第23話 魔法使いになるためには
楽しく遊んで美味しいものも食べられて、最後にはライトアップされた素敵な景色も見ることが出来て、思い返せば、はるかとのデートは概ね良かったなと思う。
……最後の喧嘩みたいになってしまった事を除いては。
はるかが言っていた事、はるかが思っている事が私にはショックで、涙が溢れてしまって、最終的には私が逃げ出す様な形になってしまった。
帰りのバスの車内は、私たちはお互い何も話さず、無言の状態だった。凄く気まずい雰囲気だったと思う。
はるかは何か話したそうにおろおろしていたけれど、私はぶすっと膨れてずっと車窓を見つめているだけだったのだ。
アミリアさんの弟子になって私や駿太の側に残る事を諦める。
はるかが口にしたその衝撃的な告白に、最初私は混乱するしかなかった。それこそ、涙がこぼれてしまう程に。でも時間が経つにつれて、私の悲しみや困惑は、怒りや苛立ちに変わりつつあった。
はるかが大変な状況にあるのは、良くわかる。
でも、私たちが一緒にいる事を簡単に諦めてしまうなんて、はるか、いや、遼らしくないと思うのだ。
デートから帰って来た後の夜。
私はベッドの上で仰向けになると、ぽすぽすと芝犬枕を振り回して八つ当たりした。
翌日。
デートが終わってまた新しい月曜日が始まっても、私の怒りは治まらなかった。
朝、教室に入ると、次々にクラスメイトの皆んなが挨拶してくる。それに応える私の口調は、自分でもわかるくらいには少しだけぶっきらぼうになってしまっていた。
「……おはよ。ナナ」
先に登校していたはるかが、眉をひそめながら私の机までやってくると小さな声で挨拶した。
「……おはよ」
私の返事は、他の皆んなに対するよりもずっと刺々しい。
……こんな態度を取りたい訳じゃないのだけれど、自然とそうなってしまうのだ。
はるかの顔を見ると、どうしてもあの紙燈籠の淡い光の中で聞いた事を思い出してしまう。すると、もやもやとやり場のない苛立ちが湧き上がって来て、それをはるかにぶつけてしまいそうで、自己嫌悪に陥る。結果、ますますぶすっとしてしまうのだ。
今の私は、そんな最悪の状態だった。
どうにかして頭を冷やさなければと思うけれど……。
「あの、ナナ、ごめんな、昨日は」
はるかが、ははっと力無い苦笑を浮かべた。
私は、なるべくはるかの方を見ないでカバンから教科書やノートを取り出していく。
「……後で花結びの訓練、やるからね」
感情が表に出ない様に平板な口調でそう告げると、私ははるかを一瞥した。
対してはるかは、困った様な表情を浮かべながら小さく「うん」と頷くだけだった。
その覇気のない様子に、私はさらに苛立ちを覚えてしまう。
はるかとは、これからも一緒にいたい。
駿太も一緒に、もう3人が離れ離れになるのは嫌だ。
私の望みは、希望はそれだけなのに、きっとそれは、はるかも一緒だと信じているのに……!
思わず私は、キッとはるかを睨みつけてしまう。
その時。
「おはよう、久条さん、水町。ちょっといいか?」
不意にクラスの男子が話し掛けて来た。
メガネを掛けた小柄な男子で、いつも本を読んでいる印象の子だ。
以前隣のクラスの中崎くんと親しげに話しているのを見かけた事があるけど、私やはるかとは話した事がなかったと思う。
「何」
苛々が募っていた私は、少しぶっきらぼうに返事をしてしまった。
メガネの男子はびくりと肩を震わせて、私に気圧されてしまったかの様に一歩後退った。
「おはよう、寺島くん」
私とは対照的に、はるかはにこにこと微笑んでいた。
どうやらこのメガネの男子は、寺島くんというらしい。同じクラスだけど、知らなかった。
「どうしたの?」
私より女の子らしい柔らかな対応を取るはるか。
……む。
中身は遼のくせに。
昔から遼はそうなのだ。器用で能力があるから大概の事は何でもこなせるくせに、変に頑固で自分ルールを決めてしまうから、結果身動きが取れなくなる。
よく言えば自分に厳しくてストイックという事になるんだと思うけど、それで損してる事が沢山ある筈なのだ。本当だったら、遼はもっと凄い奴なのに。
……アミリアさんの弟子の件だって、変な線引きやハードルを設定して諦めているだけじゃないかと思う。
私は、ギロリと隣のはるかを睨み付けた。
はるかは、きゅっと眉をひそめると、私に顔を近づけて来た。はるかの黒髪がふわりと揺れて、甘いいい香りが漂って来る。
「ナナ、顔が怖いぞ」
囁く様に注意してくるはるか。
私は、そのはるかの顔を正面から睨み返した。
誰のせいでこうなっていると思っているんだ……!
