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第26話 文化祭の始まり

 アミリアさんのお屋敷。その1階にある食堂ホール。

 ピカピカに磨かれた床と規則正しく並ぶ飴色のテーブル。壁際の重厚のソファーや煌びやかな装飾が施されたカーテン。まるでガラス細工のお城みたいなシャンデリアや、柔らかな光が揺れる壁際のランプ。

 それら普通の高校生には縁遠い品物で溢れるそんな場所の片隅で、私とはるか、そして駿太が顔を突き合わせて作戦会議を開いていた。

 今にもどこからか、優雅なクラシック音楽でも聞こえて来そうだ。

 楽団を入れた上でさらにダンスパーティーでも開けそうな程ホールは広かったけど、私たちが陣取っているのは、その隅っこにあるテーブルの1つだった。

 その、真ん中の方は落ち着かないから……。

 しかし場違いな場所に恐縮して固まっているかといえばそういう訳でもなく、私たちが取り囲むテーブルには沢山のお菓子やはるかが用意してくれたティーセットが所狭しと広がっていた。

 今、私たちが話し合っているのは、体育館で耳にした怪鳥の噂についてだ。

 その噂を聞いた日、文化祭本番で身に着ける衣裳姿で練習を行った日の数日後、はるかはまたしても例の体調不良で学校をお休みする事になってしまった。

 そこで私と駿太は、ここ数日でそれぞれが得た情報を突き合わせ、その内容をはるかとアミリアさんにも報告すべく、秘密の庭を訪れたのだ。

 今日は文化祭の準備がない日だった。

 おかげで学校が終わって直ぐに秘密の庭までやって来られたのだけれど、はるかのお見舞いにと駿太が大量のお菓子を買い込んで来たので、しばらくの間お菓子とお茶の時間を満喫する事になってしまった。

 はるかにお休みの間の学校の事やクラスのみんなの話をしていると、時間があっという間に過ぎてしまった。

 はるかもうんうんと楽しそうに話を聞いてくれるものだから、ついつい私も饒舌になってしまった。

 お喋りをしていると、時間と一緒にお菓子もあっという間に無くなってしまう。

 はるかは駿太と一緒になってもぐもぐとお菓子を食べていたけれど、女の子ならそんなに一度に沢山食べてはいけないと思うのだ。

 食べた結果の体重計の事を考えれば……。

 そのあたり、はるなはまだまだ女心をわかっていないなあと思う。

 お喋りをしている時はにこやかなはるかだったけど、いざ怪鳥の関係の話題になると、すっと真面目で鋭い表情になった。

 学校を休んだはるかは、少し大きめのセーターに短いプリーツスカート、それに厚手のタイツといった私服姿だった。

 髪は、紺のシュシュでひとまとめにしている。

 そんな落ち着いた格好のはるかが、頬杖を突いて鋭い眼差しで私の作ったメモを見ていると、なんだかとっても大人びて見えた。

 学校は休んでしまったけれど、この秘密の庭にいる分には、はるかの体調は問題ないみたいだ。

 それは良いのだけれど……。

「やっぱりそうだな……。間違いない」

「うん。ナナたちが集めてくれた情報、役に立ったな。これは、当たってみる価値があると思う」

 低い声で駿太と話し込んでいたはるかが、私がなんとなく見ていた気配を察したのか、不意にうんっと顔を上げた。

 目が合う。

 その途端、はるかは少し恥ずかしそうに笑った。

「どうしたんだ、ナナ」

 この反応、やっぱり遼と同じだ。

「別に」

 内心私も少しだけドキリとしてしまったけど、それはぐっと堪えて顔に出さない。

「偶然でも、手掛かりを得られて良かったね。これで多分、怪鳥が現れる場所は随分絞られる筈……」

 私ははるかから目を逸らすと、改めてテーブルの真ん中に広げられたノートに目を落とした。

 本番の衣裳を着て体育館で練習したあの日。

 私とはるかは、男子バレー部から聞こえて来た会話の中に鳥の化け物というフレーズを確認すると、即座に詳細を確認しに向かった。

 騎士と魔女の格好をした私とはるかに取り囲まれたバレー部男子2人は、こちらの勢いに気圧されたのか、美人のはるかに圧倒されたのか、身を小さくして真っ赤になってしまった。

