第三章①
土曜日の早朝、赤座カズマは店に臨時休業の札を下げ、カリマーのリュックを背負い、電車に乗った。その緑色の電車は赤座の体をゆっくりと北の山間へと運んだ。この日の太陽の光は優しく、気持ちのいい青空が車窓を彩っていた。旅をするにはうってつけの日だった。平良ヨウコを探す旅が始まった。やはり黒須センイチが予期したとおり、じっとしていることなんて出来なかった。いつも通りの時間に店を開け、いつものように淡々と仕事をこなしながら、彼女が帰ってくることをじっと待っていることなんて出来なかった。動き出さずにはいれなかった。ヨウコを探し出すことは所詮ただのぬいぐるみ屋の赤座にはほとんど、不可能に近いことなのかもしれない。しかし、じっとしているよりは動いている方が少なからず、彼女に近づけるような気がしていくらか不安が紛れた。赤座は電車に揺られることでなんとか、平静で居続けることが出来た。電車はゆっくりだが、しかし確実にレールの上を進んでいくのだ。
車輪が外れることがなければ。
赤座は電車の中でずっと音楽を聴いていた。ウォークマンの電源を入れたのは随分久しぶりだったが、データは一切失われていなかった。学生時代によく聴いていたロック・ミュージックを、あの頃の記憶を取り戻すように一つ一つ丹念に聴いていた。ブルーハーツ、ファントムギフト、ヌードルズ、ムーンライツ、コレクターズ……。
もちろん、赤座はただ漠然と電車に揺られている訳ではなかった。目指す場所はきちんと用意されていた。二時間ほどで緑色の電車は終点の駅に着いた。標高は上がり、周囲はすっかり圧倒的な緑色に覆われている。青空とのコントラストが息を呑むほどに美しい。赤座が住むあの街の駅前とは空気の透明度が格段に違っていた。この場所はガイドブックに温泉地として紹介されていることもあり、晴天の土曜日はそれなりの観光客で賑わっていた。
駅からバスに乗り、二十分ほど山道を揺られて行くと細く、力強く落ちていく滝が見える場所に出る。そのバス停で下車し、滝と反対の方向へ歩いていくと深い緑色の隙間から、この緑の中にあってある種異様な、しかし不思議と自然と調和している、コンクリートの建造物が見えてくる。
伊田美術館。
この美術館は実業家の伊田氏が収集した希少な美術コレクションが展示されていた。収蔵品の中心は近世、近代の日本画だが、その他にも土偶や埴輪、また世界中の様々な地域の、様々な時代の作品も数多く展示されている。設立されたのは今から十年ほど前で、新しい美術館だった。
以前、赤座とヨウコは二人でここを訪れたことがあった。ちょうど一年前くらいだったろうか、その日の空は淀んだ灰色の雲で覆われ、標高の高い山間は霞んだ空気が漂っていた、交際を始めたばかりの二人は温泉旅行に出かけ、美術館の傍の旅館に宿泊することにしていた。その道すがらこの美術館を偶然見つけ、特に二人とも美術に造形が深いわけでもなかったが、中に入ってみることにした。館内は空いていて、ほとんど二人の貸し切りのように展示をゆっくりと眺めることが出来た。
「こういうところなかなか来ないから、なんだか、ドキドキするね、」ヨウコは終始青い瞳を半月状にして笑っていた。「わっ、この猫可愛いねー」
出会った頃は黒いショートヘアだったが、この頃のヨウコは髪を伸ばし軽くパーマをかけ、アッシュグレーに染めていた。出会った頃よりもヨウコは姿も、心も明るく変化していたように思う。高校生の頃のヨウコは、その明るさや優しさに時折、陰を作った。赤座が知り得ない戸惑いや悲しみを、その愛らしい笑顔で無理に隠しているようだった。しかしこの頃にはそうおいった陰のようなものをほとんど見せることがなくなっていた。彼女が陰を作り出す何かを越え得たのか、長い歳月が浄化したのか、本当のところは分からないけれど、とにかく、ヨウコは明るく、そして赤座にとっては天使のような人に成長していたのだ。
しかし。
ヨウコはこの美術館に展示された、ある絵の前で赤座に陰を見せつけることになった。
