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その日突然来た客人に、留衣は目を丸くした。


「ニッポリア王子殿下のお呼びです」


目を丸くした留衣は、目前の従者をまじまじと見つめた。


「王子様って……トゥーイさんなら」

「フェスペルテ殿には内密に、あなたにお越しいただきたいと」


トゥーイに用事かと思えばそうではないらしいことに、留衣はますます困惑した。

後ろに控えていたニーナを振り返ると。


「トゥーイ様には黙っておきます」


端的に言われた。

トゥーイの従者なのにいいのだろうかと思う。


「えっと、この間みたいにちゃんとした格好になった方がいいのかな」

「そのままで結構ですよ、馬車へどうぞ」


ニーナに尋ねたら従者が答え、さあさあと馬車へ促される。

あわあわとしながらも馬車に乗り込むと、あれよあれよと出発してしまった。

窓の外をぼんやり見ていると、あえて考えないようにしていたことを思い出してしまう。

最近トゥーイの顔を見ると、何だかドキドキしてしまうのだ。

慣れた家のなかではいつも通りに振る舞れているけれど、うっかり遭遇したらわからない。

王城で会いませんようにと祈っておいた。

家で必死に装ってても、一人になると薔薇を抱えて帰った日のことを思い出してしまう。


「だってあれキスじゃん!もうキスじゃん!いや確かに唇触れてないけどさ!」


両手で覆った顔は耳まで真っ赤だ。

自慢じゃないが瑠衣は学校でも男子生徒と接したこともないし、高校にいたっては女子高だ。

単純明快な性格なおかげで男性と話しても怖いとか慣れないとかはほぼないけれど、接触は別だ。

しかもその数日前には上半身だけだけれどトゥーイの裸も見ている。

傷跡も後々考えたら何があったのだろうと疑問に思ったけれど、見た瞬間は裸というものが衝撃的すぎてすべて吹っ飛んでしまったのだ。

でもあの薔薇の花弁を取った行動は、動揺しかない。

もうあれは花弁超しのキスじゃないかと、夜にベッドの上で何度もローリングしたほどだ。

いっそ平気な顔をしているトゥーイが憎たらしかった。

そんなことを悶々と考えていると王城に到着し、青と白を基調とした応接間らしき場所へ案内された。


「よく来てくれた」

「こんにちは」


 ニッポリアの言葉に慌てて挨拶すると、すでに座っていた彼から柔らかい笑みを浮かべられた。

 ニッポリアが右手で座るように示したので、慌てて座る。

 侍女が鈴蘭柄のティーカップに紅茶を注ぎ、クッキーを置いて退室して行った。

 落としたら一体どれくらいの金額なんだと恐れ慄きそうなくらい高級そうなカップだった。


「いきなり呼び出して悪かったね」

「いえ、大丈夫です」

「トゥーイの様子を見ていて、一度ゆっくり話をしたいと思っていたんだ」

「トゥーイさんの?」


 不思議そうにすると、ニッポリアが柔らかく笑う。


「君が来てトゥーイは変わったからね。もちろん、いい意味でだ」

「そうなんですか?」 


 ぱちぱちと目を瞬くと、ニッポリアがふふっと笑んだ。


「らしくない行動ばかりだよ。仕事を淡々とするだけみたいな男だったのに、急に休みを取り始めたと思ったら根を詰めて家に帰らなかったり、感情が豊かになった。昼食をたまに持たせているだろう?微妙な顔で食べているくせに残さないから笑ってしまったよ。そんな配慮をする男じゃなかったのに」


