第30話 未来に向かって
秋野市に雪が降った。
アスファルトの上には積もらなかったけど、山や畑は薄っすらと白くなった。
期末テストの途中、クリスマス前のとある平日の事だった。
季節は移ろう。
テレビや繁華街はクリスマスと年末の話題一色になりつつあったし、学校の中では、気の早い事に期末テストの次にやって来る冬休みについての話題が多くなっていた。
文化祭の後、どこかふわふわとした雰囲気が続いていた私たちのクラスにも、容赦無く期末テスト期間はやって来た。みんな不意打ちを食らったみたいに慌てて、一時クラスの中はピリピリとした雰囲気に覆われてしまっていた。
莉乃なんか、口を開けばヤバイヤバイしか言っていなかったと思う。
でもそんな期末テストももう終わりが近く、みんなの関心は早くも冬休みへと移ろうとしているのだ。
クリスマスが終わって冬休みに入れば、色々あった今年も直ぐ終わりになってしまう。
そう。
本当に今年は、沢山の事があった。
……でも。
時間が経って暦はどんどん進んでも、はるかは、未だ眠り続けたままだった。
秋野市で雪が降った数日後。
期末テストの最終日を終えた私が下校した足でそのまま訪れてみると、秘密の庭にも雪が積もっていた。
枯蔦のアーチを抜けた先に広がっていたのは、一面の銀世界。
シンと冷えて澄んだ空気には、微かに雪の匂いが混じっていた。
もうすっかり見慣れてしまった冬の色あせた庭園が雪の白に塗り潰されていると、何だかそれだけで、一瞬違う場所に来てしまったのかと思ってしまう。
夏は色味の違う鮮やかな緑、秋は紅葉の赤黄に彩られていたアミリアさんの秘密の庭が、今度は静かなモノトーンの中に沈んでいる。
外と違ってあまり厳しい寒さを感じる事のなかった秘密の庭だけど、やっぱり季節は冬なのだ。
私は、学校指定のコートの襟を合わせて、ふっと白い息を吐いた。
……はるか、温かくしているだろうか。
お腹を出して、風邪なんてひいていないだろうか。
遼ならお腹だしの図も想像出来るけど、はるかだと思い浮かべられない。中身は同じだというのに、不思議なものだ。
そんなどうでもいい事を考えながら、私は真っ白な秘密の庭の中を進む。
石畳の小径や庭園を貫く中央路は綺麗に除雪されていたので、学校の革靴でも歩くのに支障はない。
この雪かきは誰が行なったのだろう。まさかアミリアさんではないだろうし、未だに会った事のないお手伝いさんだろうか。
生垣の上や東屋の屋根の上の雪を見ると、そんなに沢山積もっているという訳ではなかったが。
周囲の雪景には、足跡は一つもなかった。
人はもちろん、鳥とか他の動物の分もだ。
私がわざと小径をそれて足を踏み入れた芝生の上に、唯一、白銀の世界の傷跡みたいな足跡が残っていた。
こんなに立派な庭とお屋敷なのに、改めて人がいないんだなと実感してしまう。
外なら、道路の近くの雪は踏まれたり押しやられたりして直ぐにぐちゃぐちゃになり、真っ新な面はもれなく小学生の餌食になってしまうものなのに。
音も全て雪に埋もれてしまったかの様な静かな庭の中を、私は1人、奥へ奥へと向かって歩いて行く。
今の私は、1人きりだった。
駿太はいない。
駿太も、毎日欠かさずはるかのもとにはやって来ている。ただ今日は、少し用事があるみたいで、一旦家に帰ってからこちらへ来る事になっていた。
はるかが眠ったままになってしまってから、もう随分経つ。
私も駿太もずっとはるかの側にいたいとは思っているけれど、あまり無理はしない様にしていた。
変にお父さんやお母さんに心配を掛け、秘密の庭に来られなくなってしまっては、本末転倒だから。
だんだんとお屋敷が見えて来る。
