「悔恨と痛苦と決意と」
いつまでも続きそうな雨の中、クリスさんが私達の前から姿を消して三日の時が経とうとしていた。こんなに長い間音沙汰無いのは初めてのことで、私もエマちゃんもカナリアさんも、皆が皆クリスさんが何処に行ったのか心配していた。
そんな時のことだ。雨の中、突然私たちの所へやってきたその少女はずぶ濡れになることも気にせず、涙ながらにその情報を私たちにもたらした。
金髪を濡らすその少女……クリスタ・フーフェの言葉によって。
帝都で知り合った友人と突然再会したことにも驚いたが、それ以上に驚いたのはその話の内容だった。
「そんな……クリスさんが……」
クリスさんの突然の失踪。
そのニュースは私を動揺させるのに十分な破壊力を持っていた。
「ごめんなさい、エリザベスさん……私はまた止められなかったっ……!」
「あ、謝らないでくださいよ、クリスタさん。それよりクリスさんがどこに行こうとしていたのか、心当たりとかありませんか?」
「それも、ごめんなさい。ただ……クリストフは何か思いつめている様子でした……クリストフのあんな表情、始めてみたから」
「……そう、ですか」
やっぱり、先日の一件が関わっているのでしょう。
クリスさんは随分心を痛めている様子でしたし。
ただ……クリスさんが私達に相談もなくどこかに行ってしまうなんて信じられない。だって、それはつまり……
「……嘘だよね」
ふいに聞こえた声に、私が振り向くと、そこには……青い顔をしたエマちゃんが立っていた。
「嘘だよね? クリスがエマのことを置いて行くなんて……はは、有り得ないよ」
エマちゃんはどこか空ろな瞳で、乾いた笑みを貼り付けて、震える声を絞り出す。
「だって……約束したんだよ? エマを置いてどこにも行かないって……クリスは……約束、してくれたんだよ?」
私はクリスさんとエマちゃんが交わした約束のことを知っていた。
それに、エマちゃんがクリスさんにどれだけ懐いているのかも。そんなエマちゃんをクリスさんがどれだけ大切にしているのかも。同じように、知っていた。
「だから、嘘だよ……クリスは約束を破ったりなんかしないもん……」
じんわりと滲んだ瞳に、私は居ても立ってもいられなくなって、思わずその小さな体を抱きしめていた。
「エマちゃん……」
「ねえ、エリー……嘘だよね? クリスは一人でどこかに行ったりなんて……しないよね?」
エマちゃんの問いに、私は即答することが出来なかった。
そんな訳無いと思いながらも、サラさんが死んだと聞かされた時のクリスさんの表情が忘れられなかったからだ。
けれど、ここでそれを口にしてしまってはエマちゃんを傷つけてしまう。
それに……私自身、そんな可能性は考えたくなくて、
「大丈夫ですよ。クリスさんはそんな薄情者じゃないですって。きっとすぐにでも顔を見せてくれますから、少しだけ待っていましょう」
心に広がる不安を押し殺すように、自分に言い聞かせるように、その言葉を吐いたのだ。
「……うん」
同じく不安げな様子で頷いたエマちゃんも、クリスさんの放っていた危なげな雰囲気を覚えているのだろう。
結局、私たちには信じて待つことしか出来ない。
クリスさんを、信じて……。
そして……
──それから一週間、クリスさんが私達の前に姿を現すことは無かった。
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帝都から少しだけ離れたところにある丘の上で、ヴォイドは忌々しげな表情を浮かべて毒を吐いていた。
「クソッタレが……」
またあの男に邪魔された。
あの鋼の男、レオナルドに。
グレン元帥の護衛として張り付いていた彼の手によって、ヴォイドの暗殺計画は阻止されてしまっていた。これで二度目となる衝突だったが、ヴォイドは自分とレオナルドの相性の最悪さを改めて思い知る。
ヴォイドの権能は神殺しの権能。
その効果は神の奇跡を打ち消すことにある。
つまり、彼の権能は神の力を持たない一般人には何の効果も及ぼさないのだ。
勿論、通常のメテオラを使えば話は早いのだが、ヴォイドはとある理由により大きく運命に関与するメテオラを使うことが出来なかった。人の生死に関わる内容なんて、その再たるものでヴォイドは戦闘においてメテオラを自由に使用することが出来ないのだ。
「まあ良いではありませんか。第一目標は失敗しましたが、これだけの打撃を与えれば大成功でしょう」
「……そうだな」
帝都に刻まれた傷は深い。
軍人だけでも軽く数千は死んだことだろう。
たった三人で行った奇襲にしては、上々の戦果だ。
「アネモネを回収してこい、アダム」
「畏まりました」
ヴォイドはアダムに指示して、待機させておいたクレハに向き直る。
「クレハ、近衛達の様子はどうなっている」
「はい。六部隊の内、五つは作戦の成功を報告してきています。残りの一つは運悪く第四大隊と遭遇したらしく、撤退を余儀なくされた模様です。負傷者は三千、死者は千と言ったところでしょうか」
「分かった。それじゃあ各部隊に作戦の終了と予定ポイントへの合流を指示しろ」
「了解しました」