赤座は三階のフロアにエスカレータで上がる。日本画が中心に展示されているエリアだった。あの時とは違い、フロアには年配の観覧者が十数人いて、それぞれしげしげと日本画を眺めていた。赤座はあの絵を探した。その絵は確かここの収蔵品だったはずだから、展示されているはずだろう。しかしフロアを端から端まで探してみてもそれらしき絵は見当たらなかった。今日は展示期間からはずれてしまったのだろうか。赤座はフロアの隅にちょこんと座る、まだ若い女性の学芸員に絵を探しているんだけど、と尋ねてみた。
「どのような絵ですか?」彼女は顔だけこちらに向けて言う。「作者は?」
「作者は覚えていないんだけど、」その絵の作者は教科書に掲載されるような名の知れた絵師ではなかった。「鳳凰と、孔雀が対になった、掛け軸のような絵で」
「ああ、」すぐに合点がいったようで彼女は立ち上がった。「その絵なら二階のフロアです」
彼女に案内されて、二階へ向かった。その途中、彼女は饒舌にその絵の作者の解説を始めた。彼女はどうやらその絵師の研究をしているらしかった。解説は赤座をその絵の前に連れていくまで、ゆっくりと軽妙に続いた。その絵は中国の陶器のコレクションがずらりと並ぶフロアの中心に、異質に仰々しく展示されていた。「まだまだ世間に名の知れていない絵師ですが、近いうちに再評価されることでしょう、私はそう信じています、その気運は美術界隈では年々高まっていますしね、ゆっくり眺めていられるのは今年が最後かもしれませんよ」
歴史を予告するようにそう言い残し、彼女は赤座の前から去った。
赤座はまだまだ世間に名の知れていない絵師の、鳳凰と孔雀の絵を見つめる。
ヨウコと二人で見たとき、この絵は他の日本画と一緒に三階のフロアにあった。そしてひっそりと発見されることを拒むように展示されていた。それが今では自らの姿を誇るように、巨大なガラスケースの中で優雅に適度な明度の照明に照らされ、その鳳凰と孔雀の対の日本絵は贅沢に展示されている。そしてこの絵に目を奪われているのは現在、赤座しかいかなった。
赤座は鳳凰と孔雀の姿を捉えながら、手前に置かれたベンチに腰掛け、息を吐いた。疲れているな、と思った。目元を擦り、そして滲んでくる涙を指で抑えた。肩を振るわせることはなかったが、体の奥底が煮えるようにうごめいていた。
「愚かになった私はいつか、この小さな窓から飛び立つつもり」
ヨウコはこの絵の前で、赤座に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、そんなことを言った。
愚かになった私はいつか、この小さな窓から飛び立つつもり。
そう、口ずさむヨウコの横顔には陰があった。その青い瞳は鳳凰と孔雀を追いかけていた。鳳凰は片足で立つ止まり木から原色の映える豊かな尾を振り上げて、今にも飛び立とうとしている。孔雀はその風雅な斑紋を持つ白い翼を広げるために身を捻っている。ヨウコはなかなかその絵の前から動こうとはしなかった。赤座が他の日本画を見に遠くに離れても、ヨウコは鳳凰と孔雀の前から動き出そうとはしなかった。まるでその二羽が羽ばたき、ここから飛び立つのを見守るように。
その時にはヨウコが消えてしまうことなんて微塵も考えなかったが、今から思えば、それは予兆のようなものだったのだろうか。
あの頃からヨウコは赤座の前から姿を消すために、律儀に準備を始めていたのだろうか。
「そろそろ行こう」赤座はヨウコの手を取る。
「うん、」ヨウコは名残惜しそうに絵を見つめ続けてはいたが赤座の手を拒絶することはなかった。「そうだね」
しかし彼女の重心は赤座の方にではなく、絵の方にあった。
愚かになった私はいつか、この小さな窓から飛び立つつもり。
赤座はその絵の前から引き上げ美術館を出る。時刻は正午を回っていた。晴天はそのままで太陽は真上に場所を変え、その強い日差しは肌をじりじりと焼いた。道を下り、バス停で駅まで戻るバスを待っていた。すると着信があった。センイチからだ。「はい、ぬいぐるみの赤座屋です」




