2 (ゾンビ)が鷹を生む.
「生むわけあるかぁ!」
「わからないじゃない! 鷹を生むゾンビだっているかもしれないじゃない!」
「いませんよ!」
「あんたがゾンビの何を知ってるのよ!?」
「だから知らないですけど!? でもたぶんゾンビは卵生じゃないです!」
「あるいはタカアンドトシのタカの方かもしれないわ!」
僕はゾンビからお笑い芸人が生まれる状況を想像した。なぜか成人の芸人が口から出てきた。
「こわっ!」
「で、最後がこれよ」
3 一富士二鷹三(ゾンビ)
「正月早々夢見は最悪ですね!」
「諦めるのは早いわ! 富士山と鷹もあるわけだし、まだわからないわ!」
「もう無理ですよ。絶対その鷹、ゾンビ産ですよ……安心させといて殺しに来るパターンです」
「わからないじゃない! 鷹ゾンビだって縁起がいいかもしれないじゃない!」
「もうゾンビ確定じゃないですか! っていうかこれは無理があると思わなかったんですか!?」
「だって上二つがゾンビだったらこれもゾンビかなって」
「日本の慣用句にゾンビは出てこない!」
僕は突っ込みつかれて、咳き込んだ。
「ていうかなんでこんなにゾンビ押しなんですか……」
「この間貸したのがいけなかったのかしら」
貴子先輩が頬に手を当てる。
「何を貸していたんですか? 『死霊の盆踊り』でも貸したんですか」
「そんなZ級映画貸さないわ」
「じゃあなにを」
「『高慢と偏見とゾンビ』」
「B級だぁ……」
「でも面白かったわ」
部長は感慨深そうに頷いた。
「以前『高慢と偏見』を貸していたの。それでさっちゃんその続きが読みたいって言うから」
「別に『高慢と偏見とゾンビ』は続編ってわけじゃないですけどね……」
『高慢と偏見、そして殺人』の方を貸していた良かったのに、と僕は思った。いやそれはそれで回答が『殺人』で埋め尽くされていたのだろうか……
なんにせよ読むものに影響を受けすぎだろう。
「部長は本を読んだ後、誰かに確認してもらった方がいいですよ……」
「えーでもそれはそれで本のことを馬鹿にしてない? オースターも言ってるわ。“本を読む時はね、誰にも邪魔されず自由で救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで……”って」
「その人、オースターじゃなくてただのおっさんですよ!?」
「たぶんさっちゃんが言いたいのは、“言葉たちは、何か月、時には何年にもわたる一人の男の孤独を体現している。だから、ある本を一語読むごとに、人はその孤独を構成する一個の分子と向き合っているといってもよいだろう。” だと思うわ」
「そう! それ!」
「もはや原型がない……」
部長が熱心に頷いている横で、僕はがっくりと肩を落とした。
「とにかく、本に向き合うときは独りで、真摯に向き合うべきなのよ」
「そうかもしれないですけど、でも部長はなんか違いますよ」
「そうかなあ」
部長は首をかしげた。
「そんなわけでこの問題で3点しかもらえなかったのよ」
「3点!? なんでこの回答で点がもらえるんですか!?」
「面白かったからって言ってたわ!」
「そんな大喜利じゃないんですから……」
ていうかそれでいいのか国語教師。
僕の口からため息が漏れた。
一番最初の問題からこんな調子で僕は大丈夫だろうか。
いやまだだ。まだ僕は突っ込めるはずだ。突っ込み体質の本領を見せる時が来たのだ。
若干ハイになった頭で思い直す。そして強い決意と共に、次の問題へと目をやった。
問2 「である」ことと「する」ことの違いから、近代化の説明を試みた政治学者と言えば?
「これって国語の問題なんですかね? どっちかっていうと歴史の問題な気がします」
「でも昔、国語の教科書に載っていた気がするわね」
「そうでしたっけ?」
そうだったかもしれない。あまり覚えていなかった。
「それで、答えは誰かわかる?」
「確か、丸山眞男で合ってますか?」
「ええ。それで、こっちがさっちゃんの答えよ」
言いながら貴子先輩が解答用紙を見せる。
解答欄には、
処刑人〇キュラ.