……今度こそ私は、はるかの側を離れない。
雪化粧が施されたお屋敷を見上げて、私はぐっと拳を握り締める。
日置山で遼があの怪鳥に襲われて意識不明になった時、私はそのあまりにも巨大な絶望感に耐えきれず、意識不明で入院していた遼から逃げる様にお見舞いに行くのを止めてしまった。
私は、遼を見捨ててしまったのだ。
色々言い訳は浮かんで来るけれど、そんなものは、自分でも腹が立つくらいの逃げでしかない。
それでも遼は、はるかとなって私たちのもとに戻って来てくれた。
だったら今度こそ、私は遼を、はるかを信じて待たなければならないのだと思う。
お屋敷に入ると、私はほうっと深く息を吐く。そして、コートを脱いで手に掛けた。
寒い所から暖かい所に入ると、頬がそわそわする。
アミリアさんのお屋敷は凄く広いのに、きちんと暖房が効いていた。エアコンなんて見当たらないから、どういう仕組みで暖かくなっているのかはわからないけれど。
私は、真っ直ぐはるかの部屋へと向かう。
ノックしてから部屋に入ると、そこには昨日私と駿太が帰った時と寸分違わぬ光景があった。
……まるで、昨日からずっと空間が凍り付いてしまったかのように。
もしかして今日は、はるかが目覚めているんじゃないかという淡い期待は呆気なく潰えてしまう。
私は僅かに目を伏せ、そのままカバンとコートを置くと、はるかのベッドへと向かった。
ふかふかと気持ち良さそうなクッションに埋もれる様にして横たわる白銀の髪の少女は、穏やかな寝息を立てていた。
私はそっと手を伸ばし、手の甲の部分ではるかの頰に触れてみる。
……温かい。
確かにはるかはここにいる。
胸がキュっと締め付けられて、熱いものが込み上げて来る。
私が見つめている今この瞬間に、はるかがパチリとその大きな目を開けてくれたなら、おはようと言ってくれたならどんなにほっと出来るだろう。どんなに嬉しいだろう。
今の私が望むのは、本当にそれだけの事なのだけれど……。
涙が滲まない様に、私は一旦はるかから視線を外した。そして深くゆっくりと息を吐くと、再び横目でベッドを見下ろす。
……えい。
私は、指先でむにっとはるかの頰を突っつく。
「……さっさと起きろ」
掠れた声でぼそりと呟きながら、つんつんを続ける。
何をされても、はるかは眠り続けている。
まったく呑気なものだ。
少し腹立たしくなってしまうくらいに……。
しばらくはるかを弄って満足した私は、ベッドから離れてカバンのところまで戻る。今日はこの後、ソファーに陣取って文庫本でも読もうと思っていた。
昨日までは、翌日のテストがあったので、ここに来てもずっと勉強漬けだったし。
駿太が来るまでははるかと2人っきりだ。悩みの種や不安要素は山ほどあるけれど、1人で沈み込んでいても答えは出ない。ならば、テストが終わった今日くらいは気楽に過ごそうと思う。
はるかなら、私や駿太が神妙に大人しく過ごしているよりも、楽しく騒いでいる方が良いと言うに決まっているし。
「えっとその前に……」
カバンを漁っていた私は、髪を揺らして顔を上げる。
落ち着く前にトイレに行っておこうかな……。
私はベッドの方を一瞥してから、とととっと小走りではるかの部屋を出た。
パタパタと制服のスカートを揺らしながらトイレとはるかの部屋を往復する私は、その途中でふとアミリアさんを探してみようと思い立つ。
今までも時々、私はこのお屋敷にいる間、アミリアさんを探して歩いていた。
はるかの今の状態やあの文化祭の夜の不穏な発言について、色々思い悩むよりもアミリアさん本人に尋ねてみるのが一番だと思うから。
でもあの日から今まで、未だアミリアさんに会う事が出来ていなかった。
