「裏切り」
「おい……なんだよ、これ……」
空に広がった『群青』。
それはどこまでも不吉な予感を伴って、俺の視界に広がっていた。
──ドサッ!
妙な音がして振り返ると、三十代くらいの男性が苦悶の表情を浮かべながら道端に倒れこんでいるのが目に映った。
「おい、大丈夫か?」
慌てて駆け寄ると、男は苦悶の表情で呻き声を上げる。
「……うっ……」
顔色は……良くないな。熱もあるみたいだし、早く治療院に運んでやらないと。
「クリスタ、この人を運ぶの手伝ってくれ」
隣に立つクリスタの助力を頼むと、彼女は震える声で指差した。
「ク、クリストフ……見て……」
何があったのかとクリスタの指差す先に視線を移すと……、
「……これは……」
さっきまで普通に道を歩いていた通行人が、次々と地面に倒れこんでいっていた。ふらふらと、足取りの覚束ない奴もいる。
一体何が起こっているんだ。
「クリス君……」
「サラ!?」
そして、その異常は俺達にだけ無関係というものでもなかった。
ついさっきまで元気な様子で買い物を続けていたというのに──
サラまでもが苦悶の表情を浮かべ、異常を訴えていた。
「捕まれ」
今にも倒れこみそうなサラに肩を貸すと、力ない声で「ありがとう」と返事が戻ってくる。
一応意識もはっきりしているし、そこまで酷い症状ということでもないらしい。もしかしたら個人差があるのかもしれない。俺やクリスタは平気そうだし、全員が全員不調に陥っているという訳でもなさそうだ。
「クリスタ、とにかく急いで皆を治療院に運ぼう」
「うん、分かった!」
何が起こったのかなんて分からない。
けれど今は出来ることをやるしかないのだ。
俺が男を、クリスタがサラを連れて治療院に辿り着いた時にはすでにそこは人で溢れかえっていた。
「開けてくれ! 息子の様子がおかしいんだ!」
「意識が戻らないんだ! 誰でもいいから医者を出してくれ!」
「おい! 開けろ! ふざけんなよ! こんな時に居留守使ってんじゃねえ!」
入り口の扉に押し寄せる人達。
どうやら治療院が機能していないらしい。
「何があったんだろう……」
「……予想だけど、医師の中にも倒れた人がいるんだと思う。全員がそうなってる訳でもないと思うけど……この混乱だ。自分の家族が心配になって逃げ帰ってもおかしくない」
「そんな……」
状況は非常にまずい。
こんな状況で治療院が役に立たないとなると、人々の不安感が更に助長されてしまう。混乱程度で済めばいいが、暴動なんかが起きると面倒だぞ。
「ど、どうしよう、クリストフ」
「…………」
クリスタと、ぐったりと体を預けるサラに視線を送る。
サラをこのままにはしておけない。これは絶対だ。
だから俺は一つの仮説を試したくて、
「クリスタ、サラをこっちへ」
「う、うん」
俺は外套を地面に置いて、その上にサラと男を並べて手をかざす。
(……病を癒せ──メテオラ)
白い光が空中を舞い、二人の体に吸い込まれていく。
これで治るのならいいのだが……
「……駄目か」
何となく予想はしていた。
二人の症状や、空に広がっているあの群青。
「……アダム」
不慮の事故なのか、意図的な人災なのか……奴に問い詰める必要がありそうだ。
「クリストフ?」
「……クリスタ、ここは任せていいか?」
「え? クリストフはどうするの?」
「俺は……やることが出来た」
詳しく説明している暇はない。
俺はクリスタにサラの体を預け、駆け出した。
「クリストフ!」
クリスタの声が聞こえるが、俺は振り向かない。
それどころではなかったから。
俺を突き動かす激情に、どうにかなってしまいそうだった。
(アダム……ッ)
駆ける途中に何人もの人間が倒れこんでいるのが見えた。
ついさっきまで、平和そのものだったというのに。
壊された日常。
そして、この現状を作り出した人間がいるとするならば、
「この落とし前は取ってもらわねえとな」
出来るかどうかは分からない。
俺は意識を沈めるようにメテオラに願いを込める。
(アダムの所へ俺を運んでくれ……メテオラ!)
