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設定上の矛盾がありまして、活動報告で言い訳をしております。
気になる方は今日2023/07/28の活動報告を確認いただけると幸いです。
ネイトの治療前、メリッサはジョッシュとローズに「帝国のピアニストになるにはどうしたらいいか知ってる?」と聞いてみた。治療前に言ったのは、ネイトの顔に手を添えることに緊張していたメリッサが、治療までの時間をなるべく引き延ばすためだ。
「私は帝国についてそこまで詳しくは知らないのですが、どんな人でも実力さえあれば宮廷音楽家になれるらしいと聞いたことがあります。それと、帝国の宮廷音楽家は皇帝の所有物で、殺されると殺人罪ではなく器物破損罪になるそうです。と言っても皇帝の持ち物を壊すことになるので、殺人罪と同じくらいの罪の重さらしいですがね」
ジョッシュは目を見開き驚いたあと、微妙にズレた知識を披露してくれた。ニコニコしながら殺人について忠告されたが、加害者と被害者どっち目線なのかしばし悩んだあとに今そこは関係ないと思い直す。
どんな人でもなれるということは外国人でも平民でもよいのだろうか。そして、皇帝の所有物にはどの程度の自由があるのだろうか。
「お嬢様!部屋に物を取りに行くので少し退出しますがよろしいですか?」
ローズに退出を許可すると、小走りで去っていく足音が聞こえ、しばらくして、息を切らしながら分厚い平袋を抱え戻ってきた。
「こちら、知り合いに頼んでリーブスで購入してもらった楽譜です。お嬢様が魔力を完璧に抑えることができるようになったお祝いにと用意していたのですが、昨晩はネイトに譲ったので今晩お渡ししようと思っていたのです」
リーブスというのは帝国と接しているロートンの隣の辺境伯領。メリッサは王都からロートンに来る馬車の中で帝国の楽譜の話をしていた。ローズはそれを覚えていて手に入れてくれたのだろう。
「何冊ですか?ローズさんに頼まれてリーブスまで行く男はたくさんいそうですからねぇ」
「8冊です!一人で2冊以上買ってきてくれた人もいるんです」
ローズはここロートンでは引く手数多なのだ。ジョッシュの問いかけに明るく返事するローズだが、結局何人の人が買いに行ってくれたのだろうか。
「7冊は楽譜なのですが、1冊は作曲家やピアニストを紹介する本だったんです。私はパラパラと眺めただけなので内容はわかってないのですが、少しは有益な情報があるといいのですが……」
そう言って本の入った平袋を渡してくれたローズ。
「ローズ、ありがとう」
脳震盪を起こしても家族が見舞いに来ない中で頭を撫でてくれて、王都から馬車で3日もかかるロートンまで一緒に来てくれた。私がジョンストン公爵家を出る時は、絶対にローズが咎められないようにしないといけない。メリッサは目の裏がじんわりと熱くなるのを感じながら、心の中で堅く決意した。
4人でローズが持って来た本を見る。タイトルは「近代テルフォート宮廷音楽家」で、テルフォートとは帝国の国名だ。
——宮廷音楽家とは、皇帝の楽しみや様々な宴席のためにテルフォート宮殿に仕える、音楽家の最高位である。
宮廷音楽家についてはそんな簡単な一言しか見当たらなかった。音楽家達を一人1頁で紹介している本で、ピアニストだけでなく、作曲家、指揮者、バイオリニスト、トランペッターなど様々な職種があり、中には聞いたこともない楽器の演者までいた。
「この“テルフォート国際音楽コンクール”が怪しいですね」
人物紹介は簡単な経歴も記されていて、ジョッシュのこの一言で「テルフォート国際音楽コンクールでアポロン賞受賞」という記載に気づく。アポロンはテルフォート帝国出身で帝国外でも音楽の父と言われている偉大な作曲家の名前。家名の記載がなかったり、名前の響きが明らかに帝国以外の出身だとわかる人物は必ずこのアポロン賞を受賞している。
ジョッシュとローズのこの友好的な反応に安心したメリッサは思い切って二人に告げてみる。
「私、ジョンストン公爵家を出て帝国のピアニストになりたいの」
昨晩ネイトに説明したようにどうして自国のピアニストではなく帝国なのかの理由も、真剣な目でこちらを見ている二人に伝えた。
「ジョッシュさん、私、ジョンストン公爵家を辞めようと思います。紹介状なしでもここで雇ってもらえませんか?」
