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7.フェルナン・ノワゼット



 目を閉じながら顔を上げたカロリナが、ゆっくり瞼を上げると、人の姿が飛び込んできた。そして、驚きに目を見開いた。

 執務机に手をついて立っている男性は、あのノワゼット侯爵のはずだ。

 しかし、いつもは綺麗に整えている印象的な赤髪がぼさぼさと寝起きのように荒れている。視線を下に落とせば、いつもの眉間の皺はなく、すがめられている目ははっきりと開かれており、鮮やかな碧色の瞳が輝く。その要素だけで、夜会の時よりも五歳は若く見える。

 そしてなによりも印象的なのが――不恰好な眼鏡だ。全体として整っている顔立ちに、とことん不釣り合いな厚く大きい眼鏡は、強烈に浮いていた。

 あまりのイメージの違いに、カロリナは思わず呟いた。


「……どなた?」


 ひくり、と目の前の男の口元が動く。


「ほう……。本日の来客は、どうやら自分が訪ねた相手さえ知らぬらしい」


 はっとしたカロリナは、口元を手で覆った。


「ご無礼を……」


「まあ、名乗られたからにはこちらも名乗るのが礼儀。私は、フェルナン・ノワゼット。君に、あの夜会で押し倒された男だ」


 皮肉げな言葉に、カロリナは息が止まった。

 カロリナは、目の前の――以前会った時とは見た目が大分異なるが――フェルナン・ノワゼット侯爵を、押し倒したのだ。

 今までの流れからしても、十中八九怒っている彼が許してくれるとは思えない。しかも、噂では女をそそのかす紳士に相応しくない男なのだから、ただの怒りで済むとは思えない。

 カロリナが押し倒した、という事実を隠してくれと思っても、フェルナンが知った時点で危うい。

 カロリナはひるんだ。


「して、何の用だ。先日の件なら、私は一言も外部にはもらしていない」


「え?」


 フェルナンはカロリナの顔をじっと見ると、しばらくして目線を逸らして、続ける。


「信用ならないといった顔だな。君にとって、男を押し倒したなど醜聞もいいところだろうが、こちらも女性に押し倒されたなど良い話ではないのでね。噂として広める価値はない出来事だと判断した」


「ちょっと、お待ちください。価値があると判断したら、噂として広げるつもりだったのですか?」


「そうだな」


 淡々とした声に、折角黙っていると言ってくれているのにも関わらず、何故かカロリナはむっとした。


「まあ、ご温情感謝いたします。そのままあの時の出来事は忘れてください」


「それはこちらが判断する」


「何故! 謝ったではありませんか!」


「謝って私がそれを受け入れたところで、君の押し倒した事実はなくならない。なくなるのは君のちっぽけな負い目ぐらいだろう」


 カロリナは、今度は怒りで震えた。

 ちっぽけなどと、どれだけこの三日間悩んだと思っているのだ、と叫びだしたくなるのを、なんとか呼吸を整えることで押しとどめる。

 フェルナンを睨み付けると、彼はそんな彼女を一瞥して、興味ないといわんばかりにすぐに顔を背ける。


「大方、押し倒す相手を間違えたか。それにしても男が休憩していた部屋に、堂々と入り込んで扉を閉め、二人きりになったというところで体当たりで押し倒すとは。見た目に反して、勇猛果敢で奔放なのだな」


 言われた言葉に、カロリナは怒りと羞恥でくらりと目が回った。なんとか足を踏ん張って、場に立ち続ける。


「……邪推は、やめていただきたいですわ」


「では、教えてほしいものだね。密室にして男を押し倒すまでしたのに、急に逃げ出す理由を」


 カロリナは、唇を噛んだ。

 気付いたら押し倒していて、混乱して逃げました、など言えない。ましてや、シトロニエの祝福は他言無用と言われている。いや、言ったところで、信用されるはずがない。


「怒っていらっしゃるのね」


「別に、そこまで怒っていない。苛々はしているが。尻尾巻いて逃げたくせに、こうやって謝りにくるのは理解し難い」


 フェルナンは大き過ぎる眼鏡を指で押さえて、薄く笑った。


「謝ることを理由に訪ねて、今度は男から押し倒してもらおうとしたとか?」


 カロリナは、自分の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。


「やっぱり、なんて最低な方!」


 女の敵め、とカロリナは侮蔑を込めた目で、フェルナンを睨む。


「貴方のような最低の方がおっしゃることなんて、全く信用できませんわ!」


 怒りに任せ、礼儀などそっちのけで、カロリナはフェルナンに背を向ける。

 扉近くに待機していたララに帰ると乱暴に呟いて、扉前で足を止める。

 フェルナンを振り返った彼女は、嫌味ったらしく見えるように、最高の淑女の笑みを浮かべた。


「それでは、侯爵様。ごきげんよう」


 扉は、思いっ切り閉めてやった。








 カロリナが去った後、しばらくしてフェルナンはどさりと執務椅子に腰を落とした。天を仰ぎ、深く息を吐く。そして、ぼそりと呟いた。


「……なんだ、あの美女は」


 耳聡く、その言葉を拾ったアルマンは、にこにこ笑みを浮かべて主人を見る。

 きっとまたしばらく、主人は眠れない。




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