 楽しそうに言う王子殿下に、思わず留衣は眉を下げた。

 最近、昼食も食べていないのではと思い三日に一度のペースでお弁当を持たせているのだが、やはり味はいまいちなのかと落ち込みそうになる。

 自分ではだいぶ上手くなったと思うのだが。


「トゥーイさんは優しいですよ。このあいだは意地悪されましたけど」

「へえ、どんな?」


 興味深々のニッポリアが少し身を乗り出してくる。

 馬車の中でも考えていた唇越しに花びらを齧られたことを思い出し、留衣の頬が赤く染まった。

 おや、とニッポリアが眉を上げる。


「キスでもされたかい?」

「キッ、違いますよ!私に触るなって言うくせに、口に乗ってた花びら齧ったんですよあの人」


 慌てて訂正したが、言ったあとでたいして変わらないということに気付いた。

 しかし乙女として、花びらがあいだにあったかどうかは重要なのだと思う。

 留衣の弁解に、とうとうニッポリアが声を上げて笑った。


「いい傾向だ、あいつが自分から距離を縮めるなんてフミ以来だよ」

「おばあちゃん、ですか?」


 思わぬ言葉だ。


「今日はフミの事も含めてトゥーイの事を話したくてね」


 紅茶を一口飲むと、ニッポリアが笑うのをやめた。

 留衣もそれにつられて、思わず背筋を伸ばす。


「フミがトゥーイの元にいたのは知っているね?」

「一応」

「あの頃、トゥーイにとってフミは恩人だったんだ」

「そういえばそんなこと言ってました」


 トゥーイが、フミには恩があるからと瑠衣を保護するようになったのだ。

 忘れていない。


「トゥーイは子供の頃や家族の話はしないだろう?」


 こくりと頷く。


「トゥーイは一人息子だったが虐待されていてね、酷かったよ。鞭で打たれたり火掻き棒を押し付けられたり」


 言われて留衣は思わず顔を顰めると同時に、トゥーイの傷だらけの体を思い出した。

 火傷などの跡がたくさんあった。

 もしかしたら背中の大量の裂傷のあとは鞭なのだろうか。


「トゥーイさんの体の傷ってそれが原因ですか?」

「あれ?もう裸を見たのかい。案外手が早いんだな、あいつ」

「違います!たまたま見ちゃっただけです!」


 眉を上げたニッポリアに、誤解されてはたまらないと否定しておく。


「おおかた、どんな反応するか試されたんだろう」


 クスクスと笑いながら、ニッポリアは指を組んだ。


「トゥーイの体は虐待の跡で埋め尽くされているよ。生まれた時から魔力が強すぎるうえに他人の魔力を奪ってしまうからと、魔力封じの首輪をつけられていたんだ。だが五歳の時にそれも抑えられなくなった。そこからは敷地内の小屋に閉じ込められていたんだ」

「ひどい……虐待は首輪つけてる時に?」

「ああ、化け物だなんだと両親揃ってな」


 吐き捨てるような物言いに、留衣も思わず眉をひそめた。

 落ち着くように、ティーカップを持ち上げ紅茶を口に含む。


「七歳頃から魔力をコントロールするために魔道具の研究を始めてね、魔力を自分で上手く使えるようになっていったんだ。頭とセンスがよかったのは幸いだったよ、それがなければずっと閉じ込められていつか魔力を暴走させていた可能性がある」

「だからあんなに熱心に魔道具を研究してるんですね」

「いや、あれはもう趣味の一環だな。好奇心が満たされるんだろう」

「確かに、子供みたいな顔してますね」


 思い出してくすりと笑ってしまう。

 ニッポリアもそう思ったのか、思わず二人は目を合わせて笑い合った。


「十二の時にトゥーイの前にフミが現れてね。小屋で一緒に過ごしたんだが、料理を作ってくれたり愛情を惜しみなく注いでくれていたよ。私も何度か食事をご馳走になった」

「だから、おばあちゃんに恩があるって言ってたんだ」


 合点がいったというふうに頷いたが、ニッポリアはふっと憂いを帯びた表情を浮かべた。


「恩もあるだろうが、贖罪の方が強いだろうな」

「贖罪、ですか?」

「トゥーイがなついたことで、フミを脅威に感じた両親が彼女を排除しようとしたんだ」


 思わぬ言葉に、ひゅっと留衣の喉が鳴った。


「その時フミを守ろうとしたトゥーイの魔力が暴走して、父親は死んだ。母親も大怪我を負ったけれど、大金を抱えて教会に駆け込んだから命は助かったよ。今や立派な信者だ」

「その人会いました!悪魔とか化物とか色々言っててイラッとしましたもん。虐待までしてたなんて、とんだクズじゃないですか。おばあちゃん守るのも、よくやったって感じですよ」