自分を人形だと嘯くあの人は、不意にふらりと現れるくせに、こちらが会いたい時にはまったく出会う事が出来ないのだ。
いつも説明足らずで、言っている事も何だか難しくていまいちわからないし……。
そう考えていると、何だか胸がムカムカとして来た。
……まったく。
私は、大股でせかせかと二階の奥にあるアミリアさんの書斎へと向かった。
アミリアさんは、遼をはるかとして助けてくれた大恩人だ。腹を立てるのは良くないとは思うけれど……。
長いお屋敷の廊下は、綺麗な内装や貴重そうな調度品に彩られている。しかし、どんなに立派な飾り付けが行われていても、人気が全くないと、やはり少し不気味に思えてしまう。
私はむぎゅっと唇を引き結び、少しそわそわとしして小走りになりながらも、二階の1番奥の書斎に辿り着いた。
ノックをして中を覗いてみるが、やはり誰もいない。
ふっと古い紙の香りがする。
冬の夕方の弱い光が射し込む室内には、シルエットになった本の山がそびえているだけだった。
私はふうっと深く息を吐いて、書斎の扉を閉めた。
次に、一階の食堂ホールにも行ってみることにする。前にそこで、アミリアさんがお茶しているのを見かけた事があったから。
とととっ階段を駆け下り、二階と同じ作りの廊下を進んで、テーブルが沢山並んだレストランみたいなホールへと入る。
そこで私は、ドキリとして固まってしまった。
どうせここにもいないだろう思っていた黒のドレス姿が、そこにあったのだ。
食堂ホールの片隅。丸テーブルの1つに陣取ったアミリアさんは、こちらに背を向けていた。
テーブルの上には、優美な曲線を描く白磁のティーセットが載っている。
手元に目を落としている様いに見えるが、どうやらアミリアさんは、お茶しながらの読書しているみたいだ。
不意の遭遇だったので、私はその後ろ姿を見て一瞬戸惑ってしまう。しかし直ぐにぎゅっと手を握り締め、アミリアさんのテーブルへと向かった。
これは、千載一遇のチャンスだ。
この機会を逃すわけにはいかない。
はるかのこと、きちんと確かめなければ……。
「アミリアさん、少しお話、いいですか?」
私はアミリアさんの傍に立つと、意を決して声を掛けた。
アミリアさんが顔を上げる。人形の様な無表情の、しかし恐ろしく整った顔が私の方を向く。
アッシュブロンドの髪を細く編み込み結い上げて、漆黒のアンティークなドレスを身にまとったその姿は、今まで出会った時と寸分違わぬ様に見えた。
そのガラス玉みたいに澄んだ瞳に捉えらると、思わず吸い込まれそうになってしまう。
……でも、ここで気圧される訳にはいかない!
私は目を逸らす事なく、キッとアミリアさんを見返した。
「やぁ、ナナコ。どうぞ、座るといい」
アミリアさんは本を閉じテーブルに置くと、対面の席を勧めてくれた。アミリアさんの本には、アルファベットとも違う見た事のない文字が並んでいた。
私はスカートを折って、猫足のアンティークな椅子に腰掛ける。
「君にもお茶を用意させよう」
平板な声でアミリアさんがそう言ってくれたけど、私は即座に首を振った。
「あ、いえ、大丈夫です! その、ありがとうございます……」
今は、ゆっくりとお茶したい訳ではない。
揃えた太ももの上に手を揃えて置いた私は、じっとアミリアさんを見つめる。
いや、睨み付けているというのが正確だろうか。
それくらい気を強く持たないと、目の前の女の人の不思議な雰囲気に呑まれてしまって、また聞きたい事が尋ねられなくなってしまうと思ったから。
「ここしばらくは毎日ハルカに付き添っている様だね」
「あ、はい、一応……」
