ラスタの記憶2(後編)
動揺中……
ラスタは動揺しつつも、回りから見たなら清楚に見える歩幅でゆっくりと歩いて行く。
そうしながらも3000年も前、イルに言われてあの男と忍び込み、カジノの見習いとなったあの日の事もまた頭に過ぎった。
埃っぽくて薄暗いクローゼットの中、ドキドキした心音を思い出してしまう。見つかってしまうかもと言うハラハラ感……それも自分と彼の汗の匂いまでが感じられるほど密着してしまった……ロマンスの欠片もないアレは、決して……決して……断じてクラーウィスの求めるドキハラではない。
けれど悶えたくなるほどその記憶が巡り、更に思い出したあの男の『不躾な発言』がラスタを足早にした。
「あれは……」
いつものようにイルに連れて行かれたどこかの星の大地で。
相変わらず敵に突っ込んでいって、捕まえられていた捕虜を解放したはいいが、殿を務めた『あの男』が捕まった時の事だった。
「よく殺されてなかったですね。予定調和、だったのですか?」
ラスタの質問に赤薔薇色の髪を揺らし、首を傾げてイルが笑って答える。
「いいやぁ? 違うけど」
けれど彼は裏切らない働きをしてくれるからね、と。信頼の瞳をあの男に向ける。
イルと男の深い関係は知らない。主に聞くのは躊躇われるからと、あの男に尋ねれば『情報の対価に実務で支払っている』と答える。こんな命を賭けるほど、イルに何をもらっているかわからない。
そんな事を言えば『情報の値打ちががわからんうちは、まだまだヒヨコだ』と返されて、いらりとしてしまうのは仕方がないと思う。その時の彼は三十歳前、だいたいラスタの十分の一、そう十倍も『お姉様』なのに。
「そこの部屋に入って。続き部屋の鍵をあけて」
イルの見た目は十歳前後の少年だが、低く唸っている成人の黒髪男を軽く肩に背負っている。魔法による身体強化、素晴らしいバランス、美しい魔法だ。
「後は彼が助けた兵を合わせて皆でやってくれるらしいから、僕らの仕事は終わりだよ。この部屋と今入って来た隣部屋は借り切ってるから」
「了解しました。で、この男はいかがしますか?」
「うーん。本当は食べる予定だったけど、時間が無くなっちゃって。僕が戻るまで暫くティの世話、よろしくね♪ 彼の体調を見て帰還するから。あ、ティ、今は凶暴だから気を付けて?」
数百に捕虜を救うのは大変だけど、一人奪取するなら簡単だからと、さらりと彼を連れ出して来たイル。この作戦の功労者だと言うのにその男をポイと牢屋に放り込む。一応高官用のなので部屋の体裁を保っているが、嵌め殺しの窓には丈夫な柵があり、扉も外から物の受け渡しが出来るそれ用だ。
「凶暴ですって? 何があったのですか? イル様」
「何か飲まされたっぽいんだよね。水だけはあげて。トゥルバ、あんまり近寄ると食べられちゃうよ? あ、何なら食べられてみたら?」
いい経験になるよ? などと言ってぱちんと指を鳴らし、イルは空間転移で部屋から消えてしまう。
「い、い、イル様ぁ……」
本当に名残惜しそうに出て行った主を見送り、そして残されたのはボロボロのあの男だ。
私が一緒に居たいのは貴方で、この男ではないのに……と、言いたかった。でも従者の仕事は主の命令をこなす事で、寵愛を受ける側女ではない事もわかっている。
あの男は苦しいのか低く唸って、何かの衝動に耐えているかのようだ。
「お、おかえりなさい」
「み、ず……」
転がされたベッドの上、金属のマグカップに入れた水を持って行ったが、とても飲めるようには見えなかった。でもその体を支え起こすほど近づくのは怖くて、ラスタが戸惑っている間に、彼が初動もなく動いた。その手がマグカップを叩き落とし、木の床に零れた水を這いつくばって舐め、カップに僅かに残っているのに気付くとやっとそれを掴んで喉に流し込んだ。
獣のようなその動きに、驚いたラスタは身動きが取れなかった。
素早く部屋を出て、鍵をかけるべきだったのに……次の瞬間にはラスタの細い体は男に組み伏されていた。
「いやっ……嫌です! 離しなさいっ……っ……」
その黒曜の瞳がドロリとしていたが、その手つきは甘くて柔らかだった。口に落とされたキスも、背筋をゾクリとさせるほど……媚薬か、幻覚剤か……そんな薬のせいか昂っていても、彼の目にはラスタが愛しい誰かに見えているのか、逃げられないようにはしても手酷く扱ったりしなかった。
