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6.侯爵邸へ押しかけて




 ノワゼット侯爵家に到着したカロリナは、邸宅を前にため息をついた。

 それは、侯爵家の規模と優れた建築技術に感嘆するものと、そんな外観だけは素晴らしい虎の穴にこれから足を踏み入れなければいけないという諦観だった。

 全く気は進まないまま、ララに到着の旨を伝えてもらうと、迎えとして一人の老紳士が現れた。彼はノワゼット侯爵家に仕える家令アルマンと名乗り、カロリナを一目見ると、顔をほころばせた。


「おお! 貴女様が、あの夜会で当家の主に会われたご令嬢ですな!」


 カロリナは一瞬顔を硬直させたが、すぐに笑顔を作った。


「まあ、侯爵様はどのように私のことをお話しになったのかしら」


「ええ、それはもう! あの夜会から毎日『あの女、あの女』と呟いておられます」


 ……かなり怒っている。

 案内にアルマンが完全に背中を向けたのを確認して、カロリナは真顔になった。

 侯爵が怒っているだろうことは、訪問までの三日間で想定済みだった。ただ、程度はかなり大きいようで少し動揺する。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


 側に控えるララが心配そうに小声で言った。


「ええ、まあ、大丈夫よ。きっと」


「やはりノワゼット侯爵はお怒りなんでしょうか。お嬢様にどのように当たられるか心配で。押し倒してきたのだから、この場で押し倒してやると襲われたらどうしましょう。そういう恋愛小説を読んだことがあります」


「そう。でも今は午前中で、現実は恋愛小説ではないのだから、例えそうなっても叫んで逃げるだけよ」


「お嬢様は肝が座っておりますね。かくなる上は私をおとりに捨て置いても構いませんからね」


 どこかきらきらした目で見てくるララは、何を期待しているのだろうとカロリナは思う。ここはカロリナからすれば戦場だというのに。

 大嫌いな部類の、女性に不誠実な人物である侯爵。会いに行くのさえ嫌で堪らないのに、今回は押し倒してしまったという負い目を抱えての無理矢理の面会。それでもカロリナはこの面会の目的に、自分の押し倒した行動を他言無用にしてもらうことを掲げていた。

 例の夜会から三日経った現在、幸いなことに、カロリナが男性を押し倒したという噂は流れていなかった。むしろ噂はないかと深く聞いた友人に、結婚でも決まったのかと疑われる程だった。もちろん即座に否定した。

 このまま侯爵が黙ってくれれば、部屋に二人きりだったこともあり、何もなかったことにできる。

 カロリナはぐっと手に力を入れた。


「……さあ着きました、こちらに主がおります」


 物思いにふけっていたカロリナは、誤魔化すために反射的に笑顔を浮かべた。

 アルマンは特に気にした様子もなく、咳払いを一つして、重厚な扉をノックする。


「旦那様、アルマンです」


 返事が戻って来たかカロリナには聞こえなかったが、アルマンが扉を開いた瞬間。


「アルマン! 報告書が違う!」


 鬼気迫った男性の声が聞こえたかと思うと、アルマンの顔の真横に何かがものすごい勢いで飛んでくる。扉を抜けて壁にぶつかったものを目で追えば、分厚い書類の束がどさりと床に落ちた。

 激怒、という言葉がカロリナの頭をよぎった。想像と実際に感じるのとでは全く異なる。身震いした彼女は、瞬間に恥も外聞も捨てた。

 お嬢様、というララの制止の言葉を聞かず、カロリナは部屋に駆け入ると、すぐに頭を深く下げた。


「失礼いたします! カロリナ・シトロニエと申します。先日は、いきなり押し倒してしまい、申し訳ございませんでした!」


 精一杯、声を張り上げると、静かな空気が場を包んだ。

 カロリナの額に汗が滲み出す。握っている手が震えそうになるのを、力を入れて抑える。

 しばらくして、頭を下げた前方から、カロリナの名前が小声でゆっくりと呟かれるのが聞こえた。その声音には怒りを感じなかったが、カロリナの肩が震えた。


「アルマン」


 自分の名前が呼ばれたわけでないのに、怒気をはらんだ低い声に、カロリナはさらにびくりと身を震わせる。それでも頭は深く下げて、体勢を変えない。


「客人は応接の間に通すよう言ってあるだろう。何故執務室に連れてきた」


「はあ、そんなこと言われておりましたか? 忘れておりました。いやはや、歳のせいですかねえ」


 全く悪びれた様子がないおどけた声が、カロリナの背後から聞こえる。すぐに前方から舌打ちの音が聞こえて、あまりの恐ろしさにカロリナの目元に涙が溜まってくる。

 ややあって、盛大なため息が聞こえたかと思うと、人が微かに動いた気配がした。


「……カロリナ・シトロニエ嬢。顔を上げてくれ」


 それはなんとか取り繕ったような、不安定でぶっきらぼうな声音だった。

 それでも気遣いをうっすら感じて、カロリナは恐る恐る顔を上げていく。きっとあの鋭い目付きでこちらを射抜くように睨んでいるに違いないと、覚悟して。



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