私の説明を聞くなり、ローズがジョッシュに頼む。このロートン領主館はジョンストン公爵家の領地だが、ジョンストン公爵家と直接契約しているのはジョッシュとその息子だけで、他の使用人はジョッシュが雇用主なのだ。
「その判断はまだ早いですよ。でも、それが必要になったらもちろん雇わせていただきます。最悪は結婚して家名を変えて雇えばバレないでしょう。ローズさんなら3日もあれば家名を変えられますね」
公爵家の侍女と田舎町の領主館の侍女とでは給料の面でも、世間体も、比べ物にならないのだが、ローズはそれで良いのだろうか。
「もちろんです。今のままでは、私はジョンストン公爵家の方に何か問われたら答えないわけにはいかない立場です。私はお嬢様がピアニストになるためなら公爵家を辞めても構わないというのを知って欲しかったのです。……それに、お嬢様が憂いなく過ごせると安心できたら、公爵家を辞めてこのロートンで永住しようかと考えてました。お嬢様から必要ないと言われるまではどこまでも着いていくつもりでしたが、最後にはこの綺麗な湖畔に戻ってこようと思っていたのです」
公爵家にいる時からローズはメリッサが聞いたことはたとえメリッサが傷つくことでも変に隠すことなく答えてくれていた。ロートンへ来てからローズとの会話が増え、ローズの優しさを知り、あれは職務を全うしていたからで、メリッサが問いかけなければ悲しい事実は言わなかったのだろうなと気づいた。そんな真面目なローズだからこそ、メリッサの出奔を手伝うなら公爵家を辞めようと思うのだろう。
ローズの真剣な言葉に、相談する前、少しでもローズのことを疑ってしまった自分が恥ずかしくなる。
「お嬢様、ネイト、ローズさん、このことは私たち4人の秘密です。絶対に他の使用人にも誰にも知られてはいけません。それは他の使用人を疑っているからではなく、使用人達に罪を負わせないためです。誰かの手を借りないといけない時は必ずこの4人で相談してからにしましょう。まぁ、秘密というのは必死に隠してても思わぬところから漏れ出るものなので、気負わずに気楽にいきましょう」
こうしてジョッシュとローズがメリッサが帝国のピアニストになることを手助けしてくれることになった。
ジョッシュの言葉の後、ずっと黙っていたネイトが口を開いた。
「俺の叔母はリーブスの辺境伯家で働いてます。もう6年会ってませんが、母の手紙で俺がケーキ屋を手伝っているのを聞いて帝国のお菓子の本を送ってくれたことがあります。もしかしたら、帝国の宮廷音楽家になるための情報を聞けるかもしれません」
ロートンに来るまでの過去について絶対に明かさなかったネイト。そんなネイトがメリッサのために自分の背景を話したことで、ジョッシュとローズはネイトのメリッサへの気持ちを察した。
「では、その叔母さんに手紙を書きましょうか。そうですね、とってもピアノが上手なネイトの大切な友達が宮廷音楽家になりたいと言っているという内容にしましょう」
ジョッシュのその言葉にネイトが口元を歪めている。ネイトは不安に思っているのだとメリッサにはわかった。
「叔母は母の妹なんですが、1年半前に母が亡くなったことを伝えていないんです。しかも行方をくらましていた俺に、素直に協力して貰えるかはわかりません。……唯一の家族の母を火事で亡くし、子供一人では家賃を払えなくなるからと家を追い出されたので、ケーキ屋の主人に迷惑をかけるよりはリーブスにいる叔母の元に行こうと思ったんです。リーブスを目指した旅の途中で治療してない火傷のせいで倒れてしまったら、目を覚ますとロートンの孤児院にいました。それからは、叔母に母のことをどう言ったらいいか整理もついてないし、火傷でペンも握れないしと後回しにしていたら、時間が空いてしまうとどんどんどう言っていいかわからなくなって、ペンが握れるようになっても叔母に連絡することができなくなって、そのままここで甘えてしまってました」
「そのことをそのまま書いたらいいんです。きっと叔母さんはネイトのお母さんからの手紙がなくなったことを心配しているはずです。ネイトのお母さんだって叔母さんが弔ってくれるのを待ってますよ。ほらっ!子供は余計なことを考えない!もしも叔母さんからひどいことを言われたら私がヨシヨシしてあげますから」
「っいらない!」
ひどい火傷を負った子供が一人ぼっちで住んでいた家を追い出されるなんて、どんなに不安だったのだろう。メリッサは父に捨てられたのだと嘆いていたが、なに不自由なくローズと一緒に馬車でロートンまで来た。自分の不幸など、ネイトに比べたら不幸のうちに入らないのではないかとさえ思える。
