8番目の記憶
洗濯機の中に自分が落ちたら、こうなる……そんな事を想像した。
高い水圧と回転、物が当たって折れて吹き飛ぶイヤな感触。頭が何度も横殴りにされ、呼吸も出来なくて、肺に塩水が流れ込んで死んだと思ったのに。
「お久しぶりです……兄上……」
黒いスーツに眼鏡、細いその瞳は金色、俺と同じ質をした黒い髪の青年がそこに居た。どことも知れない広い畳の床。神居わす所……
「かぐつち。か」
「やっと、精神、繋げられましたね」
「わざわざ、もういいぞ」
彼はかぐつち、火の神、戦神。
俺が最初、この『世』に生まれるその胎に一緒にいた魂。
始まりの生まれ。
最初の無垢な魂。
あの時も俺は双子で、彼は本来、俺の弟として生まれる存在。俺はその兄『氷水の神』として生を受ける予定だった。
その力をもって母の産道を凍らせ、火の神をこの世に安全に導くべき、彼の兄神になるはずだった。
だが彼が先に生まれた。母の願いを叶える為に。母は神産みを強制された巫女、彼女に許されない死は、火神かぐつちが体内から焼く事でじわじわと体を蝕み、その願いは果たされた。彼は生まれた瞬間に親殺しの責を負った。
だが、母を傷つけた事に父神は腹を立て、神の怒りを一身に受けてかぐつちの替わりに殺されたのは俺だった。先に生まれ母を守らなかったのは俺だから、あながち間違いでもない。だからいい。
父神の怒りに触れた為、当時の体だけで被害は済まず、その根底である魂まで『瑕疵』を負った。その刻印は俺を底辺に結びつける要因だと、かぐつちは色々教えてくれたが、まぁ過去の事。
どうでもいいけど、こうやって気にかけてくれる事に感謝はある。コレは夢に近いが、どうも精神的に接触されているようだ。いろんな所に生まれてもこうやって彼と話せる機会は多くない。俺を見つけるのはとても大変なようだ。
「赤刀、それだけではなくこの戦う力。助かっている」
過去の記憶を思い出し、赤い刀を手にしたところで、人間の身で五歳でも戦えるのはやはり彼の施しだろう。その事実が大切で、過程はもうどうでもいいのだが、かぐつちとしては気になるようだ。
「いいえ、貴方が本来、手にすべき幸運はもっと……」
「十分だ。それなりに楽しくやる。ただ、これは?」
「ぁぁ……かわいいですね」
頭を振ってフルフルと自身の髪の中に揺れる耳を示す。彼は笑ったが、欲しいのは感想ではない。
「くらお様の力の片鱗です。今回偶然それが身体に出たにすぎません」
「いらなくないか?」
「とてもかわいいかと。加護が体に出たでも言っておくとイイでしょう」
今までもそんな事を言われていたから、間違っていないらしい。ただかわいいとか要らないのだが。
「それより……」
「ご心配なさらず。出来るだけ半身の彼も見ておきますよ」
神基準の見守りだから、人間と感覚が違い、とりあえず呼吸していれば……みたいな大雑把。微妙ではあるが無いよりいいだろうと頷いた瞬間、意識が浮上して、どこか遠くで波の優しい音が耳に響いた。
ほんわりと緑色の風の中に、鼻先に感じる淡いラスタの匂い。きらきらと虹色に輝く空気が懐かしいような……そこまでボンヤリとしていたが、自分が意識を無くした時の状況を思い出して、がばっと起きた。
「っ……」
身体が痛いとかいうモノではなかった。呼吸の仕方がわからなくなる程度に体が壊れている。数分、たっぷりもがいて、なんとか慣れて動く事に成功して周りを見ると、俺が横たわるベッドとドアと窓以外、モノと言う物がなかった。
日本で生きて居た、若い時分の部屋のようだった。キッチンや電化製品、ゴミ袋に、服や遮光カーテンくらいはかけてあったから、まだこれよりは生活感があったが、概ねこういうシンプルな寝るだけの部屋で過ごした。
「ああ、気配がしたと思ったんだよ」
そこに入ってくる不思議な色合いの美しい女性。腰ほどのさらさらとした白髪に、何色ともつかぬ瞳は虹色と表現すればよいのか。ブラウスは程よくズボンにインされ、品の良い小さなアクセサリーは小柄な彼女の上品さを引きたてている。
「ぉb……」
気兼ねなく言葉を口にしようとしてキッっと睨まれる。
「ぉ……ねぇさんは誰?」
見た目、二十歳ぐらいに見える女性に、確かに失礼な呼称かと切り替える。彼女の不機嫌になりそうな事態は回避出来た。少し緩んだ視線でまじまじと見られ、どうしていいのかわからない俺は首を傾ける。