 彼らには申し訳ないないけど、しょうがない。

 その話の鳥の化け物があの日置山の怪鳥なら、このまま放っておくなんて事は出来ないのだから。

 日置山の怪鳥は、アミリアさんが遼を助ける為に取り逃がしてしまっている。その際にかなりのダメージを与えたらしいけど、それがどうやら再び活動を始めたらしいと以前アミリアさんが言っていたようなのだ。

 はるかは、もう自分みたいな被害者を出さないために、日置山の怪鳥を捕まえ、元の世界に送還する事に関して、アミリアさんに協力したいと言っていた。

 もちろんその気持ちは、私や駿太も同じだった。

 バレー部員たちの話は、誰かから聞いたという曖昧な噂話でしかなかった。

 曰く、秋陽台高校の裏手にある雑木林やその先の緑に囲まれた老人ホームなんかがある一帯から、夜、雷みたいな鳴き声が響いて来るというのだ。

 そんな話を聞いたどこかの部活が、肝試しにと日が落ちてから、そちらの方へロードワークに出掛けたらしい。

 そこでその内の1人が、黄昏時の紫紺の空に、見たこともない大きな鳥が飛んでいるのを目撃したというのがこの噂話の流れだった。

 どこの誰がそれを目撃したのかという確かな情報はないみたいだけれど、それ以来体育館で部活をしている生徒たちの間では、そんな噂が密かに広がっているみたいだ。

 去年、遼の事件があった日置山の怪鳥とはお話の規模が全然違う。でも、噂のそれが日置山の怪鳥である可能性は捨てきれないし、そうでなくても夏に目撃した白馬みたいに、アミリアさんが言うところの越境者である可能性は十分にあるだろう。

 やはり、この噂の真相は確かめなければならないと思う。

 だから私と駿太は、はるかが休みの間、体育館で部活を行なっている人たちからできる限り情報を集め、こうしてノートにまとめて来たのだ。

「こうして見ると、やっぱり目撃例が多いのは夜、だよな」

 ふんっと息を吐いたはるかが、セーターを押し上げる胸の下で腕組みをする。

「部活で遅くなった生徒、片付けをしていた生徒、忘れものを取りに戻った生徒、か。確かにそうだ」

 駿太も腕組みをする。はるかの真似をしているのだろうか。

「私たちの時もそうだったよね……」

 私は、一年前のあの事件を思い出しながらぼそりと呟いた。

「……そうだな。このままだと、あの時の俺たちみたいに、知らず知らずの内にあの鳥の領域に足を踏み入れてしまう人が出て来るかも知れない。それは、何としても防がなければ」

 はるかが、鋭い視線を私に向けて来る。

 私はその視線を正面から受けてめて、こくりと力を込めて頷いた。

「でも、具体的にどうする? 噂話だから、みんなに注意して回る事なんて出来ないだろうし」

 駿太がうーんと唸った。

 それは、その通りだと思う。

 これらの話は、あくまでも只の噂だ。いたずらに注意喚起をしても、変な目で見られるだけだろうし……。

「とりあえずは、何がいるのかを確認する事が重要だと思う。幸い俺たちも、これから先劇の練習で学校に残る事も多いだろうから、まずは学校裏の見回りから始めよう」

 はるかが、私と駿太を交互に見た。

 私たちは、同時にこくりと頷く。

 ばたばたとしているうちに、文化祭の本番は直ぐそこまで迫って来ていた。私たちのクラスだけでなく、駿太のところや学校全体が、これから文化祭準備の追い込みに入っていく時期だ。

