9.訪問をもう一度
残念なことに当日中の再度の訪問は、リシャールに気付かれて却下され、最短で翌々日の訪問となった。
再度カロリナがノワゼット侯爵家に着くと、前回と同様、アルマンが満面の笑みで待機していた。また彼の案内に従うと、前回と同じ道順でカロリナは不安に思う。その心配は的中し、アルマンが先導した部屋は、前と全く一緒の執務室だった。
「あの、アルマン様? こちら、執務室ですよね。客人は応接の間では?」
笑みを更に深くしたアルマンは、優しく頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。今回は旦那様から執務室に通すようにとのお達しですので」
不安だ。しかし、アルマンがうやうやしく、扉を開けてくれる。
開かれた執務室の真ん中の机には、扉が開いたのも気付いてないかのようにペンを走らせるフェルナンが座っている。似合わない眼鏡は相変わらずだが、今日は髪をきちんと整えてあった。
側には高く積まれた書類の塔がある。一本、二本と数えていくと、広めの執務室のあちこちに書類があるのに気付く。前回は感情が高ぶって見えていなかったが、執務室はまさに仕事場といった様子で、雑然としていた。
書類の山を上から崩していくフェルナンを眺めながらいくら待っても何も言わないので、耐えかねてカロリナは執務室に足を踏み入れた。
「ごきげんよう、ノワゼット侯爵」
ようやく淀みない動きを止めて、フェルナンがカロリナに顔を向ける。改めて顔を見たカロリナは、あら、と思う。眼鏡に少し隠れているが、フェルナンの目の下の隈が濃く際立っている。
「ああ、君か」
「ええ、カロリナですけれど。侯爵様、目の下の隈がひどいですわ」
「……寝不足でね」
ふう、と疲れを息に乗せて吐き出すと、フェルナンは眼鏡を外し、目を閉じて眉間を揉み始めた。その為寝不足と聞いて、女遊びと結び付けて一歩引いたカロリナを、彼は気付くことがなかった。
「そこに、簡易ではあるが机と椅子を用意したから座ってくれ。アルマン、茶を二つ。私の分は砂糖を多めに。カロリナ嬢はミルクと砂糖は?」
「お、お気遣いなく」
アルマンは良い返事をして、素早く退室した。何故かカロリナと共に来たララも、手伝いますと張り切って下がる。
カロリナはどう切り出そうかとうろうろと視線を泳がせる。そしてずっと気になっていたものに、目が止まった。
「あの、侯爵様」
「……ん?」
眉間をほぐす手を下して、半眼でぼんやりと見つめてきたフェルナンは、夜会の様子に近かった。
「そちらの、大きな眼鏡はなんでしょうか?」
ああ、とフェルナンは分厚い眼鏡をかける。相変わらず端正なはずの顔つきが、その一つの要素で壊れかける。
「これがないと、書類が見えない」
「でも、普段はかけていらっしゃいませんよね」
「当たり前だ。こんな不恰好なものをして人前に出られない」
強い口調だった。カロリナはぽかんとする。
「え、ですが、私の前では普通にかけていらっしゃるではありませんか」
「不可抗力とはいえ、君には先日この姿を見られたからね。正直、今は執務が溜まっていて客人対応どころじゃない。無礼だが、君には執務をこなしつつ対応させてもらう」
「構いませんが……」
謝辞を述べるフェルナンは、早速また紙と格闘し始める。はっきりいって客人相手に大変失礼な対応だが、カロリナは毒気を抜かれた心地で、気にならなかった。
「でも侯爵様。そこまで目が悪いのでしたら、夜会など何も見えなくて危ないのではありませんか? もっと形良い眼鏡を作るとか」
「どうせこれは邸にいる時しか使わないから不要だ。夜の外出の機会は厳選しているし、介添えを用意しているから問題ない」
カロリナは、はあ、と抜けた相槌を打った。
アルマンとララが戻り、給仕をしていく。高級なカップに香りの良い紅茶が注がれるのを、カロリナはぼうっと眺めていた。フェルナンはカロリナに紅茶を勧めた後、自分の分を一気に呷った。
余程疲れているのか、飲みきった彼は、またしても長い溜息を吐き出した。
「それで、本日の用向きは?」
「え、あ……」
まごまごしているカロリナを、フェルナンはじっと見つめる。なんだか恥ずかしくなって、カロリナは少し俯いた。
「先日の態度からして、あの件を私が本当に口外しないか確認しに来た、というところか」
いきなり言い当てられて、カロリナは驚いて顔を上げる。フェルナンは意に介した様子もなく、白い紙を一枚取り出した。
「では、一筆書いて渡しておこう」
「お手数、おかけいたします」
「何、内容が内容だから、気に病むのも仕方ない。まして初対面に近い者の言葉なんて、君の言う通り信用できないだろう」
さらさらとペンを走らせた後に渡された紙は、綺麗な文字で誓約書と書かれていた。口外しないという内容の下に、流れるように書かれているフェルナン・ノワゼットの名前を、カロリナはじっと見つめた。