 フンと鼻を鳴らすと、ニッポリアは「勇ましいな」と笑ったあと、ふっと表情を険しくさせた。

 細められた瞳には憂いが見える。


「暴走で魔力を使い切ったトゥーイの手を、そんなに魔力があったわけでもないのに、フミは一晩中握って魔力を分け与えた」

「じゃあ、おばあちゃんは……」

「ああ、トゥーイの手を握ったまま亡くなったよ」

「そんな……」


 思わず留衣は手で口元を押さえた。

 知らなかった祖母の最期に涙が出そうになる。

 それと同時に。


「私、おばあちゃんと同じことした……あんなに怒ったの、そのせいだったんだ」


 トゥーイの手を握り続けたときのことを思い出す。

 知らなかったとはいえ、トラウマを抉ってしまっていたのだ。


「そうか、フミと同じことを……」


 そう言ったきり室内はシンと静まりかえった。

 留衣は目を伏せてトゥーイの泣きそうな顔を思い出す。

 あれは、死んだフミを思い出してしまった顔なのだろう。


「私に話してよかったんですか?」


 瞼を上げて尋ねると、ニッポリアは苦笑した。


「君の祖母の事だ、知る権利がある。あいつは話さないだろうからな。それと……君にこれからもあいつの傍にいてほしいんだ」

「傍に、ですか」

「トゥーイの家系は元々、王家腹心の家系なんだ。それで子供の頃に何度か交流があったんだが、私は友人だと思っていたトゥーイの心の支えになれなかった。当主を失った家の援助しか出来なくてな」