「誰だよ!?」
全霊で突っ込んだ。意味が分からなかった。貴子先輩が失望したように僕を見る。
「あら知らないの? 遊〇王のカードよ」
「いや知りませんよ!? だから何だってんですか!?」
「詳しく説明すると面倒だけど、遊〇王にはタイミングを逃すっていう概念があるのよ。ものすごく単純化して言えば『~する』っていうテキストの効果と『~できる』っていうテキストの効果は違う、でいいかしら」
「それは単純化しすぎじゃないかなあ」
部長が口をはさむ。どうやら部長にはわかるらしい。何なんだろう。この二人は決闘者と書いてデュエリストっていうタイプの人間なのか。
「ていうか知りませませんよそんなこと! だいたいそれだと「できる」ことと「する」ことじゃないですか!?」
「そういえばそうね」
貴子先輩が手を打った。
僕は頭が痛くなった。
部長がしみじみと言った。
「でも部分点は貰えたのよね」
「正気ですか!?」
僕は肩で息をした。
****
大問2は標準的な現代文の形式にのっとり、最初に数ページほどの問題文があり、そのあとにその文章に関する問題が並んでいた。
問題文は――
「なんで『犬のお告げ』……」
僕は思わずつぶやいた。
それはチェスタトンというイギリスの作家の有名な短編推理小説の一部だった。ブラウン神父もので、日本で手に入りやすいのでは『ブラウン神父の不信』という短編集に入っている。
それはこんな話である。
ある家でお金持ちの主人が殺された。
そしてちょうど彼が殺されたその時、散歩に出ていた彼の飼い犬が悲しそうに吠えていた。
まるで遠く離れた自宅で、己が主人が殺されたのを知っていたかのように……
「推理小説を問題にしちゃいけないという理由はないですけど、こういうのは珍しいですね」
「で、問題は最初からこれよ」
問1 この事件の犯人を指摘し、そのように推理する理由を100字以内で述べよ。
「……これは問題として一番やってはいけない類の問題では?」
「どうして?」
「だってこの小説割と有名ですし、知ってる人は犯人知ってますよ」
「それはそうね。でもよく配点を見て」
「配点?」
「問の横」
そこには小さくこう書かれていた。
(配点0)
「ひっかけ問題じゃないですか……」
「こういう事をする教師なのよ。たぶんあなたもいずれ担当になるから」
気を付けてね、と貴子先輩は言った。
ひどい話だ……
「でも推理小説を問題にするってやっぱり問題がある気もします」
「なんで?」
「この話の一番の肝はなんで、犬が吠えたかじゃないですか。あ、貴子先輩はこの話読んだことありますか?」
「ええ」
「となるとやっぱりそのことを出題したいと思うんです。でもこの問題ってすごく出しづらいです」
「なぜかしら?」
「それは、犬が吠えた理由に、とても自然で、合理的な説明があるからです」
僕は答えた。
「この犬が吠えて理由は、犬から見て自然な理由がありますし、それを手掛かりにブラウン神父は事件を解決します。ですが、推理小説以外の小説だったらどうでしょうか? 犬が吠えた理由として、自分の主人の死を直感して吠えた、と答えを書いても間違いではないと思うんです」
貴子先輩は少し考えて、それはそうかもしれないと頷いた。
「だとすると、文学の解釈って言うのはその作品の形式や、方向性に依存するという事になりませんか? そこまで判断して国語の問題の解答を作れと言うのは酷じゃないですか?」
「君の言いたいことはわかるわ。書籍を理解するっていうのはそういう形式や、作家や、当時の文化や、あるいは編集とかの、文章以外のことも理解して初めて完全に理解するってことよ。でも現国の問題はそこまで考えていないと思うわよ? それにね」
貴子先輩は続けた。
「だからこそ、文学っていうのは面白いんじゃない」
「……」
僕はその通りだと思った。
****
全体的に部長のミスは問題文をきちんと読んでいないことに起因しているものが多い印象だった。
「でも普段はもう少し点数採れるんだけどなあ」
鼻の下にシャーペンを挟み込んだ部長が言う。本当に反省しているんだろうか。
「そうなんですか?」
貴子先輩に確認する。貴子先輩は「ええ」と頷いた。
「大体さっちゃんは成績悪いって言うけれど、国語以外はそんなに悪くないもの」
「へえ、意外です」
「それにうちの学校進学校じゃない? ぶっちゃけ世間一般で見れば、さっちゃんは成績良い方よ」
「えぇ? 本当?」
部長は疑わし気に貴子先輩を見た。
「本当本当。国語だって普通は割といい点なのよ。ただ、今回は相性が悪かったわね」
「相性?」
貴子先輩が頷いた。
「貴子、わたしが今回駄目だった理由判るの?」
「ええ、もちろん」
「それじゃあ教えてよ!」
「教えたってどうしようもないことなのだけど、知りたい?」
「知りたいわ! ていうかどうしようもないかなんて貴子が決めることじゃないじゃない。だから教えて」
そこまでいうのなら、と貴子先輩は言って、それから部長に逆に問いかけた。
「さっちゃんって動物が出る文章好きよね」
「え、そうかなあ」
「『ペンギンの憂鬱』とか『有頂天家族』とか好きよね」
「うん」
部長は神妙に頷く、
「今回の文章も犬が出ていたでしょ?」
言われてみればそうである。だから、と貴子先輩は部長に訊ねた。
「今回の文章、面白かった?」
「うーん、結構好きかも」
「それが原因よ」
「え?」意味が分からないという顔をして部長は貴子先輩を見た。
「問題を解くことじゃなくて、文章楽しむのに集中していたでしょう?」
「あー」
部長は何かに思い当たったようで声を上げた。
「それがさっちゃんの弱点なのよ」
「弱点?」
僕は意味が分からず繰り返す。
「面白いとお話に夢中になっちゃって、問題が解けないのよ」
「言われてみると、そうかもしれないわ!」
ガーンと言うように大きく口を開いて、部長はその場に崩れ落ちた。
部長は難儀な人だなあ、と思った。
「まあ、あんまりおもしろくない問題文が出るように祈るしかないわね」
「お手上げかあ」
部長は机に突っ伏した。
****
後日、この間の試験は成績に反映されないことになったと、部長は意気揚々と語った。
そりゃそうだろうと僕はため息をついた。
[1] ポール・オースター, 柴田元幸訳, 『孤独の発明』, 新潮社, 1996年




