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朝は留衣が起きるよりも早く出かけているようだし、夜も帰るのは遅い。
ときおり留衣が起きている時間に帰ってきたりしても、顔を逸らして自室へと行ってしまう。
今までだったら夕食後、一緒に応接間で食後のお茶を飲んでいたりする日もあったのに。
「かたくなすぎる」
庭の手入れ用にバケツに水を入れながら、うーむと留衣は唸った。
昼食を持って行ってみようかとも思ったが、またベロニカと鉢合わせなどしたら目も当てられない。
「そういえば恋人か聞くの忘れたなあ」
もし人目を憚る仲だったら、追い返したことも謝らなければならない。
それに、もう一度ちゃんと触れたことを謝りたいと思ったが、また傷ついたような泣きそうな顔を見るかもしれないと思う。
「あれは嫌だな」
凛として表情を変えない白皙の美貌が、まるで迷子の子供のようだった。
あんな顔を、もうさせたくはない。
バケツに並々と水を入れて、植木に水をやっていく。
玄関の方まで向かうと、トゥーイが今まさに玄関の扉を開けようとしていて目が合った。
「トゥーイさん、うわぁ!」
夕方の早い時間にも関わらずトゥーイが帰ってきたことに驚いて、慌てて出迎えようと声をかけたら右足をおもいきり左足にぶつけて盛大にすっころんだ。
こんな完璧にまぬけな転び方があるだろうか。
これにはトゥーイも驚いた顔だ。
バケツをひっくり返してずぶ濡れになった留衣は、そこに座り込んだままうへえと呻いた。
その様子を見てトゥーイが呆れたというように溜息を吐く。
「まったく、何をしているのですか」
留衣の前まで歩いてくるが、当たり前だが手を貸してくれるわけでもないので留衣はぴょいと立ち上がった。
「トゥーイさん今日は早いんだね」
「……仕事がすべて片付いたので」
不本意そうな声音に、ああこれは顔を合わせないように根を詰めていたら、やることが無くなったんだなと推測する。
「風邪をひいてしまいますよ」
トゥーイは右の人差し指を一度回すと、風が吹いて濡れネズミになっていた留衣の髪やドレスを一瞬で乾かした。
「わあ!すっごい」
「誰でも使える初歩的な魔法です」
乾いたドレスの表面を撫でながら、凄い凄いと連発したあと留衣は期待に膨らんだ顔でトゥーイを見上げた。
「ねえ、私も魔力あるんだよね。魔法使えたりする?」
魔力があるというのならば、一度くらいは経験してみたいものだと留衣はわくわく顔だ。
「あなたは魔力が多いから出来るでしょうね」
「本当?やってみたい」
自分の両掌を一度見下ろして、うきうき声を上げると。
「そうですね、じゃあ初心者には火の魔法が使いやすいので簡単な炎を出す魔法なら」
トゥーイが右掌を上に向けると、ポッと小さな炎が現れた。
赤い炎の形は、いわゆる鬼火のようだ。
「おぉうファンタジー」
感動だ。
「どうやればいいの?」
「掌を上に向けて、体に流れる魔力を指先に流すイメージですね。そして熱いものが飛び出すように念じます」
「んん?」
言われたとおりに右掌を上に向けるが、そもそも魔力というものがどんなものかわかっていないのだから、指先に流すと言われてもよくわからない。
とりあえず熱いものが出るイメージを練ってみるが、まったく出る気配はなかった。
「魔力の流れってのがわかんない。みんなはどうやって感じてるの?」
「普通は最初に魔法の流れをコントロールする感覚を感じさせるものなので、イメージだけでは難しいかもしれませんね」
「そっか、じゃあトゥーイさんが教えてよ」
簡単に頼んだ留衣に、トゥーイはわずかに眉のあいだに皺を刻んだ。
留衣は面倒だったかなと思ったが、一度くらい魔法を使ってみたいと思う。
「……魔力の動きを感じさせるには触れなくてはなりません」
