第26話 集結する人々 1
翌日は、それまでの騒ぎが嘘のように――嵐の前の静けさのように、何事もなく過ぎていった。
若者たちも、乙女たちも、朝から鍛錬に励み、友と語らいながら過ごす。
ボイスカは、昨日の宣言通りに戻ってきていたが、特に山ごもりのことを話題に出すわけでもなく、アタランタもまた、あえて尋ねることはなかった。
そして、さらに翌日――
今宵、満月が昇るという日にも、昼間の鍛錬は、いつもと変わらず行われている。
他の者たちにとっては、昨日と同じく穏やかな一日だったが、今宵昇る月に特別な思いをいだく者たちにとっては、吹く風も、そこに舞う一枚の葉さえも、何か、大きな予感のようなものをはらんでいるように思えた。
「ねえ、アタランタ」
鍛錬を終え、並んで涼しい木陰に座りながら、ボイスカはさりげなく口を開いた。
「彼との、再戦の予定は、もう決まっているの?」
「うん」
晴れ渡った空を見上げながら、アタランタはうなずいた。
そして、それきり、遠い目をしたまま、口を閉ざす。
ボイスカは先をうながすこともなく、アタランタと同じように、空を眺め続けた。
それから、だいぶ経って、
「今夜だ」
アタランタは、ささやくように言った。
「今夜? ……今夜ですって? 夜に、走るの?」
「うん」
「まあ……そう? ……どこで?」
「分からない。タウロスさんが、迎えに来るって」
「なるほど……場所は、秘密。つまり、観戦はお断りというわけね」
「いやいや」
ようやく、慌てたようにボイスカに向きなおって、アタランタは片手を振る。
「そういうわけじゃ……わざと、ボイスカに隠そうとしてるわけじゃ、ないからな! 私も、ほんとにまだ知らないんだよ」
「ええ」
力づけるようにアタランタの肩を叩き、ボイスカは笑った。
「分かっているわ。彼のほうも、きっと、噂が広がって野次馬が集まらないように、秘密にしているのよ。夜中に、というのも、そういうことなんだわ。彼は、あなたと二人きりで、勝負がしたいのね」
「二人きりで……」
その様子を脳裏に思い描くかのように、アタランタはまた遠い目をしかけたが、
「だって、大勢の見物人が集まってしまって、その目の前であなたに負けたりしたら、タウロスの名は『スタディオン走で女に負けた男』として、スパルタの歴史に永遠に刻まれてしまうものね! オーッホッホッホッ!」
「お……おお。たしかにッ」
ボイスカの高笑いに、アタランタも、思わずにやりと笑って、うなずいた。
「さすがのタウロスさんも、私の俊足に、少しびびってるのかもしれないな! うん、よし、自信が出てきたぞ!」
「でも、アタランタ、油断してはだめよ。今日は雲もないし、満月が昇れば明るいとは思うけれど、走るときには、足元にじゅうぶん気をつけなさい! 足首をひねって傷めたりしてはだめよ。……勝てるわよね?」
「もちろんだ」
もはや、恋する乙女の遠い目ではなく、勝利をめざす運動選手の熱く燃えるまなざしで、アタランタは両の拳をかためる。
「そのために、今日まで鍛錬してきたんだからな! 私は、私の今の全力を、底の底まで出し切って、タウロスさんをぶっ倒すッ!」
「その意気よ! 勝負の前には、あたくしという宿敵があなたを応援しているということ、必ず思い出すのよ。……アタランタ!」
ボイスカはアタランタの両手をとり、まっすぐにその目を見つめた。
「ねえ、聞いて。人生で、何かひとつを取れば、別のひとつは諦めなくてはならないように、よく言われるけれど、あたくし、そうではないと思うわ。
望むものがいくつもあるなら、いくつにだって、手を伸ばせばいいのよ! 許されたものや、与えられたものだけありがたく受け取るなんて、スパルタの女の生き方ではないわ。戦士なら、望むものはすべて、この手で、つかみ取るの。
だから……勝利も、恋も、きっと、手に入れなさいね」
ボイスカの言葉を聞いているうちに、最初は何の話かと驚いていたアタランタの表情が、みるみるうちに、輝いていった。
「ああ」
体の内側から湧き上がってくる力が抑えきれない、というように、地面から立ち上がる。