ヴォイドの元から離れるクレハを見送って、ヴォイドは改めて帝都を眺める。
戦果は上々。
間違いなく大勝利だ。
しかし……死者、千人。
それは避けられない損害だ。こうなることは覚悟していたし、予想ではもっと多くの人間が犠牲になる可能性もあった。
だからと言って喜べるものでは到底無いが……
「う……ッ」
突然感じた嘔吐感に、ヴォイドは溜まらず蹲り吐瀉物を地面に撒き散らす。胃の中身を全部吐き出して、胃液すら出なくなったというのに、胃は痙攣をやめようとはしない。
まるで誰かに殴られているかのように、ずくずくと深く鋭い鈍痛がヴォイドの内を揺さぶり続ける。
「……はぁ……はぁ……」
どれくらいそうしていただろう。
少しずつ収まっていった不快感に合わせて、ヴォイドはゆっくりと立ち上がる。
「くッ……」
──ズクン──
不快感はなくなったというのに、胸を苛む鈍痛は消えてはくれない。
その感情は後悔なのか、恐怖なのか、はたまたもっと別の何かなのか。ヴォイドにはもう分からなくなっていた。
「……クソッ!」
胸を叩いて無理やりその鈍痛を上書きしたヴォイドは、頭を振って意識を切り替える。
こんなところで立ち止まっている暇なんてないから。まだまだやるべきことが沢山あるのだ。
(わしはこんなところで……)
迫りくる感情を押し殺し、ヴォイド・イネインは再び立ち上がる。
理想の世界を作るために。
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三日前、ようやく意識を取り戻したイザークは目の前で沈痛な面持ちのカナリアを見ていた。
「そうか……クリスが」
周囲にはユーリ、ヴィタの二人もいる。
つまり、クリスを除いたカナリア隊のメンバーだ。彼らはこれからのことについて話し合っていた。
「あのバカ……何やってんのよ」
「…………」
苦々しげな表情のヴィタ。
ユーリは何も言わないが、何かしら思うところがあるのだろう。腕を組み、瞳を閉じて何事かに想いをはせている。
「それでカナリア、オレ達はこれからどうする?」
「……イザークの傷が癒え次第、帝都に戻ろうと思う」
「帝都に?」
「ああ。どうやら今とんでもないことになっているらしい。帰還命令が下されたのだ」
とんでもないこととやらが何かは聞かされていないが、と付け加えたカナリア。
「でもカナリア様! それってあのバカを置いていくってことですか!?」
「……ヴィタ、置いていったのは向こうの方っすよ。クリスは懲役免除の司法取引に基づいて入軍していたっす。だから逃亡した以上、彼はただの犯罪者。自分たちには何の関わりもないっす」
「でも……」
どこまでも突き放したユーリの物言いに、ヴィタは口ごもる。
「……ユーリの言う通りだ。宣戦布告されたこの状況では上層部に敵前逃亡と取られもっと重い罪に問われても仕方が無い。帰還命令が下った以上、クリスの離反は隠せないだろうしな」
「か、カナリア様まで何言っているんですか! このまま本当にアイツのこと放っておくって言うんですか!?」
悲鳴のようなヴィタの声。
隠してはいても、人一倍仲間想いの彼女のことだ。
今回の件で一番心を痛めているのはもしかしたら彼女なのかもしれない。
「…………」
「…………」
重苦しい沈黙が場を包む。
そんな様子を見て、薄く笑ったカナリアが口を開く。
「やっぱりお前たちを選んで正解だったようだな」
「……カナリア様?」
「ずっと自信なんてなかった。皆を引っ張っていても、その道が本当に正しいのかどうか。皆を本当に幸せにしてやれているのかどうかが」
カナリアはオレ達一人ひとりの顔を見渡して、言葉を続ける。
「けどな、お前たちのおかげで我はその自信を得ることが出来た。一人では駄目でも、お前たちといれば我は『英雄』でいられる」
光あるところに影があるというのなら、影がなくては光もない。
それは己の道を影と定め、光を支えることを信条とした者にとってこれ以上ない言葉だった。
「我らは仲間だ。戦友だ。家族だ。だから……迷子になっているもう一人を、我は見つけ出して引っぱたいてやろうと思う」
そう言って笑ったカナリアの瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
「どうだろう。皆は我について来てくれるか?」
馬鹿なことを言っている自覚はある。
もしかしたら今まで積み上げてきたものをまとめて無に帰す可能性すらあるその道に、しかし……
「私はカナリア様について行きます。どこまでも」
「ま、自分は引っぱたく程度で許すつもりはないっすけどね」
「……異論ねェ」
彼女の従者達は、三者三様の言葉で従うのだった。
「皆……ありがとう」
これが正しいことかなんて分からない。
いや、きっと正しくなんてないのだろう。これはただの我がまま。やりたいことをやっているだけなのだ。
けれど……
『お前と一緒に歩くのは楽じゃねえよ。でも……お前と一緒に居るのは楽しい』
そう言ってくれた友人がいたから。
自信をくれた仲間がいたから。
カナリア・トロイは戦い続ける。
信じてくれた者のため。自分の信じる者のため。