しかし先に話し掛けて来たのは、アミリアさんの方だった。
「君たちの関係は、私の想像よりもはるかに深い様だな」
アミリアさんはそういうと、白に青の羽模様が入ったティーカップを口に運ぶ。
「あの、そのはるかの事なんですけど……!」
私は、思い切って前へと身を乗り出す。体がテーブルに当たってしまい、がたりと鳴ってしまった。
「はるか、あの文化祭の日からずっと眠りっぱなしです! 髪の色も変わっちゃって、本当に大丈夫なんでしょうか?」
文化祭のあの夜。
アミリアさんは、はるかが意識を失ったのは、花結びの組紐を操る能力を得た為に、はるかの体がその力に順応しようとしているのだと教えてくれた。
はるかの身に、何か不思議な事が起こっている。
それはわかる。
でも、それにしても、眠っている時間が長すぎるのではないだろうか。
アミリアさんは私を見据え、無表情のままで小さく頷いた。
「以前も話した通り、ハルカの中では魔素を操るに相応しいように、体の準備が行われているのだ。問題はない。次に目覚めた時、ハルカはハルカとしての自分を受け入れ、境界の管理者に相応しい能力を得ているだろう」
淀みなく淡々と話すアミリアさん。
私は眉をひそめてアミリアさんの話を理解しようと努める。
難しいからとか信じられないからと聞き流したり曖昧な理解で放置したら、何もわからなくなってしまう。それこそ、今までみたいに。
私は、はるかの事をもっと知りたい。
力になりたいのだ。
「……大丈夫、なんですね」
私は念押しのため、もう一度尋ねる。
アミリアさんは、こくりと頷いた。
「生命活動という意味では問題ない。しかし、ハルカを覚醒に導いた君やシュンタには辛い事かもしれないが……」
アミリアさんは相変わらず感情の窺えない平板な調子で話していたが、そこで僅かに言葉を切り、間を空けた。
「目覚めたハルカは、もしかしたら君たちの知っているハルカではないかもしれない。私の時と同じ様に、な」
アミリアさんはそこで、微かに口元を歪めた。まるで、自嘲している様に。
「……えっ?」
私は、アミリアさんのその言葉が理解出来ず、きょとんとしてしまう。
私たちの知っているはるかではない……?
「そ、それはどういう事、なんですか?」
とりあえず私は、それだけを辛うじて絞り出す。
「五位の火の鳥に襲われ、ハルカとなった時点で、彼女は君たちの世界の存在ではなくなった。本来であれば、私はあれに新しい体を与えてあるべき世界に送り届けなければならなかった。それが境界の管理者の仕事の1つだ」
アミリアさんは私の動揺などお構いなしに、視界も体も微塵も動かす事なく淡々と話を続ける。
「しかしハルカは、体を失ってなお、元の魂の在り方を保っていた。容姿や性別まで変化してしまっても、なお自分であり続けた。それは、普通の事ではない。人という知性を持つ存在であっても、自己を規定するためには、外面的な物の作用を無視する事は出来ないからだ」
私は眉をひそめる。
はるかの中身が遼のままであった事。
それは、私や駿太にとってもとても大事な事だった。それがなければ、外見的には遼と何1つ共通項のないはるかの本当に、私たちは気がつく事が出来なかっただろうから……。
「だからこそ私は、ハルカを我が後継者の候補としたのだ。その魂の強靭さには、見るべきものがあると、な。今になって思えば……」
そこでアミリアさんは、僅かに目を細め、口元を歪めた。
気がつくのに少し遅れてしまう程の微妙な変化だけれど、私はこれまでの経験から、それがアミリアさんの笑みなのだという事がわかっていた。
「その強さの源とは、ハルカとナナコ、君たちの絆の強さだったという事がよくわかる」