 寂しそうに笑うニッポリアの顔は、本当にトゥーイの事を大切に思っているのだろうことが伝わってきた。

 ニッポリアは留衣にトゥーイの傍にいてほしいと言った。

 留衣はまだ帰ることを諦めたわけではない。

 薄情な両親でもすぐに切り捨てられはしないし、学校は好きだった。

 簡単に諦めることが出来ない程度には、十六年間過ごした場所に愛着はある。

 だから、ニッポリアに軽々しくトゥーイの傍にいるとは言えなかった。

 それをわかっているのか。


「今の話は、あくまで私の願望だ。君が異世界の人間で、帰る場所があるのはわかっている。ただ、それでもここにいるあいだはトゥーイのことをよろしく頼む」


 そう言ってニッポリアが頭を下げた。

 その真摯な態度に、はいと安請け合いで即答することはしたくなかった。

 ただ、留衣は思う。

 我儘かもしれないが、もう少しトゥーイの傍にいたいと。


「いつまでここにいられるかわからないけど、トゥーイさんの傷ついた顔は絶対見たくないんです」

「それで充分だ」


 きっぱりと言い切った留衣に、ニッポリアは瞳をしならせた。


「でも、傍にっていうならベロニカさんがいますよね?」


 ことりと首を傾けると、さらりと黒い髪が揺れた。


「彼女にはトゥーイは打算でしか近づいていないよ。教会の尻尾がつかめないかとね」

「そうなんですか……」


 ベロニカはトゥーイを特別視していると思う。

 傲慢ではあるけれど、まったく好意がないようには見えない。

 もしトゥーイがベロニカを傍に置きたいと言っても、たびたび、はあ?と聞き返したくなる言動があるので手放しで祝福はしにくいが。


「彼女にも最初は期待していた。だが、彼女は自己中心的さを振りかざした人間でね」


 まあ自己中そうではある。

 思わず口ごもってしまった。


「トゥーイのことを【魔力食い】と言い出したのは彼女だ」


 ニッポリアの意外な言葉に、留衣は眉を上げた。


「その能力があっても自分は平気だ。周りには真似できないと吹聴して回ったんだ。それまでトゥーイの能力を知らなかった人間にまでね」

「それは……なんというか」


 言葉に詰まると。


「腹が立つだろう?」


 くすくすと言葉とは裏腹にニッポリアが笑って見せる。

それが怖いなあと思いながらも、同意見ではあったので留衣は小さく頷いていた。

だから町中の人間がトゥーイの力を知っていて怖がっていたのかと、合点がいった。


「特別な人間の特別になれば、自分も特別になる。彼女は特別な自分に酔っている節がある。君とは違ってね」


 なんだか買いかぶられている気がして、留衣は何も言えなかった。

 仕事があるというニッポリアに、お茶会を解散して留衣は王城の廊下を歩いていた。

 歩きながら考えるのはトゥーイのことだ。

 フミのことを聞かなかったからとはいえ、教えてくれなかった。

 そのことに少しの不満があるが、それ以上にトゥーイの心情を考えると胸が痛くなった。

 あの澄ました顔の下でどれだけ傷ついてきたのだろうと思う。

 ニッポリアに言ったとおりトゥーイの傷ついた顔は見たくないし、出来れば傍にいたいと思っている。

 そんなの彼は望んでいないかもしれないけれど。


「トゥーイさん、結構面倒見いいもんね。いつまでもいたら迷惑かもしれないし」


 ぽつりと零す。

 前方からの足音に顔を上げると、今まさに考えていた人物が歩いてきた。

 手に書類を持っているのでニッポリアのところに来たのかもしれない。

 留衣が王城にいたら不審に思うはずだと思い、慌てて隠れるところはないかと左右を見回して、花器の置かれた台の影にしゃがみ込んだが。


「何をしているんです」


 あっさり見つかった。


「トゥーイさん奇遇だね、私はちょっと散歩してたんだ。それじゃ!」


 早口にまくし立ててその場を離れようとしたら、チッと大きな舌打ちが響いた。

 思わずびくりと気をつけをして、おそるおそるその顔を見上げるとあからさまに不機嫌そうな顔をしている。


「ここから先は殿下の管轄ですよ。何故あなたがここにいるのですか」

「えぇっと……」


 まさかトゥーイの過去を暴露されていましたなどと言えるわけもなく、留衣は所在なさげに手を開いたり閉じたりした。

 目線も床に落ちている。


「……殿下に私について何か聞きましたね?フミのことですか」


 直球で当てられ、留衣は肩を震わせて縮こまらせた。

 その態度が肯定を示している。


「あのおせっかい、余計なことを」


 口の中で呟いた言葉に、おずおずと留衣は目線を上げた。


「フミのことだけ聞いた、というわけではなさそうですね。私の過去でも聞きましたか?」

「ごめんなさい……」


 勝手に自分の話をされたら、そりゃあ嫌だろうと思う。


「でも、心配してたよ」

「余計なお世話です」

「余計って」


 思わず眉をしかめると、トゥーイは冷めた眼差しで留衣を見下ろしてきた。

 そうしていると彫刻じみた顔が、ますます無機質に見える。


「余計ですよ、同情なんて鬱陶しいだけです」

「そんな言い方ないと思う」

「あなたには関係ありません。ああ、それとも可哀想な人間だとあなたも思いましたか」


 皮肉気に口元を歪めたトゥーイに、咄嗟に留衣は答えられなかった。

 かけらも可哀想だと思わなかったと言えば、嘘になるからだ。


「憐れまれるなんて冗談ではありません」

「憐れむなんて、私はただ」


 トゥーイの痛みをこらえたような顔を見たくないだけだ。

 けれどそれも同情なのだろうかと思ってしまい、口ごもった。


「フミの孫だからと優しくしていれば、つけあがらないでください」

 突き放すような声。


 けれど、留衣はそれに唇を一度きゅっと引き結んだ。


「今おばあちゃんは関係ないでしょ」


 自分とトゥーイの話をしているのだと言えば。


「私はあなたがフミの孫だから家に置いて面倒をみているということを、忘れていませんか。本当なら放り出しているところです。それなのにズカズカ踏み込んでくるなんて迷惑ですね」

「ッ」

「失礼」


 言うだけ言って、トゥーイは留衣から視線を外して通り過ぎて行った。

 あとにはポツリと留衣が残っただけだ。


「孫じゃなかったら、か」


 呟くと、じわじわと瞳に水の膜が広がった。


「なによ、私だってトゥーイさんなんか……」


 どうでもいいと言いかけて、とうとう涙が押し出されて頬を滑り落ちた。

 嘘だ。

 どうでもよくなんかない。

 ぐすっと鼻をすすって涙をごしごしと拭う。

 突き放されたことが、ひどく悲しかったし寂しかった。


「トゥーイさんなんか、きらい」


 ぽつりと呟いたが、せいせいするどころか余計に胸が痛くなった。


「きらい、きらい、きらい」


 言うたびに涙が溢れてくるのを止められないまま、何度も留衣は繰り返した。

 ひとしきり泣くと。


「かえろう」


 歩き出した。

 あそこまで言われて屋敷に帰るのは憂鬱だったけれど、この世界で留衣の居場所はそこしかない。

それにまた涙が出そうになりながらも、ぐっとこらえて留衣は王城を出た。


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