「……ソレのせいで可愛げが強いが、まぁ、合格だろう」
何だかわからないが合格? らしい。彼女が付いて来いと言うので、ベッドからぴょんと降りる。それだけで体がひどく痛い。だが体が小さくて、片手もなくて、負荷をかけずにはたったそれだけの事が難しい。しかし泣いても仕方ないので、どうにか体を動かし指示に従う。
彼女が部屋を出る為に扉を開けると、バサリと白い影が入り込んで来て、俺の顔面めがけて飛んでくる。
「ドリーシャ、無事だったか」
くるぽくるぽと、何か説教のごとく繰り返すのを引っぺがし、立ち止まって待ってくれていたおねえさんを追う。
「お湯の使い方は?」
どう考えてもおかしいのは、そこは俺が日本で住んでいたワンルームのバスルームそのモノだった事。記憶に従い蛇口をひねってみたが、お湯は出ない。
「ちゃんと魔力を込めるんだ」
首を傾げると、ココからなのかと呆れるように言いながらも試演してくれる。いつもドリーシャとやり取りする『何か』が、彼女の手から伝わって蛇口がお湯を出し始める。真似れば俺にも出す事が出来た。
「ココには『電力』はない。魔道具だから『魔力』で動く。ソレがないなら原始的に釜や竈で火を炊く」
俺が質問しようと意気込むと、まずは風呂で綺麗にして来いと言われ、それに従う。コートはすでに脱がされて寝ており、袖なし着物も布に穴をあけたような簡易服になっていた。それを迷わず脱ぐ。下着はなかったが、見られて困るモノは付いてないので、まあいい。
温かいシャワーに、カーテン付きの小さい湯船。シャンプーや石けんはボトル入り、清潔な白いタオル……日本で見知っているからこその違和感。
片手なので、一度シャワーを止めて、洗ってを繰り返すのは面倒だったが。色々と追い付かなくてぼーっとしながらも、できるだけ綺麗に洗っていく。
表面上の傷も打撲痕もないが、触るといろいろと痛い。そこそこ長くなった髪が縮れに縺れて鳥の巣のようだが、片手でぶち切ろうとするとハゲかねない。赤刀で切ろうかと思ったが、風呂場で刃物を振り回すのもどうかと思い。泡さえついていなければまぁいいだろうと濯いだ。
「片手では難しい、暴れるな」
蛇口に留まっていたドリーシャも掴んで洗っておく。最初はばたばたしていたが、最後には洗面器に浸かって器用に伸びている。鳩だが……鳩にないコミカルな態勢になっているぞ。何か溶けてないか……?
気を取り直して、タオルで先に拭いてやって、自分も何とか水気を切る。森の中ではべちょべちょでもよかったが、家の中を濡らすわけにもいかない。顔や体を拭くのも、そこそこ綺麗にやるのは片手でははじめてで、出来ない事が多すぎた。
「これを着な……本当に手間がかかるね」
風呂を終えたら来るように言われた扉を素っ裸で開ければ、リビングダイニングがあった。洗ってくれていた俺の服を纏いつつ、回りをチラ見する。
キッチンにはずらりと並んだ調味料。皿の棚に料理道具。コンロのようなモノもある。座り心地の良さそうなソファーに質の良さそうなテーブルに椅子。
火は暖炉があり、そこにかかった鍋からいい匂いがする。
カウンターキッチンの下に曲線の美しいカウチとテーブルがあり、その近くだけ本が置いてあったり、書きかけの何かに皿が置いてあったりと乱雑だ。枕と毛布があるトコを見ると、普段の生活はそこでしているのだろう。私室は別にありそうだ。俺の出入りした扉以外がいくつかある。
窓の外は家庭菜園と言うには整備された小さな畑と温室、その向こう側には木々と海が見える。
「お前は獣人かい?」
髪を乾かすのに、部屋の隅にあった簡易ドレッサーに座らされ、鏡を見る。そこに映る自分の姿は概ね、どの人生でも同じ黒髪黒目。
ただ今回はその頭に犬のような耳があった。髪で隠すとほぼわからないが、近くで見たり、触ったりすればすぐにわかってしまう。
「違う、人間だ」
即答できるのはただの人間か何の獣人かで売値が変わるので、調べたらただ人間だったと聞いていたから。かぐつちに言われた通り、加護だろうと言うと、
「加護、かね? まぁいい。飯をお食べ」
彼女が手を翳し、ぶあっっと熱がかかったと思えば、髪は乾き、櫛で整え結わえてくれて見れる姿になった。ぶち切ろうと思っていた鳥の巣はどこに行ったのか。