 必然的に、みんなが学校に残る機会も増える。怪しい鳥の目撃証言は夜に集中しているから、また何か新しい情報が出てくるかもしれない。

「それで、鳥の化け物に関する具体的な手掛かりを掴んだ時点で、アミリア先生に来てもらおう。あの怪鳥、今度こそ捕まえてもらうんだ……」

 腕組みを解いたはるかは、ことりとテーブルの上に手を置くと、その固めた拳にぎゅっと力を込めた。

「はるか……」

 私も、ぎゅむっと唇を噛み締める。

 噂話の鳥が日置山の怪鳥なら、遼をこんな境遇に陥れた元凶という事になる。はるかにとっては、色々と複雑な思いがある筈だ。

 私だって、怖いという思いはもちろんあるけれど、今はそれ以上に怪鳥に対する怒りの方が強かった。

「はるか、任せろ。俺に出来る事はなんでもするからなって、わっ!」

 駿太が鼻息荒くそう宣言すると、ぐいっと身を乗り出した。

 その瞬間、駿太の大きな体がテーブルに当たり、ティーセットがガチャリと鳴った。

「もう、落ち着いて」

 そんな駿太を、即座に私が制止する。

 駿太がぐうっと唸って元の位置に戻った。それを見たはるかが、はははっと軽やかに笑った。

 私はテーブルから落ちてしまわない様にティーカップの位置を戻しながら、ちらりとはるかを窺う。

 今のところはるかは、いつも通りの様子だった。

 体調不良の影響も、怪鳥の噂に対する変な気負いも見られない。

 ……でも、気を付けておかないと、いよいよとなればはるかは、突然怪物に向かって行ってしまう様な行動を取りかねない。

 正義感が強いというか責任感が強いというか、遼は他人を助ける為に、咄嗟に行動が出来る奴だったから。

 一年前の日置山での様に……。

 私と駿太はその行動に助けらたのだけれど、今度はもう、遼を、はるかを1人で怪物に向かわせたりしてはならないのだ。

 私たちが一緒に。

 もう二度と、私たちの大切な人を失ってしまわない様に……!

 駿太も、その思いは私と同じ筈だ。

「駿太、力が有り余ってるんじゃないか? 最近何だかガッシリして来た様な気もするし」

 決意を固める私とは対照的に、気楽な様子でにこにこ微笑みながら駿太の腕をぺちぺちと叩いているはるか。

「いや、その、最近ランニングとか筋トレとか、鍛えてるし……」

 少し恥ずかしそうに、少し嬉しそうにだらしない笑みを浮かべている駿太。

 ……こいつら。

 気負いがないのはいいけれど、もう少し緊張感を持った方がいいのではないだろうか。

 まぁ、遼と駿太がじゃれあっているのを見守ったり注意したりするのは、昔からの私のポジションではあるのだけど。

 でも今のはるかと駿太は男子と女子という事もあってか、何だか見ているこちらが気恥ずかしくなるというか、居心地が悪くなるというか……。

 はるかはともかく、駿太についてはその想いを聞いてしまっているのが悪いのかもしれない。

 きっとはるかには、駿太の本当の想いなんて想像も出来ないだろうけど……。

 私は、はぁっとわざと大きなため息を吐くと、席を立った。

「ナナ?」

 はるかが、きょとんとして私を見上げた。

「トイレ。ちょっと外すけど、ちゃんと作戦会議しておいてね」

 私はわざと厳しめの声音でそう告げると、髪を振ってくるりと身をひるがえした。




 広い家というのも、少し考えものだと思う。

 トイレまでが遠い。

 行って帰るだけで、結構な時間がかかってしまう。

 それにこのアミリアさんのお屋敷、こんなに広いのに全く人の気配がしないというのもいけない。

 私は別にお化けが苦手という訳ではないけれど、人気のない洋館の中で1人だけ、蛍光灯じゃない淡い灯に照らされて、自分の足音だけを響かせながら廊下を歩いているというこの状況に、不気味さを感じずにはいられなかった。

 私はむっと眉をひそめて、はるかたちが待っているホールへと戻る歩調を速めた。

 ……はるか、毎日こんなところに住んでいて寂しくないのだろうか。

 ふと、そんな事を考えてしまう。

 はるかの実家である遼の家は、私の家と同じありふれた建売住宅だ。狭くも広くもない普通の家だけど、そこで生まれ育った身にとっては、それがちょうど居心地がいい広さだった。