「そうなの?じゃあはい」
あっけらかんと右手をトゥーイに差し出すと、ますます彼の眉間の皺が深くなった。
綺麗な顔に皺がつくと何だか申し訳ない気持ちになる。
「私に触れたことに叱ったのを、もう忘れたんですか?」
「叱られたのは覚えてるよ。でも今トゥーイさん元気だから」
あっけらかんと答えると、盛大にため息を吐かれてしまった。
「能天気にもほどがあると言っているのです。どれだけ危ない状態だったのかわかっていない」
「でも魔法使いたいし、大丈夫だってば」
グズグズと言い募るトゥーイに焦れて、とうとう瑠衣はトゥーイの手袋に包まれた左手を強引に手に取った。
「はなし」
「ほら!大丈夫!」
石のおかげか手袋のおかげか、魔力が奪われる感覚はない。
得意気な顔でにんまりと笑えば、トゥーイが絶句していた。
「……あなた、怖くないんですか?私が前回みたいに魔力を限界まで奪ってしまうかもしれないんですよ」
留衣はことりと首を傾けた。
「何で怖いの?倒れたのは自業自得だし、トゥーイがさんはちゃんと対策してるじゃない」
怖いという感覚はまったく出てこないのだ。
けれど瑠衣の言葉に鳶色の瞳はこれ以上なく見開かれている。
「だって今、手袋もしてるし怪我してないし。そりゃこのあいだは気絶したみたいだけど、元をただせば怪我は私のせいだったから」
「あなたは危機感がないというか、能天気というか……」
なんだか失礼な言い草だ。
ぐっとトゥーイが唇を引き締めたあとで、苦笑を小さくこぼした。
「……馬鹿な子ですねえ」
その顔は嬉しそうにも泣きそうにも見えて、大人の男なのになんだか頭を撫でてあげたい衝動に駆られた。
実際そんなことをするわけにはいかないので、元気よくトゥーイへ笑いかける。
「さ、そういうわけだから魔力の使い方教えて」
「手を離しなさい、掴まなくても大丈夫です」
期待に満ちた眼差しに、トゥーイはやれやれと肩をすくめた。
留衣が言われた通りに手を離すと、その掌にトゥーイの掌が当てられる。
ほとんど触れるか触れないかという接触だ。
この程度でわかるものなのだろうかと疑問に思う。
「あなたの中の魔力を動かします」
すると、体の中の何かが流体のように左手の先に動いていく感触がわかった。
「うわあ、変な感じ」
「今の感覚を右手に意識してみてください。水が流れるイメージをすると、わかりやすいと思います」
言われて留衣は水が右手の先に流れていく用にイメージした。
体内を何かがゆっくり指先に動く感覚がする。
「そのまま右手の指先に集中して、炎が出るように念じてください」
「んん」
若干、眉間に皺を寄せながらもなんとかトゥーイの言うように炎、炎と口の中で呟いて出ろ!と力強く考えると、ボンッと大きな炎が右掌の上に一瞬出た。
はっきり言ってなかなかの威力だ。
「出た!トゥーイさん出たよ!」
初めての魔法に留衣ははしゃいだ声を上げた。
これぞまさしくファンタジー世界だ。
「まあ、基礎の基礎ですけれどね」
トゥーイが肩をすくめるが、留衣はまじまじと自分の掌を見つめた。
自分の手から炎が出たなんて、いまだに信じられない。
ただ。
「なんか凄く大きかったけど、あれが普通?」
「普通は魔力があっても、勉強してコツが掴めないと大きな魔法は使えません。それだけあなたの魔力が膨大だということです」
「そうなんだ」
何だか自分は珍しいらしい。
言われてもいまいちピンとはこないけれど。
「だから怪我をした私に触れても倒れるだけで済んだのですよ」
「そっか」
ヤバイ、またお説教かなとおそるおそる顔を見上げると。
「本当によかった」
瑠衣から手を離したトゥーイが小さく小さく呟いた。
それは訊き逃しそうなほどの声で、瑠衣は何か言おうとしたけれど言葉が出てこなくて、結局何も言わなかった。




