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ホットケーキ(5)

アーサーがいなくなってから、キッチンを片付けベッドの上に戻り、スマホ画面を眺めていた。

画面は坂木部長の電話画面だ。


三十分ほど、じっと電話画面を眺めていた。


怖い。


槙田課長の言うように、私は坂木部長にとって困った社員なのだろうか。


課長からパワハラを受け続け、課内では無視をされ、相談する相手も無くこれまでやってきていて、今から前の上司に相談の電話をかけるということですら、判断ミスで槙田課長に怒鳴られるのではないかと恐怖が湧きあがる。


「一皮むけよ……か」


アーサーの言葉を思い出しながら、両眼を閉じ、思い切って画面をタップした。



「も……もしもし、おひさしぶりです。七瀬です」


「七瀬さん、お久しぶりですね。今日の昼に家内が会ったと言っていましたが、お休みだったんですか?」

 

電話口からは、穏やかな坂木部長の声がする。


話の内容から、私が昨日から仕事を辞めようとしているといった内容が伝わっているようには思えなかった。


槙田課長が私の退職を伝えたのは、いったい誰だったのだろう。


「お忙しい時間に申し訳ございません……。少しご相談させていただきたいことがございまして」


緊張からか、激しい動悸がする。動悸をおさえながら、解雇されたが、自己都合で退職するようにせまられているという内容をできるだけ丁寧に説明していった。


「家内が今日会った時になんだか具合が悪そうだとも言っていましたが、そんなことを言われていたんですか」


穏やかに、けれど凛とした声が電話口から聞こえてくる。


「すみません……このような相談をしてしまって」


「いえ、私は人事部の人間ですから。こういったことは知らなければならないんです。よく電話をしてくれましたね」


労わるような坂木部長の声に、肩の力が抜けた。


「槙田課長と七瀬さんの間に認識の齟齬があるようなので、明日、出社して人事部にいらしてください。そこで改めて話をしましょう」


「はい……ありがとうございました」


「いいですか、七瀬さん。あなたは真面目過ぎるきらいがあります。今回のことで自分を責めてはいけませんよ」


そう言って、電話は切れた。


恐れていた電話の時間があっさり終わり、肩をなでおろす。


互いの認識に齟齬があれば、話し合う。


そんな当たり前のことすら、連日怒鳴られ萎縮していた私の頭からは消えていたようだ。


黒くなった液晶を見て、ほっと息をつく。


お腹は一杯満たされていて、不安定だった気持ちも今は満たされている。


「お風呂……入ろうかな」


自分に余力が出来たら、さっきまで気持ちよさそうに体を洗っていたアーサーの様子が思い起こされた。


重い腰をあげ、キッチンに置きっぱなしにしていた洗面器を手に取りバスルームに向かう。


いつもなら、シャワーだけですましていたのだけれど、ホットケーキを食べたおかげか余力があり、湯舟をはり浸かることができた。貰い物のバスボムも入れてみたので、テンションがあがるだ。


「気持ちいい……」


体と髪を洗うと、昨日から体につきまとっていた悪いものも一緒に洗い流された気がする。


温かな湯舟に浸かると、毛穴という毛穴から疲れや不安といったマイナス要素がどんどん溶け出していくようだ。


思い返せば、課長のパワハラが始まってから湯舟に使っていない。そんな余裕すら失っていたのだ。


頑張れば頑張るほど否定され、いつかは認めてもらえるだろうと歯を食いしばっていたがその考えも自分を追い詰めるだけだった。


誰かに相談するということすら考えに及ばないほど余裕をなくしていたようだ。


昨日と今日、異世界の王子と共にご飯を食べて、話をすることで、ようやく自分の周りの環境を冷静に眺めることが出来た気がする。


「アーサーさんに感謝だな……」


 明日、またアーサーに会えるなら、今度は何を作ろうか。


 ホットミルク色をした湯舟につかりながら、不思議な縁に思いを馳せた。




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