アミリアさんの言葉に、私はドキリとしてしまう。そしてしばらく間をおいてから、胸がふわりと暖かくなった。
遼が戻って来てくれた。その事に少しでも私、いや、私や駿太が寄与出来ていたならば、こんなに嬉しい事はない。
……日置山で遼だけに全てを押し付けてしまった事への贖罪、という訳ではないのだけれど。
「最終的には、その絆の力により、ハルカの覚醒は成った。ナナコとシュンタ、君たちのおかげだ」
アミリアさんは、こくりと小さく頷く。
「いえ、私たちは何も……」
私は、直ぐに小さく首を振った。
あの文化祭の夜に、はるかは組紐の花結びを操れる様になった。同時に髪の色も変わってしまって……。
でもあの時、私は何も出来なかった。
駿太は、必死に戦っていたけれど……。
「何を成したではない。君たちの存在が、ハルカの力となったのだ」
アミリアさんはお茶を一口飲むと、ゆっくりとカップをソーサーの上に戻した。
「ナナコやシュンタを守る、助けるという思いが、あれに魔素を操る決断をさせたのだろう。私が忠告した通り、ハルカが力を得るには、君たちと一緒にいる事が必須の条件であったという訳だ」
私たちを守る為に……。
私は、きゅっと握り締めた手を胸に当てた。
やっぱり私たちは、遼に、はるかに守られてばかりなのだ。
前からずっと、ずっと……。
「その絆が力の源であると同時に、ハルカの枷でもあったのだから、皮肉なものだな」
俯いて眉をひそめ、はるかの事を思っていた私は、アミリアさんの言葉を聞いて顔を上げる。
「……枷、ですか?」
「そうだ」
アミリアさんが頷く。
「魔素の力を受け入れるという事は、ナナコたちの世界とは別の世界に属するハルカとしての自分を受け入れる事になる。元の世界、ナナコたちと繋がっていたいという思いを糧にして来たハルカにとっては、それは受け入れ難い事だったのだろう。だからハルカは、決断をするあの瞬間まで、魔素を行使する事が出来なかったのだ」
私は、はっと息を呑む。
花結びを操る訓練に消極的だったはるか。
アミリアさんの弟子になる事を諦める様な態度を見せていたはるか。
女の子の姿をしていても、昔のままの態度や行動を保とうとしていたはるか。
ああ……。
それは、私たちと一緒にいたいが為。
自分が宮下遼であり続ける為には必要な事だった、ということなのか。
私は目を見開き、天井を振り仰ぐ。
それなのに私は……。
胸の奥から熱いものが込み上げて来る。
我慢する事も押さえつける事も出来ず、ポロリと涙が一粒こぼれ落ちた。
はるかは、常に戦っていたのだ。
自分が置かれている状況とその思いの矛盾に。
……そうだ。
遼が、私や駿太と一緒にいる事を諦める筈がない。でもその為にアミリアさんの課題をこなす事は、今までの自分を捨てる事になるから……。
私は、ばっと涙を拭ってアミリアさんを見た。
「でも、はるかが魔法の力を使ったらどうなるんですか? 私たちの知っているはるかではなくなってしまうって、どういう意味ですか? これでアミリアさんの弟子になれたら、また私たちと一緒にいられるって、だから私は、はるかに花結びの練習をするようにって言って来たのに……!」
あの文化祭の夜、アミリアさんは私たちにはるかとのお別れを示唆する様な事を口にした。
アミリアさんの弟子になってもはるかが遠くに行ってしまうなら、もう会えなくなるのなら、今までの事が全て無意味になってしまう。いや、傍にいても、今のはるかが変わってしまうというのなら……。
はるかの心を無視して、今までのアミリアさんの弟子になる事を目指すよう煩く言って来たというのに、それが間違いだなんて、そんな事……!