具体的なイメージは定まっていない。
けれど、俺の願いに呼応するかのように白い光が周囲を包み、一気に視界が回転した。
「……ッ」
酷い乗り物酔いにでもあったかのような気分に陥りながら、俺はその場所に到達した。
まず最初に感じたのは風。
そして、足元の違和感。
「うおっ!?」
斜めの地面に慌てて体勢を立て直す。
危ねえ……もう少しで転がり落ちるところだった。
「おや? クリスさんではないですか」
「……アダム」
アダムもこちらに気付いたのか、ゆっくりと視線をこちらに向けてきた。傍らにはヴォイドの姿も確認できる。他には誰もいない。二人だけのようだ。
「……お前ら何でこんなところにいるんだよ」
ちらりと下を向くと、はるか遠くに地面が見える。落ちたら間違いなく死ぬ距離だ。何かの……恐らくは監視塔か何かの屋上、というか屋根の部分に二人はいた。
足場が不安定すぎるのを何とかしたいが……今はそれどころでもないか。
「都市の中で何人もの人間が異常を訴えだしている。率直に聞く、お前、何をした?」
「……一番乗りはクリスか、これは意外やね」
俺の問いに、言葉を返したのはアダムではなくヴォイドだった。
ヴォイドはいつもの飄々とした雰囲気を引っ込めて、どこまでも真面目な雰囲気をかもし出していた。
それほど長い間一緒に居たわけでもないが……こんなヴォイドは初めて見る。
「俺の問いに答えろよ」
「……ここに来たって事はそれなりの確証があって来たんじゃろ? だったらお前のするべきことは暢気なおしゃべりじゃないじゃろう」
「……ヴォイド?」
おかしい。
いくらなんでもヴォイドの雰囲気が違いすぎる気がする。
彼はここまで相手を挑発するような態度を取る人間だっただろうか。イラつかせるという意味では、いつも通りなのかもしれないが……今のヴォイドは、今までとはどうにも毛色が違うと言わざるを得ない。
「アダムを止めに来たんじゃろ? するべきことが分かっているなら……」
ヴォイドはゆっくりと体を揺らし、腰から一本の短刀を取り出した。
「力ずくで、やってみろ」
言うが早いか、ヴォイドが短刀を携えてこちらに駆け出してきた。
ヴォイドが襲い掛かってくる。
そんな予想外の展開に驚きながらも、何とか刀を抜き放って迎撃する。
キィン!
甲高い音が響いて、二本の武器が激突する。
駆け寄るように突撃したヴォイドの方に勢いがある分、押されてしまう。足元を擦らせながら後退せざるを得ないが……こんな足場の悪い場所だ。油断しているとあっと言う間に真っ逆さまだぞ。
「…………」
ヴォイドは無言で俺に攻勢を続ける。
ヴォイドが戦うところを見るのは初めてだ。
だから、こいつがどんな戦い方をするのか知らなかったのだが……どうにも変わっている戦い方という印象だ。
短刀という武器を逆手に構えて、一撃離脱のヒットアンドアウェイがヴォイドの基本戦略のようなのだが……その距離感のとり方が抜群に上手い。こちらが攻撃に出ようと一歩踏み出したときにはすでにこちらの攻撃圏から逃れている。
ひらりひらりとかわされているイメージ。
非常にやりにくい。
「ヴォイド!」
何とか話し合いにならないかと呼びかけるが、ヴォイドに止まる様子はない。それどころか益々攻撃に鋭さが増してきている。
ヴォイドの短刀が煌く。
首を真っ直ぐに狙ってきたその白刃をのけぞるようにしてかわす。
しかし、その回避方法は悪手だった。
「……ッ!」
ヴォイドの蹴りが俺の右膝を横合いから打つ。体重が後ろに傾いていた分、たまらず俺は転倒してしまうのだが……
(まずい……ッ!)
傾斜のキツイこの場所で、転ぶということがどういうことか。
俺は重力に引かれ、死の奈落へと転がり落ちる。
「うおおおおおおおッ!」
右手に握った刀を、屋根に突き刺して勢いを殺す。
肩が外れそうな衝撃に歯を食いしばって堪え続け、ようやく止まった時には屋根の端の端。後一歩で真っ逆さまという所まで来ていた。
危ない。
今のは本気で死ぬかと思ったぜ。
「……運が良かったのう」
「……ヴォイド」
俺を見下ろすように立つヴォイド。
こいつは……本気で俺を殺そうとしているのだ。
「なあヴォイド、何があったんだよ。お前はそんな好戦的な奴じゃないだろう」
俺の知っているヴォイドはいつも馬鹿なことを言ってクレハに怒られているお調子者だ。いつも、いつもそうだった。
ふざけた奴だとは思うが……それでも、コイツがいたから楽しく旅を出来たのも事実。
俺はそんなヴォイドのことが……嫌いではなかった。
なのに……
「答えろ、ヴォイド!」
「……代理戦争が始まる。『友達ごっこ』は、もう終わりなんよ。クリス……」
俺の名を呼んだヴォイドは一瞬だけ、その瞳に寂しそうな光を宿し、
「わしの目的の為に……死んでくれ」
右手を、振り下ろした。
「………………あ?」
鮮血が宙を舞う。
何をされたのか全く分からなかった。
ヴォイドが手を振り下ろした。それだけで……
──俺の右腕が、肩口から切断されていた。
「ぐ……ぁああぁあああああああああああああアアアアアアアアアアアアッッ!!」
激痛。
脳みそを針で突かれているかのような鮮烈で強烈な痛みが俺を刺激していた。
余りの痛みに涙が零れ落ちる。滲む視界の中で、俺の右腕が塔から落下していくのが見えた。
俺の……右腕。
咄嗟に手を伸ばそうとして……動かないことに気付く。
(ああ、そうか。俺の腕は……)
痛みで思考がまとまらない。
まずは血を止めないと……。
左手で傷口を押さえて何とか出血を止めようと試みるが、止め処なく流れる血は一向に止まる気配がない。
(これは、まずい……意識が……)
頭が重い。
一度に血を失いすぎたせいで意識が強制的に落ちようとしていた。
そんな状況だったからだろう。
俺はここがどこかということも忘れて、膝をついてしまった。
俺の血で濡れた屋根は非常に滑りやすくなっており、膝をついた衝撃でバランスを崩した俺は呆気なく、
──監視塔から、転がり落ちた。