「……ん」
逃げなければ……わかっているけれど。
曇った瞳の向こう、誰かを眺めているその目つきが、拒否を絡め取る程に優しかった。まともに水を飲めぬほどの苦痛にあっても、慮れる彼の甘やかな仕草に、どうにかしてあげたいと思う程には情が湧いているのに気付いて……
イル様には抱いてもらえないだろう、血縁の為の政略結婚で純潔を散らすぐらいなら、別にこの男とでも……
その時、耳元で男の低い声が響いた。
「……ヤりたいのか?」
「そんなわけっ!」
恥ずかしさに反射で言い返し、いつの間にか閉じていた瞳を開ければ、少し歪んだ視界にいつもの、すこぶる落ち着いた調子の彼がそう言って嗤っていた。いつもと言っても多量の発汗があり、肩で息をし、出来るだけゆっくり深く吸って吐くのを見れば、何とか自制しようとしているのは一目でわかる。
「あぁ……これじゃ偽処女だな。まぁまだ……欲しいとか、わからないか……」
「んんんっあぁ貴方と言う人はっっ! なんなななんぁてコトぉおおおおおっ!」
彼が緩ませた拘束を抜けてその頬を叩いてやれば、身体をずらしてラスタが逃げる隙間を作ってくれた。男が乱した服を招いて掻き寄せながら、部屋の外に出て行って鍵をかける。こちらは監視部屋で借り切っているので他に誰もいない。ラスタは扉を背にズルズルと座り込む。
部屋を出る最後の一瞬、彼が『すまない』と言ったのが聞こえたのは幻聴だろうか。一人になって自分の頬が濡れ、泣いていたのに気付く。その涙に気付いて正気を取り戻してくれたのか? それを聞く事はなかった。
その後、彼はその部屋で静かに荒れていた。掻きむしったのか壁に血の爪跡が付いていくのが監視用の小窓から見えたし、差し入れる食事には手を付けた気配はない。
何度か立ち入ろうとしたが、その雰囲気か物音かで気付くと『入るな』と静止がかかる。どれだけ耳がイイのだろうと思ったものだ…………
数日後、イルが戻って彼を鎮めてくれて落ち着いた時には、本当にホッとした。静かに、静かに、何かを求めて苦しむのが肌で伝わってきて、あのまま壊れてしまうのではないかと思うくらい心配した……けど、まぁ、次会わされた時はお互いかわらず、そしてあの男の無鉄砲に付き合わされた。
「ここ、は……」
ラスタは毎日午前、執務室で書類仕事をしている事が多い。午後からは午前に終わらなかった仕事や弓の鍛錬や乗馬、合間に家族と過ごしたり、自分の手掛ける事業の采配をしたりする。夕食の後は簡単な仕事をするか、その日に思いついた事をやってから就寝する。
週に二回か三回か、孤児院や学校、農工業施設などを訪問したり、週末はその時々のイベント事などを公務としてこなす。
詰めて書けば仕事ばかりだが、比較的ゆとりのあるペースでそれらを行っている。
彼女はハイエルフ、民はエルフ。時間は長い、気張りすぎて早々に潰れるわけにはいかない事は最初の1000年程で学んだ。無理せず、でも必要な事はスピーディに。
だからラスタはいつもの日課である午前の事務を終わらせようと、執務室に向かっているはずだった。
魔法がかけられている世界樹の居住は、不思議な事に自分が望めば望んだ部屋に連れて行ってくれる。階段もあるのだが、使わずとも許可がある場所に辿り付ける。生まれた時からソレになれている彼女だが、今日はどうした事か普通は来ない場所に出た。
「久しぶりだわ」
そこはラスタがイルの従者をしていた頃に使っていた部屋だった。中にはこの世界では手に入らない異世界の服やモノが詰まっている。
「あの最低男の事なんて考えていたからでしょうか」
ラスタは近距離の転移は出来るが、その距離は数キロ程度だ。後は血によってハイエルフの住む『世界樹の居所』の自分のフロアには、この大陸内ならどこからでも戻る事が出来る。
だがあの男が住んでいた世界は地球と言う星で、ラスタには、他の異世界への転移権限はない。イルに呼ばれ、開いてくれた道を使っていたに過ぎない。稀にラスタに付けてくれた『自動帰還』はとてもとても高度な魔法だった。
ラスタが生まれ落ちた世界でも、転移といった長距離移動を可能に出来る魔法使いは少なく、更に異世界にまで転移できる魔法使いはほぼいない。
たまに時空の狭間に落ちて紛れて意図せず移動した者や転生しても記憶を忘れなかった、そして頭がおかしくならなかった者が居て、それらがいろんな知識をこの世に落としていく事はある。