「推測で語るのはあまり好ましくはないのだが、いいだろう。ナナコが望むのなら、これからの事を話そう」
アミリアさんは、くりくりと大きな瞳で真っ直ぐに私を見つめる。
私もぐっと奥歯を噛み締めて唇を引き結ぶと、その視線を正面から受け止めた。
「魂の在り方は、その者の歩んで来た人生に大きな影響を受けるものだ。自身の行動だけでなく、周囲の存在やコミュニティの影響が色濃く現れる。総じてそれらは、その個を作り上げる為の記憶や経験と称されるものとなる」
抽象的な話だ。
思わず私は、きゅっと眉をひそめてしまう。
……今聞きたいのは、はるかの事なのに。
「魔素を操る事を受け入れたハルカは、旧来の自分ではなく、新たなハルカとしての自分になる事を受け入れた。つまり、自身が新たな魂の形に変化するのを認めたという事だ。そうなれば、従来の彼女を形作っていた記憶や経験というものからは切り離される事になる」
アミリアさんが、何かを思い出している様な遠くを見つめる目をする。
しかし私には、アミリアさんの様子に気を配る余裕がなくなっていた。
トクンと胸がなる。
嫌な予感に、全身が小さく震える。
「文字通りハルカとなった彼女には、旧来の、君の友人であった頃の記憶がない可能性がある」
アミリアさんの静かな宣告が響く。
記憶が……ない?
はるかが……遼が、私の事を忘れてしまう?
わからなくなってしまう?
駿太の事とか家族の事とか、これまで一緒に過ごして来た時間を……?
背筋を冷たいものが伝い落ちる。
絶望感、いや恐怖で、目の前が真っ暗になってしまう様な気がした。
……嫌だ。
「そんなの嫌……」
思わず私は、感じた事をそのまま口にしてしまう。
はるかが私の事を忘れてしまう。
それは、再び遼を失ってしまう事と同じだ。
そんな事、受け入れられる筈がない……!
もう、耐えられる筈がない!
私は、ふるふると首を振る。
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
こうなる事がわかっていたから、はるかは文化祭のあの夜まで、力を使おうとしなかったのだ。
それなのに私は、なんて事を……。
ガタリと音を立てて椅子を押しのけ、私は立ち上がる。
今すぐはるかの元に行きたかったかった。行って謝って、ぎゅっとはるかを抱き締めたかった。
「落ち着け、ナナコ」
ばっと駆け出そうとした私を、平板なアミリアさんの声が引き止める。
「これは、あくまでも可能性の話だ。先にも言った通り、ハルカは五位の火の鳥に喰われても自分を保つ事が出来る強い魂を持っている。何があっても君たちの事は忘れない。そんな奇跡もあるいは起こるかもしれない」
アミリアさんは、上目遣いに私を見据える。
私は涙を零しながらアミリアさんの無表情な顔を見てしまう。
激情の波が通り過ぎる。
悲しくて辛い気持ちはそのままだったけれど、少しだけ冷静に思考する余裕が戻って来た。
……可能性の話。
確かにアミリアさんはそう言った。
しかしその内容があまりに衝撃的だったので、私は押し寄せる感情に流されてしまいそうになったのだ。
アミリアさんの言う通りになる可能性だってある。
はるかなら……。
私は再び椅子に座る事もはるかの元に向かう事も出来ず、テーブルの前で立ち尽くした中途半端な姿勢のまま、アミリアさんをじっと見る事しか出来なかった。
「しかし、ハルカが君たちの記憶を保持していたとしても、別れはやって来る。その心算はしておいた方がいい」
アミリアさんはそんな私から視線を外し、中身のほとんど無くなったティーカップを見た。
私は、ぎゅむっと唇を噛み締める。
……そう、その別れというのもどういう事なのだろう。
あの文化祭の夜にも聞いた、その言葉。
大きなリスクを負ってまで魔法の力を行使したというのに、それでもはるかとお別れしなければならないというのは、どういう事なのだろうか。
私は涙を拭ってアミリアさんに向き直った。
「……アミリアさんの弟子になれたら、はるかはまた私たちと一緒にいられるって、そういう話じゃなかったですか?」
そう尋ねる私の口調は、どうしても刺々しくなってしまう。