 こんな立派なお屋敷だと、きっと逆に、居心地が悪いと思う。

 はるか、体調不良で学校を休んでこのアミリアさんのお屋敷に独りでいる時、どんな事を感じてどんな事を思っているのだろう。

 そんな事を想像すると、何だかきゅっと胸が締め付けらる様な感覚に襲われる。

 こんなお屋敷住まいが似合う深窓のご令嬢みたいな容姿になってしまっても、はるかの中身は遼なのだ。何も特別な事なんかなくて、私と駿太と一緒に育って来た普通の子なのだ。

 ……私は、出来る限りはるかの側にいてあげたいと思う。

 寂しかったら、そっと抱き締めてあげてもいいと思う。

 ……う。

 私は、ふっと立ち止まった。

 むぐぐ。

 別に遼だから抱き締めてあげたいと思った訳じゃない。

 遼だから、ではなくて、単純に今のはるかの境遇に同情したからそう思った訳であって……。

 でも、私ははるかに告白されたのだ。

 はるかが私の事を想っていてくれて、私もはるかの事を憎からず思っている。ならば、抱き締め合うとかそういう事があってもおかしくないのではないだろうか?

 ……いやいや。

 私たちは、外見上は女の子同士なのだ。外人さんならまだしも、普通の日本人の私たちが抱き締め合うというのはどうなんだろう。

 ……でも、だったら遼ならば良かったんだろうか?

 そうなってしまった時の事を想像してしまう。

 遼の事を私は、やっぱり……。

「いやいや!」

 私は、ぎゅむっと唇を噛み締めてぶんぶんと勢い良く首を振った。肩口まで伸びた髪が、パタパタと揺れた。

 ……いや、そうなんだ。

 私は、首を振るのを止める。そしてふっと表情を消すと、薄暗い廊下の先に目を向けた。

 遼の事、私は好きだ。

 遼がいなくなって初めて、その事に気がついた。

 それは、私の深いところにある本当の気持ち。

 私は、はるかと駿太が待っているホールのドアに向かってゆっくりと進み始めた。

 ……女の子同士とか姉弟の恋愛関係とか、それに違和感を覚えるのは、私たちの社会では、私が属している一般的で平凡な世界では、それがあまり普通だとは見なされていないからだ。

 しかし既に、私の世界は変わってしまった。

 遼がいなくなって、はるかがやって来て……。

 常識、などと言いだしたら、遼がはるかになってしまったり、異世界とか境界の管理者とか越境者の怪物とか、今目の前で起こっている事態を受け入れる事なんて出来なくなってしまうだろう。

 それまでの、私の世界の基準での常識なんてものは、とっくに崩壊してしまっているのだ。

 私は立ち止まり、ホールに続くドアのノブにそっと手を置いた。

 掌に、冷ややかな金属の感触が伝わってくる。

 私はすっと目を細めると、軽く息を吐いた。

 好き、のあり方に、正しい形なんてあるのだろうか?

