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ドライカレー(1)

アラームの音で目が覚める。


少し痛む頭は、昨夜のビールのせいだろう。


あれから人事部から連絡はなかったので、今日も自宅待機だ。一時は、無職になってのんびり過ごす気でいたのだが、今は、できることなら職場に残りたい。


プライベートな時間に、気の合う人と楽しく過ごせる時間があるのなら、仕事上の努力が報われないことなんて些細なことだと思えるようになっていた。


若干酒臭い呼気に閉口して、バスルームに向かう。


「ぶっ」


途中、昨日脱ぎ捨てた服に足をとられて転んでしまった。


周囲を見渡すと、脱ぎ散らかした服が散乱し、キッチンはゴミ袋で一杯で、床は埃だらけだ。


パワハラを受け始めてから、心身共に疲弊した体をベッドに横たえ休むことしかできなかった。


食や身なりだけでなく住環境にも気を使わなくなってしまっていたのだ。


こんな部屋をいつもアーサーに見られていたのかと思うと、とたんに羞恥心が湧く。


アーサーのいる牢獄は、一部に干し草がつまれている他は冷たい石で覆われている。


先日、体を洗うお湯を渡してから、体を洗うついでに牢内も水洗いしたようで、清潔だ。


軍にいた生活が長かったというから、整理整頓の意識が高いのだろう。


「せっかくのお休みだし……今日は掃除でもしようかな」


アーサーの意識の高さを見習い、自分も部屋を綺麗にしようと、スウェットの腕をまくった。


私の住んでいるマンションは、ありがたいことに二十四時間ゴミを出してもいいことになっている。


いつでも出し放題な環境だったのに、ゴミをここまで貯めてしまうとは。環境とは恐ろしいものだ。


ゴミの中に埋もれている私自身も、まるでゴミになってしまったような気がして、これではダメだと片付けを始めた。


キッチン周りに積んでいたゴミ袋を両手に抱え、何往復もしてゴミを集積所に出してきたら、気分も晴れてくる。


ゴミの分だけぽっかりと空いた空間に、風が吹き込み、埃が舞い立つ。


勢いがつき、散乱していた部屋の洗濯ものをドラム式洗濯機に放り込み、ついでにシーツもベッドからはいで洗濯する。シーツを洗うのも何か月ぶりだろう。


ベッドの周りは埃でいっぱいだ。


ゴミ袋が無くなり、洗濯ものを片づけた部屋を見たら、心の中まですっきりしてくるようだ。


他人にゴミのように扱われているからといって、自分まで自分をゴミのように扱う必要なんてなかったんだ。と今になって思い至った。


毎日のように嫌味と批判と怒声を浴びていて、削られてしまった自己肯定感が、ここ数日の食事と身だしなみと掃除で復活していくのを感じて心地よい。


あと少しだと、片付いた床に掃除機をかけ、雑巾で床を拭く。水拭きした床は輝いていて、見違えるようだった。


全て終わったころには、くたくたに疲れていて汗ばんでいた。朝から何も食べていなかったので、お腹も好いていることを主張するようにグゥと鳴る。


思い切って、自分のためだけに料理することを決めた。


アーサーと一緒じゃなくてもご飯を食べられるか不安だったが、お腹は食べ物を求めている。


なので、以前ホットケーキを作った時に余らせていた卵を使いオムレツを作ってみた。


フライパンを温めバターを流し、塩を入れ溶いた卵を中に入れる。


ジュッと音をたて香りたつ卵の匂いに、口の中から唾が湧く。


ふちが焼けたら、菜箸でかき混ぜやや固めてから卵を寄せて、とんとんとフライパンの柄をたたき形を整える。


整え終わった卵を皿に盛って完成だ。


綺麗になったこたつ机の上に、オムレツの皿を持っていく。


「いただき……ます……」


形のあるものを口に放り込んだら、また以前のように不安に襲われてしまわないだろうかと思いながらおそるおそる、オムレツにフォークを入れる。


黄色い薄皮が破れてとろりとした中身が流れ出る。


ケチャップと絡めて口に入れると、卵の濃厚な味とバターの風味が口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