このラスタが従者の時に使っていた部屋には、イルから連れて行かれたいくつかの世界で使用した衣服や、資料として渡された本などが詰まっており、宝の山であると同時に禁忌でもある。従者を辞した上、1000年ほど前からエルフの森にイルは来なくなり、ラスタが異世界を訪れる方法はなくなり、ココは閉ざした。
ラスタがコレを公開する事はない、ただ懐かしさ故にその部屋に入る。
その部屋はカーテンが引かれ少し薄暗かったが、1000年近く余り近づかなかったとは言え、自分の部屋である為に何も困る事はなかった。誰も掃除をしなくても、この世界樹の居所にある部屋はいつも綺麗だ。
この星の裏側の大陸の貝殻、地球の民族衣装、他の星の書物や使い方がわからなかった機械なども置いてある。いつだったか着た偽装用の軍服に、弾の入っていない拳銃とホルスターにそっと触れる。
「神の呪い……魂の瑕疵……」
ラスタはキッチリと机に対して直角に乗せていた本を退け、そして3000年前にイルから聞いた言葉をメモしていた紙に触れる。
この大地にも神の概念はある。四季が移りゆく様や、羽化する蝶、雪の結晶の美しさなどに神を見る事はある。
基本的にハイエルフにとって『神』は身近な存在ではなく、けれど大いなる存在である。
ただ不死ではないが、不老、長命故に病気や事故などは恐れても、人間をはじめとする寿命の短い種族より、老いや死に対する恐怖が薄く、神に頼る必要性があまりないせいか、とても神聖ではあるが遠い存在でもある。
聖国は一神教だが人族の神だし、獣人族が『先祖が神である』という崇め方をするが、ハイエルフのラスタにとって神とはよくわからない。
それでも偉大で手の届かない何かを司るのだとは思う。そう言う存在に、あの男の魂は瑕疵を付けられたという、それも生まれたと言うだけで。
「にほん、ね……」
イルが教えてくれたあの男が生まれた国。移住して攫われ育ったという国をデスクマットの下に敷いた地図で辿りつつ、もう3000年、これらの国も星もこの世にないかもしれないと思う。ラスタにそれを知る術はない。
だがかつて間違いなく存在した日本国は、神が多い国だったようだ。
仏教、神道、キリスト教、それ以外にも派生した新興宗教も盛んだった。でも宗派はあってもコレと固執せず、いろんな宗教行事を楽しむような愉快な人種だと、イルは教えてくれた。ラスタにはよく意味が分からないが、この大地の『聖国』より大らかな思考だという事はわかった。
イルはあの男の魂について、その頃から気になっていたのかもしれない。その国、およびその星で信じられている各神について調べさせられた事があったから。
ラスタが考えていたより多彩な神達は、彼女が思うより『人間的』な神が多くて驚いた。
浮気者の主神に、嫉妬に狂う妻神や妾神。
太陽を奪い合った神達。
冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。
時の権力者に降誕の際に狙われた神、その逆に王座を奪おうとする神。
親に嫌われる子供の神の話。
……かの星の神は常に正しい事だけをする存在では無いのだとラスタは思った。
「火之迦具土神……」
あの男の死後、イルの言った『魂の瑕疵』や転生などについて調べた事があった。
その時、この部屋にイルの求めで提出した神について調べた資料が戻ってきていた事に気付いた。その資料内で唯一、紙の端が折れていたページにあった神の名を口にする。
それは生まれて来る時に母神を焼き、そして死に至らしめた神。父神の怒りに触れて、首を落とされ殺されたという……
「神と真逆の位置にいるような男だったけども……」
彼の握っていた得物、赤い刀は炎を纏う。あれが火の神の持ち物と言うなら、あれほどふさわしいモノはないのではないか……
「今頃、どこを巡っているのでしょうか」
どこかで、わたくしの知らない場所で……きっとまた無謀な事をしたり、信じられない事をしているのではないでしょうか……そう思いながらカーテンの隙間から覗く、秋を前にしたまだ鋭い夏の日差しにラスタは新芽色の瞳を細めた。
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