切った右手に包帯を巻いた後に示されたのは、テーブルに用意された野菜のスープと粥。
「人間の食事……」
確かに焼肉に果物も、奴隷飯よりは遥かに美味しかった。けれど文明の味も俺は知っている。飛びつきたいが彼女の目を気にして、食事前の挨拶の後、右腕で椀を何とか押さえ、大人しくスプーンで丁寧に掬って食べる。とても優しいうま味がある食事だ。ドリーシャも小鉢に入った何かを突き回して食べている。
「で、ティ。どこまで憶えているんだい?」
吹きそうになった。
俺はこの世界で名前を持った事がない。管理されていたから番号くらいはあったかもしれないが、おい、とか、これとか……名前はなかった。
ティは日本で生まれて、海外で攫われた時に番号二十、Tと言う記号の意味で付けられた。あんまりな名前だったが、普通の世界に戻っても一定数そう呼ぶ者は居た。
だが記憶の中にこの女の姿はない。だいたい地球にアースアイという瞳はあっても、彼女のような偏光色……空に浮かぶ虹色そのものの色の瞳など現実にはない。
「概ね……でもおねえさんは知らない」
「私もチラッと見た程度だよ……3000年は前の事だし……」
ほぼ他人。ただ、本当にアレから3000年が経っていたのだという事実はわかった。彼女も長命種なのだろうか?
「私はエンツィア。エンツィア・デペロ・ドゥルセ。チェーイールー……赤薔薇のイルを知っているだろ?」
あーーーーーーー
あいつか。
「名目上、私はあいつの師匠だ」
ただ……イルはいつの間にか勝手に強くなってしまい、ほとんど教えた事もない……ちょっとした悪友同士? そう言って彼女は笑う。
「あの子から、珍しく頼まれたからその魂を憶えていた。これも縁だ、面倒を見てやらんでもない」
「めんどう……」
「ああ、これでもスペルマスターだし、戦闘も出来る」
「すぺる?」
魔法使い。
この世界では普通、呪文を唱え、自らの魔力によって魔法陣を構成し、色々な現象を起こす事を言う。
だがスペルマスターは基礎を習得せずとも知識として知っていれば初級から最上級魔法まで使用可能で、呪文・杖・魔法陣がなくとも魔法を発動出来るようだ。
空気中から無意識に魔力を吸収転換しているため、魔力切れがなく、魔法が使えなくなるという事がない……
つまりこの世界の魔法使いの最上位か、それに近いのだろう。
「ティには魔法の素養がある」
先ほどの風呂が使えたという事は、そう言う事らしい。森の中で所長が俺を原石と言っていた気がする。俺がドリーシャとやり取りしたり、炎を灯す『何か』と言ったりしているのは、推測するに『魔力』なのだろう。
「ただ、ティは呪文を唱えていなかったし、魔法陣を作っているわけでもないが……その場で魔力を自家発電し使用していて、魔力を吸収転換する私の使い方とも、ゆっくり溜めるこの星の発動法とも違う。規格外、ではなく、どうも規格が違うね」
その魂のせいかね? 問われた所でわからない。首を傾げると彼女は笑った。
「それで、その腕は?」
「切った」
「はい? ぁぁ……聖国の奴隷だったのか?」
脱走奴隷、関わりたくない、そう思われても仕方ない。イルの名前が出たせいで緩んでしまった。
「ああ、懐かない犬みたいな顔を……イル好みだって事はわかった。ちょっと診せな」
何がわかったかわからないが、彼女はスープを飲み干して、俺の腕やら何かを見たり触ったりして回る。
「流石に腕を生やしてやる事は出来ない。繋げる事なら出来ていたかもしれないが、黒墨が入っていると、魔法の使用は難しい。聖国の神印も入れられると人間には魔道具を動かす程度にしか魔法が使えなくなる。お貴族様は違うようだったが」
「神印には種類がある、最低でも二種……」
なるほどと彼女は頷いた。
「よく印を入れられず逃げて来られたね。黒墨も神印も消すのはとても難しいんだよ」
出来ない事はないが犯罪者対策や身分証でもあるので、弄るのは偽装罪だし、出来ない対策のトラップで体や脳に支障が出てもおかしくないらしい。
クラーケン少年の強制連行で、俺は聖国の隣にある共和国の孤島の浜に打ち上げられていたそうだ。西の山を越えた隣ではなく、南側の国境に位置する国だ。その国の中心街がある場所からやや離れた所にある、小さいこの孤島は彼女の持ち物。