 はるかが勇気を出して私に告白してくれた以上、私もきちんとこの想いをはるかに伝えなくちゃ、と思う。

 私は……。

「ナナコ」

 その時不意に、人気のない廊下に透き通った声が響いた。

「わっ」

 じっと考え込んでしまっていた私は、思わずびくりと肩を震わせる。

 慌てて声のした方に目を向けると、いつの間に現れたのか、そこにはアミリアさんが立っていた。

 全く気が付かなかった……。

 いつもの通りふわりと広がった黒いドレスを身に着け、アッシュブロンドの髪を丁寧に結い上げたアミリアさんは、まるで精巧なお人形さんみたいだった。

 美人なのだけど、はるかみたいに活き活きしているという感じではない。生身の人間というよりも、絵画とか彫刻とか、そういうものを見て抱く美しいという感覚に近いと思う。

 その鋭い光を湛える緑の瞳で見据えられると、何もしていないのに、何だか気圧されてしまう様な気がする。

「ア、アミリアさん。こんばんは、お邪魔してます……」

 一瞬の間の後、私は慌ててアミリアさんに挨拶をした。

 それに対して、アミリアさんはああと軽く頷くだけだった。

「ハルカは中にいるのかな? ナナコたちも含めて、話があるのだが」

 平板な声でそう告げたアミリアさんは、私が手を掛けている扉を一瞥した。

「あ、はい。はるかも駿太も揃っています」

 私はこくこくと頷いて、ドアを開けた。

 ……アミリアさんから話というのは何だろう。

 こちらが問い掛けても難しい事しか答えてくれないアミリアさんが、あちらから話があるというのは初めてかもしれない。

 ホールに戻ると、私ははるかたちのテーブルを窺った。広いホールなので、入り口からはるかたちのテーブルまで、そこそこ距離があるのだ。

 ……む。

 はるかと駿太は、顔を付き合わせて談笑していた。

 2人とも、笑顔で楽しそうだった。

 それに、何だか2人の距離が近い。

 特に駿太なんて、キラキラとした顔をしていて、ここからでもテンションが高くなっているのがわかった。

 周囲のレストランみたいな景観や雰囲気も合間って、まるで駿太とはるかは、デート中の恋人同士の様に見えた。

 ……駿太、少し顔がだらしない。後で注意しなければ。厳しく。

 私の後からホールに入って来たアミリアさんが、コツコツと足音を響かせながらはるかたちの元に向かって行く。一瞬出遅れた私は、慌ててその後を追い掛けた。

「……えっと、アミリアさん。その、お話というのは、なんでしょうか」

 私は、アミリアさんの背中に恐る恐る声を掛けてみた。

 越境者の事に関する作戦会議を開いといたとはいえ、一見して現在の状況は、テーブルの上にお菓子やお茶を広げて騒いでいる様にしか見えない。

 ……もしかして、怒られてしまうのだろうか。

 アミリアさんは無表情な顔をこちらに向けると、私を一瞥した。

「ハルカの様子だが、以前と比べてあまり変化がない様だな」

 鋭い指摘に、私はドキリとしてしまう。

 ……アミリアさんの言う通り、はるかはまだあの花結びの組紐を操る事が出来ない。何も進展がないと言われてもしょうがない状況だ。

「私は以前、ハルカに一周期の期限を与えたが、残念ながら状況は少し変わりつつある」

 トクンと胸が鳴る。

 ハルカの課題に進展がないと指摘された時とは違う意味で、私はぐっと身を固くした。

 胸がざわざわとする。 

 嫌な予感がする。

 凄く嫌な予感が……。

「ナナコ。ハルカや君たちにとって、もう残された時間はあまりない様だ。これは、私にとっても不本意な事ではあるが」

 残念だという言葉とは裏腹に、アミリアさんの声には何の感情も窺えなかった。

 だから私は、咄嗟にアミリアさんが何を言っているのか理解出来なかった。

「え……」

 ただ小さくそう呟いた私は、大きく目を見開いて、その場で立ち止まってしまう。

 同じく立ち止まり、こちらを向くアミリアさん。

「ハルカが君たちのもとに留まる事の出来る時間は、もうあまりないのだ」

 もう一度そう告げたアミリアさんの整った顔を、私はじっと見つめる事しか出来なかった。




 まだまだ十分にあると思っていた準備期間はあっという間に過ぎ去ってしまい、とうとう文化祭本番の日がやって来てしまった。

 季節は晩秋といわれる頃だったけど、体感的には真冬と変わらない寒い日。澄んだ晴れ空の下、秋陽台高校の文化祭が、土曜、日曜という2日間の日程で開催される。

 校門から校舎、体育館まで飾り付けされた学校には、生徒たちの親御さんや近隣の他校生、近所の方々なんかも訪れて、文字通りお祭り騒ぎとなっていた。

 秋陽台の文化祭は地元民には有名なイベントで、私も小学生の頃と中学1年の時の2回、お客さんとして来た事があった。

 受験生だった去年は、秋陽台を受ける同級生たちは学校見学を兼ねて文化祭に行っていたみたいだけど、私はその頃、精神的にそれどころではなかったので参加していない。

 だから記憶の中の秋陽台高校文化祭はもう既にあやふやになってしまっていたけれど、改めて開催側として見てみると、こんなに賑やかなイベントだったのかと感嘆せずにはいられなかった。