作りたての温かい感触が私の心の中まで温めていく。


「食べれちゃった……」


オムレツを完食し、お腹をかかえその場に寝転がり天井を見る。


綺麗な部屋で、美味しいご飯を食べ、心も体も満足している。こんな充実感は久しぶりだ。


罪悪感なく食事をとれるようになったのもアーサーの影響だ。


彼は、なんでも美味しそうに食べてくれる。


自分が作ったものを嬉しそうに食べる姿を見ていると、自分が認められた気がしていた。


こんな自分でも、人を喜ばせることができるのだと。


いつも食べていた栄養補助食品でも栄養はとれていたが、自分で作って食べる食事は、自分好みの味付けで、体にも優しく、一口ごとに疲れていた自分を癒してくれる。


ここ数日のことを思い起こして幸せを感じていると、ベッドの上に置いておいたスマホが鳴った。


発信元を見ると、人事部からだ。


「お疲れ様です、七瀬です」


「七瀬さん、お疲れ様です。ちゃんと食べてますか?」


 電話は、坂木部長からだった。


「おかげさまで、食べています」


「それならよかった。昨日の件ですが、槙田課長からあなたに言い渡された解雇宣言は不当なもので、あなたの雇用は継続されることが決まりました。また、七瀬さんに提出してもらった録音と課内の聞き取りで、槙田課長のパワハラが認められましてね。課長は減給・戒告処分。七瀬さんは来期に課を移動することに決まりました」


「え?」


課の人たちは、課長に口裏を合わせるだろうと思っていたが、パワハラを証言してくれた人がいたのだ。


自分のために動いてくれた人がいるという事実に、胸が熱くなる。


「七瀬さんは納得しないかもしれませんが、これがうちのできる最大のことです」


「いえ、こんなに早く結論を出してくださったことに感謝いたします」


解雇は撤回され、職場に残れ、パワハラまで認められ、来期には槙田課長と離れられるなんてありがたい。


「あなたは、真面目で頑張り屋の社員です。私の下にいた時も、その頑張りには助けられました。しばらくは槙田課長の下で働く必要がありますが、どうか辞めずに、この会社に貢献してください」


「ありがとうございます」


出社は明日からになった。坂木部長の言葉にじんとなりながらも、明日から数か月間、槙田課長と顔を合わせることになることに気が付き、内心心臓がバクバクする。


槙田課長のパワハラを告発したことで、彼には恨まれているだろう。


これまで以上のパワハラが待っているかもしれない。そんな不安が頭を占拠する。


「いや、戒告処分をうけてまで危ない橋は渡らないでしょ」


不安からくる想像を口から出した言葉で打ち消した。


汗ばんでいた体がすっかり冷えてしまっていたので、気分を変えるため、バスルームにむかいシャワーを浴びる。


シャワーを浴びている間に湯を張った湯舟に、冷めきった体をざぶりとつけると、緊張からか固くなっていた体がほぐれていく。


「今日も、アーサーさんと会えるかな」


リラックスすると出てくるのは、昨日のアーサーの行動のことだ。


単なる友愛の表現なのだろうが、イケメンの手の甲へのキス未遂は刺激が強かった。


熱くなった頬を誤魔化すように湯舟に頬をつける。


「とりあえず、今夜もご飯を作ろう」


湯舟でしっかり体をリラックスさせてから風呂を上がり、髪と体をタオルで拭く。


髪を切ってから、乾かすのが楽だ。


早く切ればよかったと思いながらドライヤーをかけると、シャンプーの良い香りが漂ってくる。


いつもは、一日一食ほどで十分だと思っていたのだが、ここ数日の食事で胃が慣れたおかげか、二食目を食べたいと思うようになっていた。順調に健康を取り戻せている。


「あ……でも、明日からアーサーさんと会えなくなっちゃうかもしれないんだ」


仕事に行くようになったら、午後五時に自宅に帰り着くなど無理に等しい。


日々の残業も確定しているので、陽が沈むまでの間に帰り着くことも難しいだろう。


「せめて、休日には会いたいな」


牢につながれていて食料事情が悪いアーサーのために、日持ちのするものを作ったり、食料を買い込んで渡したほうがいいだろう。


冷蔵庫などなさそうな世界だ。


保存期限の長いものがいいかもしれない。休日ごとに食料を提供していれば、アーサーの食料事情もよくなるだろう。


肌を整え、下着を身に着け、シャツとスカートを着てからバスルームを出る。


こたつ机でメイクを済ませ、机の上を片づけてから姿見で全身をチェックした。


痩せすぎてはいるが、数日前よりも各段に顔色がよくなっている。


少しぶかめの服も、この調子だとすぐに体にぴったりになりそうだ。


来期からは槙田課長と顔をつきあわせなくてもよくなるのだから。


これまで以上に怒鳴られるかもしれないのもあと数か月の辛抱だと思えば多少は前向きになる。


綺麗になった部屋の中、心身共にさっぱりした私は、今夜の夕食の買い出しに出かけることにする。


綺麗に掃除した玄関を開くと、換気のために開けていたベランダの窓から風が爽やかに吹き抜けていった。



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