「ありがとう、ボイスカ。私は、必ず勝つぞォォォ! ウオオオオオオオ!」
「アタランターッ!!」
雄叫びをあげながら家路を走り去っていくアタランタの背中に、ボイスカは、腹の底からの大声を投げつけた。
「今度、また、あたくしとも勝負しなさいよーッ!? あたくしだって、大切な宿敵は、生涯、手放さないんだからァァァァーッ!!」
* * *
その夜。
輝く満月が空をわたり、やがて中天にかかろうとするころ――
ひとつの兵舎から音もなく忍び出る、一人の若者の姿があった。
タウロスだ。
彼は用心深く月の光をさけて姿を隠すと、後ろを振りむき、あたりを見回し、邪魔者が誰もいないことをたしかめると、足音を立てずに走りはじめた。
恋しい娘の村へと、その父親と戦うために走るタウロスの目には、ただ、ひたむきな光があった。
自分のあとから、やや遅れてもう一つの影が姿をあらわし、同じ道をひたひたと走りはじめたことに、タウロスは気付いていない。
* * *
同じ頃。
「……父さん!?」
「おう、アタランタ」
いつもよりも戸口に近い暗闇のなかに横たわり、一睡もせずにタウロスの訪れを待っていたアタランタは、室内で何かがごそごそと動いている物音に緊張して身を起こしたのだが、それが父親であると知って目を見開いた。
見れば、母もしっかり起きていて、今にも出かけようとするようすの父を送り出そうとしている。
「起こしてしまったか。すまんな。寝ていていいぞ」
「えっ、いや……どこ行くの!? こんな夜中に……」
「うん、ちょっと、見回りにな」
「こんな夜中に!?」
思わず繰り返したアタランタの顔を、父は、じっと見つめているようだった。
あかりもない部屋の中では、暗くて、表情はほとんど見えない。
「あなた」
母が、うながすように小さく言うのが聞こえた。
ふうっというため息が聞こえて、やがて、父の声が言った。
「そうだな、本当のことを話しておこうか。……実を言えば、わしは、これから、タウロス君と試合をすることになっとるんだ」
「えっ……えっ、えっ!? なんで……えっ!? 今、から?」
「ああ」
混乱するアタランタに対して、父の声は、あくまでも穏やかだ。
「おまえには、今まで話していなかったが……彼は、おまえとのことを、わしに認めさせようと、懸命になっているのだよ」
「えっ、そっ……そんな」
アタランタは、目を見開いた。
『おまえとのこと』――
私と、タウロスさんとの競走のことを、なぜ、父が知っている?
その上に、なぜ、父が、その勝負に介入してくる――!?
「そんな……やめてよ、父さんッ! それは、タウロスさんと、私とのあいだのことだろッ!? 父さんには、関係ないじゃないかッ!」
「アタランタ!」
母の、ひどく傷ついたような声が聞こえた。
父も、大きく息を吸い込んだようだったが、次に聞こえた声は、まだ穏やかなままだった。
「いくら何でも、父親に対して言葉が過ぎるぞ。関係ないことはない。おまえは、わしの大切な娘だ」
「そう、……そうだけど、それは、分かってるけど! でも、私にも、大切な約束があるんだッ!」
アタランタは立ち上がり、叫んだ。
「今夜、タウロスさんが、私を迎えに来るって……! 私たち、約束してるんだ! 私は、ずっとずっと、この夜を楽しみに待ってたんだッ!」
「何ですってッ……」
「タウロス君が……今夜、おまえを迎えに!?」
両親は、その言葉に、まるで殴られでもしたかのような衝撃を受けたようだった。
アタランタは、その隙に、ぱっと戸口に飛び出した。
「アタランタ、待ちなさい!」
「嫌だッ!」
月明かりを背負って立ち止まり、アタランタは叫んだ。
「父さんも、母さんも、来ないで! お願いだから、私たちの邪魔をしないでッ……! 父さんが認めても、認めなくても、関係ない! 私たちは……絶対に……絶対に、今夜、スタディオン走をするんだァァァッ!!」
それだけを、こんかぎりの大声で言い放ち、おもてへ飛び出していく。
取り残された父と母は、しばし、呆然としていたが、
「…………えっ」
やがて、二人そろって、顔を見あわせた。
「今……アタランタは……最後に、何と言った?」