彼女はココを気に入って良く居るが、絶対にいるわけでもない。だから運がよかったと告げられた。発見時の俺はだいぶ酷いケガだったようだ。それもドリーシャが騒いでくれなければ、『ワカメの塊と思って見過ごした』と言われる。
「この国は共和国。このリストバンドは簡易だが、私が保証人となる」
左腕に黒い丈夫なバンドを付けてもらう。
「すまない」
謝った後、『人に何かをしてもらったら、ありがとうございます、だ。謝罪より感謝の方がいい』っと、いつだったか昔に言われた言葉を思い出し、
「いや……ありがとうございます」
そう言い直すと彼女はまた笑った。
「これからどうする?」
彼女は私の後見で養護院に入るか、商家に口を聞いてやるから小間使いとして働き、ゆっくり普通に成長し、大きくなったら独り立ちする方法もあると提案してくれる。又はアテがあるならその場所に送るなど……俺の希望を聞こうと彼女は言う。
「……俺は魔法使いになりたい」
魔法がない筈の日本でも巡り合わせか、イルのような存在や従兄弟にもおかしな奴が居て、意外にも『不思議』に触れる機会はあった。だが完全リアリストだったし、比喩でも自分が『魔法使い』になる事はなかった。
他の世界にも生まれ変わったが、そういう道にたどり着くより、日々の糧を得るのに必死で生きてよく死んだ。
長生きする機会は何度か得たが、魔法使いになれる地位に生まれた事も、ラスタに言ったように三十歳になるまで『無事』でいた事もなかった。大抵悲惨な目に合う。
今回もまた底辺だったが、運は向いている。
イルは俺の中では怪しい情報屋だったが、確かに魔法使いだった。で、なくば、日本にハイエルフを連れ回す、又はハイエルフの住むような世界やその他いろんな場所に俺を連れて行き働かせるなんて事はできない。
そんな彼の名目上であれ『師匠』。その腕は高い筈だ。
「弟子志願、受けてもイイ。だがあの子から、『二年でモノにならなければ、好きにしていい』って言われてるから」
俺がいつかココに来るとわかって、この日の為にイルが『頼んで』くれていた事に感謝する。
「二年かまってやる。その間に命を無くしても、文句言うんじゃないよ」
「……半年だ」
「は?」
「二年も無駄にする気はない。ーー半年、だ」
ただ二年なんて、冗談じゃない。
俺は一刻も早くラスタの所に行きたい。
3000年会えなかった、だから二年くらいどうってことない? だがもし遅れた一年、いや、数か月、数日の差で、その機会を逃してしまう事だってある。
誰かに既に攫われている可能性も高いが、ほんの一歩で間に合わないなんて死んでも死に切れない。あいつの手を何の衒いもなく握りたい……俺でない誰かに笑いかけ、手を取るラスタを考えると思考が凍りそうになる。
そこまで考えて……少しおかしいか? 俺……と思った。何か慌ててこう必死になる要素があるのか? いや、まぁ……まぁ間違ってはいないハズだ。ラスタに会いたい、コレは当初から変わっていない。
今なら、彼女は居る。虹色の風が今も忘れる事無く彼女の匂いを運んでくるから。
でもここを強行して旅をしても、俺が伝説の『ハイエルフ』に会うのは無理だ。
五歳にもならない、片腕のない、自分で身を立てる事も出来ない、ただの子供のままではダメだ。
「よほど血反吐を吐きたいらしいね。いいだろう。今からその身体に、嫌という程叩き込んでやるから覚悟しな」
にやり、彼女は笑って『これからは師匠、と呼ぶように』と言い、俺は頷き、頭を下げた。
ココから半年、師匠に扱かれた。
だいたい俺は片手で物事をこなす事から、文字を覚えて読み書きする、ここの一般常識や地理や歴史……そういう基本以下の底辺をこなしながら、スタートしなければならなかった。
俺は最初に寝ていた部屋と風呂場を私室として借りたが、半年ベッドに寝た記憶はない……
思い出すだけで吐き気がする、たぶん何度か死んだ生活だった。完全に死ななければ、師匠が俺を叩き起こしてくれて、また死地に向かった。
お陰で……半年の最後の一月間、師匠にあの魔窟と思われていた『西の山』に放り込まれたが、生息する生物と互角に戦える魔法と戦闘能力、そして知識を手に入れた事だけは確かだった。