アミリアさんは、しかしそんな私の怒気を受けても少しも変わらず、平然としていた。
「我が弟子となり境界の管理者となる事は、君たちとハルカが接点を持ち続ける事が出来る唯一の方法だ。それは間違いない。管理者にならず異世界に送還されれば、君たちは2度と会えない」
「だったら、お別れって……!」
「しかし境界の管理者とその住まう境界の庭園が、常に君たちの世界に繋がっているとは限らない」
アミリアさんはそう言うと目を伏せた。
「境界の管理者には、個を起点とした過去や未来は関係ない。境界の管理者とは、文字通り人類の歴史を超え、世界と世界が干渉し、対消滅するのを防ぐ事を使命とする世界の合間にある者。その合間を管理する者だのだ」
アミリアさんは顔を上げて、私を見た。そして僅かに目を細めた。
「ハルカには、その果てない使命の旅へと出てもらう事になる。ハルカはこれより、幾つもの世界の幾つもの時間の合間を行きかう事になるだろう。彼女がまたナナコの時代にやって来る事はあるかもしれない。その可能性はある。しかしそれは、可能性でしかない。ならば、旅立ちの前に別れは済ませておいた方が良い」
静かにそう告げたアミリアさんの声は、不思議とどこか優しげだった。
アミリアさんの説明は、難しくて直ぐに全てを理解する事は出来なかった。
でも、はるかが常に私たちの側にいてくれる。そんな生活がもう終わりになるのだという事は、何となくわかってしまった。
永遠の別れではなく、お互いそれぞれの道を行くための、前向きなお別れ。それを、きちんと済ませておきなさいという事、なのだろう。
ぎゅっと爪が食い込む程強く握りしめていた手を、私はそっと開いた。
……ああ、そうか。
私や駿太とはるかの道は、別れてしまった。
多分、そういう事なのだと思う。
先ほどまでの強い否定の気持ちはなくなり、不思議とそう理解する事が出来た。納得は、まだまだ出来なかったけれど……。
将来。
未だ茫洋として先の見えないこれからの私たちの人生において、その道はまた接する事があるかもしれない。
でもそれは、今に立つ私たちにはわからない事。
だから、アミリアさんは今の内にお別れをしておくようにと言ってくれた。
それは、アミリアさんの優しさから来る忠告なのだ。
もちろん、はるかと離れ離れになるのは嫌だ。
私の事を忘れて欲しくない。
でも、私たちの関係は既に大きく変わってしまっていた。そう、決まってしまっていたのだ。
多分、日置山であの怪鳥と遭遇してしまったあの瞬間から……。
「……ありがとうございました」
私はアミリアさんに頭を下げると、はるかの眠る部屋へと戻る事にした。
不思議と先程みたいに涙が溢れてくる事は無かった。
アミリアさんの話を全て理解出来た訳ではない。でもそれでも、先ほどまであった得体の知れない不安感はなくなっていた。
今私を包み込んでいるのは、ただぽっかりと胸に穴が開いてしまった様な喪失感とこの先の未来に対する戸惑いだけだった。
それらが、静かに私の中を満たしている。
はるかは、いつ目を覚ますのだろう。
はるかは、私たちの事を覚えているだろうか。
そしてはるかと私は、本当にお別れ出来るのだろうか。
嫌だと叫ぶのは簡単だった。
でも、叫ぶだけではダメなのだ。
それでは、今までみたいにはるかを、私たち自身を苦しめるだけだ。
食堂ホールを出てはるかの部屋に向かう途中で、一階のエントランスを横切る。
そこで私は、タイミングよくお屋敷に入って来る駿太と出くわした。
「おう、奈々子。早いな」
一旦帰宅した筈なのに、制服にマフラーを巻いたいつもの通学スタイルのままの駿太が、私に向かってひょいっと手を上げた。
「……遅いよ、駿太」
その普段と変わらない駿太の様子に、私はほっと安堵の息を吐いてしまう。
「……どうした、奈々子。何かあったのか?」
不意に駿太が、声を低くする。目敏く私の涙の跡でも見つけたのだろうか。
……まったく。
私は、ふっと苦笑を浮かべた。
「はるかの部屋に行こ。駿太にも話しておかなくちゃならない事があるから。長い長い話が……」