 秋陽台高校では、クラス単位だけでなく、部活や必要人数や要件を満たせば個人単位でも模擬店や様々企画、出し物を行う申請が出来るので、様々なお店や演奏会、イベントなんかがあちこちで開かれていた。小規模な催しが多いけれど、その分バラエティは豊なのだ。

 校内放送からは、常時軽快な音楽とラジオ番組を真似た放送部員のMCが流れ、焼きそばやコーヒー、甘いもの香りがそこらかしこに漂っていた。

 生徒たちの威勢のいい掛け声が響き渡り、走り回っている小さな子供たちや制服姿でない一般の人たちで廊下や通路は大賑わいだった。

 普段学生しかいない空間に色んな人が入り混じって笑い合っている光景は、何だか不思議な感じだ。

 外での出し物やお店に参加している子たちは、寒いのに大変だなと思う。特に、女子は足丸出しだし。

 でもそんな事を感じさせない熱気が、朝からずっと学校全体を包み込んでいた。

 私たちのクラスの演劇は、予定では午後の2時からという事になっている。今日と明日の、計2公演が予定されていた。

 一回終わってもまだもう一回あるというのは、なかなかの苦行だ。

 最初は暗たんたる気分になっていた私だったけど、今はもう、その事について考えるのを止めていた。

 ……私には、ううん、私たちには、もっと考えなければならない事が出来てしまったから。

 劇の公演は午後からだったので、私たちのクラスは、朝一番に演劇の最終打ち合わせをした後、午前中は自由時間となった。集合は、12時頃という事で良いそうだ。

 私は帰宅部だから部活系の企画にも参加していないし、何も用事がない。なので、莉乃や明穂、はるかたちと一緒に文化祭を見て回る事にした。

 ちょうど喫茶店の店番シフトから外れていた隣のクラスの金井さんも、私たちに合流する。

 厨房担当らしい金井さんは、制服の上から可愛らしいエプロンを身に付けていた。

 大人っぽくて少し派手な感じのする金井さんが家庭的な格好をしていると、何だかいつもより可愛く見えてしまう。莉乃もその恰好を茶化していたけれど、金井さんに何か小声でぼそりと言われた後、めっきり大人しくなってしまった。まるで、首根っこを掴まれた子猫だった。

 その魔法の言葉、是非私にも教えて欲しい。

 これで駿太や中崎くんもいれば、夏に海に行ったメンバーが揃うのだけど、生憎2人は店番中だった。

 ちらりと隣のクラスを覗いたけれど、腰にエプロンを巻いてお盆を持った駿太が緊急した様子で立っている姿に、思わず私とはるかは笑ってしまった。

 駿太の体格なら、ウェイターというよりも店の用心棒がお似合いだ。

 隣のクラスの喫茶店を皮切りに、莉乃が先頭に立ってあちこちの模擬店や展示を見て回る。

 莉乃と金井さんが2人して、これでもかと食べ物を買い込んで来る。

 その内のいくつかを分けてもらったけれど、学生の作るものなのでどうせクオリティが低いかと思いきや、なかなかどうしてどれも様になっていた。

 校門近くの一部スペースには、学校の認可を受けた一般の出店が少数ながら出店していた。これは、文化祭に来てもらえる一般のお客さん用に、という事なのだけれど、そちらを当てにしなくても、文化祭期間中は食事に困る事はなさそうだ。

 主に食べ物ばかりの大荷物を抱え込んだ私たちは、一旦1階職員室近くに設置された休憩所に場所を確保する。そこに落ち着いて、改めて買い集めて来た戦利品の確認を行う事となった。