「私の耳には……スタディオン走、と、聞こえたけれど……」
「やはり、そうだったよな……? わしの耳が、おかしくなったわけではないよな?」
何ともいえない顔で黙り込むエウリュメドン殿に、急な騒ぎに目を覚まして泣きだした小さな娘、ポイバを抱き上げてあやしながら、母。
「この夜中に、若者と娘が密会して……ΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑじゃなく、スタディオン走……そんなことって、あるかしら!?」
「ぬう……」
エウリュメドン殿は、何が何やら、という顔をしながらも、とにかく立ち上がった。
「やはり、行くの? あなた」
「ああ」
妻に優しく口づけをして、エウリュメドン殿。
「状況がよくわからんが、わしは、とにかく予定通りに、格技訓練場へ向かうことにしよう。万が一にも、タウロス君に、試合をすっぽかしたように思われるようなことがあってはならんからな」
「お気をつけてね」
「ああ」
エウリュメドン殿はおもてに出ると、月明かりの下で目を細め、あたりを見回した。
少年のころから暗闇の中を歩くことに慣らされるスパルタの男の目をもってしても、『風』とうたわれる俊足をほこる彼の娘の姿は、もはやどこにも見つけることはできない。
彼は足早に格技訓練場のほうへと歩き出した。
この村の格技訓練場は、彼の家からはかなり遠い。
月は、もうすぐ最も高い位置にさしかかる。
出がけの思いもよらぬ事態のために手間取ってしまったが、できればタウロスよりも先に着いて、年長者の余裕を見せたいものだ――
だが、エウリュメドン殿の足取りは、家から格技訓練場までの道のりの、ちょうど半ばあたりで、ぴたりと止まった。
そこは、あたりを木立におおわれ、周囲からの見通しのきかぬ場所だった。
月明かりも、細くしか射しこまぬ。
「何者だ」
落ち着き払った声で、エウリュメドン殿は誰何した。
その声に応じるように、横手の木立から、ひとつの人影がぬうっと姿を現す。
人影は、まるで行く手を遮るように、エウリュメドン殿の前の道に立ちはだかった。
ほんのわずかな月明かりが、その人影が男であり、覆面をしていることを照らし出す。
「エウリュメドン殿とお見受けする」
「いかにも」
覆面の人物のくぐもった問いかけに、エウリュメドン殿は静かに答えた。
「そういう君は、アミュクライ村の、カリアンドロス君じゃないのかね。こんな夜中に、我が村で何をしている?」
「グムゥッ!?」
覆面の人物は、まるで思いきり舌でも噛んだようにうなり、大きくよろめいてから、
「イ……イヤァー違ウヨォーッ。人違イダヨォーッ」
あやしい作り声でそう言ったが、エウリュメドン殿が何の反応も見せずにいると、
「……フッ……ばれてしまっては、仕方がないッ!」
やがて、開き直ったというか、やけになったというか、とにかく妙に爽やかな口調でそう叫ぶと、顔面を隠していた覆面をむしり取った。
その下からあらわれたのは、つややかな金髪と、甘い顔立ちだ。
「いかにも、俺はアミュクライのカリアンドロス! あなたに勝負を申し込むために、ここに来た。
いつでも、どこでも、誰からの挑戦でも受けると豪語なさったこと、まさか忘れてはおられまい! 俺からの挑戦、受けていただこうッ!」
「……なぜ……今……」
さすがに呆然として、エウリュメドン殿はそう呟いたが、やがて、その口もとに一瞬だけ、かすかな笑みがよぎった。
「なるほど……そういうことなのか。君は、タウロス君とアタランタのために――」
「グヌウッ!?」
カリアンドロスはまたも大きくうめき、よろめいてから、
「いやッ、そういうことでは、まったくないッ! タウロスのためにとか、そういうアレは全然なく、アレだ、その……とにかく、勝負だッ!」
強引にごまかして――いや、まったくごまかせていなかったが、とにかく、堂々とエウリュメドン殿に指先を突きつける。
それを見返すエウリュメドン殿の顔に、今度は、隠しようもなく、不敵な笑みが広がっていった。
「よかろう。スパルタの戦士に二言はないからな。もっとも……君では、足止めにはならんだろうがね……」