母親について叔母に言い辛い何か事情があるようだが、これまで通りネイトが話してくれるのをメリッサは待つことにする。メリッサへ言う必要がないのならそのままでも構わない。
「とりあえず、ネイトは叔母さんにお手紙を書く。そして私はお嬢様が魔力操作を覚えて魔力が漏れ出なくなった事をジョンストン公爵家へ報告するのは延期しましょう。どうなるかわかりませんからね」
「そのことなんですが、お嬢様が気づいていないので悲しませたくなくて言わなかったのですが、魔力が漏れ出なくなったと報告されても王都に戻されることはないと思います。アメリア様がお嬢様が王都に戻ってくるために魔力操作の訓練をするとは思えません。……完璧な魔力操作ができないと魔法学園を卒業できないので、大半の生徒が卒業間近に焦って訓練します。私の学生時代も高位貴族で魔力量が多い方ほど苦労されてましたので、将来的に無駄にならないことだからと黙っていました。……申し訳ございません」
メリッサだけが魔力操作が完璧になっても意味がないのだと気づいていなかった自分に呆れる。こんなことだから簡単にアメリアに陥れられたのだろうし、つくづく自分は貴族に向いていないのだと思ったが、公爵家にいた頃と違い落ち込むことはない。欠点だからといって必要以上に悲観する必要はないのだ。
「そっか。そうだよね。気づかなくてローズに気遣わせてごめんね」
「いえっ黙っていた私が悪いのです。それと、もう一つ懸念事項があります。お嬢様の髪の根元、新しく生えている部分から金色に変わってきています。私の同級生で髪色が変わった人は貴族学園の入学と卒業ですっかり髪色が違いましたので、お嬢様も3年程で金髪になると思います。そうなるとジョンストン公爵はお嬢様の出奔は絶対に許さないと思います」
稀に成長すると髪色が変わる人がいることは知識として知っていたが、自分がそうなるとは思っていなかった。メリッサが鏡で見る分には根元が金色になっているなどわからないが、侍女としてメリッサの身支度をしているローズだからこそ早くに気づけたのだろう。
「ロートン湖に素足を浸けるほどの行動的なヴァネッサ様とは雰囲気が違うので一見わかり辛いですが、よく見るとヴァネッサ様とお嬢様は目や鼻の形がそっくりだとわかります。きっと数年もしたらヴァネッサ様に似た素敵なレディーになりますよ。……ヴァネッサ様のあの周りを照らすような明るさには赤い眼が似合っていましたが、穏やかなロートン湖の波のような優しい雰囲気のお嬢様にはその青い目がぴったりだと私は思います」
人の良い笑顔で恥ずかしげもなく褒めるジョッシュを見て、若い頃は相当モテたのだろうなとメリッサだけでなくローズやネイトまで思った。
「ジョンストン公爵はヴァネッサ様しか見ていません。ヴァネッサ様にだけ執着して、他の人のことはお子様方のことでさえ関心が薄い方です。アメリア様は確かにヴァネッサ様と髪色と瞳の色が同じですが、顔つきは全く違います。それでもジョンストン公爵がアメリア様をヴァネッサ様の代わりに執着してしまうのは、ここぞという時の言葉の選び方、立ち居振る舞いなど、言語化が難しいのですが、表面的な雰囲気といいますか、空気感が似ています。アメリア様はジョンストン公爵が切望してるヴァネッサ様像を理解して演じてあげているように感じるんです。それは、あのお茶会で私がアメリア様の悪意に気づくまでわからなかったくらい巧みです。今のジョンストン公爵はヴァネッサ様の代わりとしてアメリア様に執着していますが、もしもアメリア様がそれを嫌になったら、きっと演技をやめてヴァネッサ様そっくりに育ったお嬢様を公爵に差し出すと思うのです」
ローズは父のこともアメリアのこともよく見ていたのだなとメリッサは感心する。あの時祖母ではなくローズへ相談していたら何か違ったのだろうかと思ったが、ロートンとは真逆の寒々とした公爵家の空気に押し潰されていた二人では、今と変わらずアメリアを恐れて敵前逃亡していた姿しか思い浮かばなかった。
「公爵からの愛を求めていたお嬢様ならそれで良かったのですが、帝国でピアニストになるのならば、アメリア様にもジョンストン公爵にもお嬢様の姿を見せてはいけません」
メリッサは足元から冷たい蛇が這って上がってくるような悪寒に思わず震えた。