 私は明穂から、出汁巻卵のパックと割り箸を受け取る。

 蓋を開けると、焼き立ての卵焼きから、ふわりと甘い香りが漂って来た。

「莉乃、そんなに買ってお金大丈夫なの?」

 金井さんが少し呆れた様に莉乃の手元を見る。

 金井さんが方々でバイトしている事は周知の事実だけど、莉乃は働いていない。財源は、親からもらっているお小遣いだけの筈だけ……。

「あはは、食べ過ぎには注意だよ。午後が本番だからね」

 明穂も苦笑を浮かべている。

「大丈夫だよ! お小遣いの前借りしたから! 二ヶ月分!」

 そんなみんなに対して、ニカっと笑ってVサインを送る莉乃。

 ……二ヶ月も前借りして、果たしてこの先大丈夫なのだろうか。一月もせずに、お金がないと嘆いている姿がありありと思い浮かぶのだけれど。

「莉乃、程ほどにしとかないと」

 私は明穂と同様に微かに苦笑を浮かべながら、莉乃に忠告する。そして出汁巻卵を口に運びながら、隣で焼きそばのパックに目を輝かせているはるかの事をそっと窺った。

 はるかの様子は、いつも通りだった。

 いつもと変わらず、明るく楽しそうだ。この文化祭を、満喫しているみたいだ。

 アミリアさんのお屋敷で作戦会議を開いていたあの日。

 私や駿太と一緒にいられる確実な期間、つまりはるかがアミリアさんの弟子になるために与えられた猶予期間である1年が短くなるかもしれないと告げられた時。

 はるかは、表情を消してじっと沈黙していた。

 アミリアさんが突然そんな事を言い出したのには、理由が2つあった。

 1つ目は、はるかの体調に関してだ。

 異世界の存在は、基本的に自分の属する世界以外では存在する事が出来ない。その新しい世界との因果が無いから、存在が保てないのだ。

 だからアミリアさんが相手にしている越境者たちは、新しい世界の存在を捕食して、自らを保とうとする。

 私たちを襲った日置山の怪鳥みたいに。

 そんな怪物たちと一緒にして欲しくはないのだけど、残念ながらはるかは、それと同じ状況にあるみたいなのだ。

 近頃頻発しているはるかの体調不良は、それが原因。

 即ち、このままでは、はるかはこちらの世界にいられなくなる。

 その限界が、アミリアさんが想定していたよりも早く訪れようとしているらしい。

 アミリアさんの弟子になるか、本来はるかがはるかとしているべき世界に行くか。

 その決断の時が迫っているというのだ。

 さらにもう1つの理由は、越境者の増加だ。

 原因はまだ不明だけど、夏を過ぎた頃から、秋野市やもっと広い範囲で越境者の数がかなり増加しているらしい。

 アミリアさん曰く、異世界の存在は同じ異世界のものに引き寄せられる傾向があるらしい。

 越境者が増えている原因は、未だどこかに潜伏している日置山の怪鳥という可能性が高いみたいだ。強い力を持つ越境者なら、そういう事も起こるのだそうだ。

 でもそれは、アミリアさんや秘密の庭、それにはるかにも言える事らしい。

 アミリアさんたち異界の異物は、この世界の一つ所にあまり長くは留まってはいけないのだ。だから、アミリアさんやはるかは、タイムリミットの1年を待たずにこの場所を去らなければならない可能性がある、という事のようだ。

 ……そんな事。

 突然そんな事を言われても、到底受け入れる事なんて出来ない。

 出来る筈がない……!

 淡々とそう説明するアミリアさんに対して、私は涙をこらえて、駿太は怒りに声を震わせながら抗議した。

 でも。

 はるかは、じっとアミリアさんの話を聞いていた。そして静かに目を瞑って、「わかりました」と告げたのだ。

 それで私と駿太は、もう何も言えなくなってしまった。

 新しいタイムリミットが具体的にいつになるのかといのは、今のところまだ決まっていない。

 ただ、未だ実感のない漠然としたものだった終わりの時が、いきなり目の前に現れてしまったというのは揺るぎない事実なのだ。

 私は、隣で莉乃たちと談笑しているはるかの横顔をじっと見つめる。

 耳に掛けた黒髪を揺らしながら、今この時が楽しくてたまらないといった様子で笑っているはるか。

 その笑顔を見ていると、胸が締め付けられる。はるかを抱き締めて、ずっとずっとぎゅっとしていたくなる。

 どうして遼が……。

 どうして、はるかが……!

 私は、箸を持った手をぐっと握り締めた。爪が掌に食い込むのにも構わずに。

 ……これから、私は、私たちは、どうすればいいのだろう。

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