「あの……」
至近距離で睨み合う私たちに、再度寺島くんが、恐る恐るといった様子で声を掛けて来た。
「あ、悪い……ごめんね。で、何の用だっけ」
私から目を逸らしたはるかが、少し困った様な笑みを浮かべて寺島くんに向き直った。
「あ、ごめん。今日の午後のホームルームだけど、委員長に聞いた話だと、文化祭の出し物を決めるらしいんだ」
はるかの柔らかい態度に少しほっとした様子の寺島くんが話を始める。
私ははるかの隣で腕組みをすると、机にお尻を乗せて体重を預けた。
何故か寺島くんは、ちらりとも私の方を見ない。真っ直ぐにはるかの方だけを見ている。
……む。
「それで僕、演劇を提案したいんだ。やりたい事があって……。それで、久条さんたちにも賛成してもらいたくて、事前に話したんだけど……」
寺島くんの表情は真剣そのものだった。どうやら、本当に演劇がやりたいらしい。
何かの展示や模擬店に比べて、演劇はハードルが高いと思う。準備にお金も時間も労力もかかるし、何よりも恥ずかしい。素人の私たちに良い劇が作れるとは思わないし……。
中学でもやった事はないし、厳しいと思うのだけれど。
他の出し物の方がいいのでは、と私が口を開こうとした時。
「いいね、劇!」
はるかが、明るい声を上げた。
「楽しそうだな、ナナ!」
はるかは、私にも屈託の無い輝く様な微笑みを向けて来る。
思わず私は、その笑顔に目を奪われてしまう。言おうとしていた事を、ぐっと呑み込んでしまう。
例え限られた時間でも、私や駿太と一緒の学校生活を楽しみたいというスタンスのはるかにとっては、クラスメイトみんなで取り組まなければならない演劇というのは、いい思い出になると思っているのかもしれない。
……でも、私はやっぱり、思い出だけでは終わらせたくないと思う。
私たちの目の前で、寺島くんが惚けた顔をしてはるかの顔に見入っていた。
寺島くんたち男子だけでなく、私もこのはるかの笑顔に吊られて、ついつい甘い顔をしてしまうのだ。ここは少々厳しく当たる事になっても、はるかに花結びの訓練を優先させるようにしなければ。
私は腕組みをすると、机に腰掛けたままスカートから伸びた足を軽く組む。そして、キッと表情を引き締めた。
「……はるか。わかってるとは思うけど、私たちは忙しいんだからね」
はるかが私を見る。
明らかに不満そうな表情だ。
はるかに吊られて、寺島くんもこちらを見る。
寺島くんと目が合った。
その瞬間、はっとした様に身を震わせた寺島くんが目を泳がせる。そして逃げる様に、俯いてしまった。
その視線の先には、私の組んだ脚がある。
今度は、恥ずかしそうに真っ赤になる寺島くん。
「よ、よろしくお願いします!」
何故か敬語でそう言い放つと、寺島くんはそそくさと男子グループの方へと去ってしまった。
「……楽しいと思うんだけどな、劇」
はるかが桜色の唇を突き出して、何かを訴える様な声音で呟きながらこちらを横目で窺う。
私は腕組みをしたままふっと息を吐き、顎を引く様に俯く。そして、そのはるかの視線を押し返す様に無言で睨み返した。
はるかの考えには色々と思うところはあるけれど、別に私は、はるかと喧嘩がしたい訳じゃない。
だから朝のやり取りからしばらく時間が経つと、はるかに対してつっけんどんな態度を取ってしまった事を後悔し始めてしまう。
中間テストが終わった直後なので、私たち生徒の側はもちろん、授業を行う先生の態度にもどこか弛緩したような雰囲気だ漂っていた。雑談も多くて、授業中の教室にはどこか和やかな空気が流れていた。
しかし私は、そんな授業中も頬杖を突きながらあれこれと思い悩んでいた。
はるかに一応謝った方がいいだろうか?
……でも。
間違っているのははるかなのだ。
そこは、譲れない。
私は唇を尖らせて、ノートにぐるぐると落書きをする。
……はるかは、どうして女の子になったのだろう。
遼が遼のまま戻って来てくれたなら、私たちの側にいる事を諦めるなんて言いださなかっただろう、あいつは。
ずっと同じこと考え込んでいると、思考はどんどんもしかしての中に迷い込んでいく。
もしかして、はるかが練習なんてしなくても不思議な力が使えたなら、アミリアさんの弟子になる事を迷わなかっただろうか?
魔法使いになんてなれる訳がない、か……。
チャイムがなる。
授業終了の号令が掛かる。
そこで私の思考は、ぶつりと中段されてしまった。
休み時間になって、教室内がざわざわと賑やかになる。僅かしかない休憩時間を惜しむ様に、みんな仲の良いグループで集まっておしゃべりを始めたり、連れ立って廊下に出て行ったりし始める。
私も、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
莉乃と明穂が集まって談笑し、はるかがクラスの男子の塊に何か話し掛けて驚かれている姿がちらりと見えたけれど、私はそのまま廊下へと出た。
少し新鮮な空気を吸って、頭を切り替えたかったのだ。
外は秋らしく随分と寒くなって来たので、教室の窓は締め切られたままだった。すると、クラスメイト全員の熱気で、教室内は暑いくらいになってしまうのだ。
私は上着を脱いでシャツの上に学校指定のセーターを着ている状態だったけど、教室の中では少し暑くてぽおっとしてしまった。
そのまま1階に下りてそちらのトイレに寄ってから、私は中庭に出てると、うんっと伸びをした。
金木犀の香りがふわりと漂う空気を目一杯吸い込んで、ほっと息を吐く。
午前中の授業をそんな感じで乗り切り、お昼休みになっても、私はいつもみたいに莉乃やはるかとは合流せずに1人で教室を出た。
お弁当を食べる前に、またはるかに対して冷たい態度を取ってしまわない様に、少し頭を冷やしておこうと思ったのだ。
秋になって、さすがに中庭で食事する人は随分と減った。私たちも近頃は教室で済ませるか、もっぱら食堂だった。
だから、中庭を挟んで食堂とは反対側の特別教室棟の方は比較的人が少ない。
そちらにある自販機コーナーでホットレモンティーを買うと、私はゆっくりとした足取りで教室へと戻り始めた。
その途中。
特別教室棟側から2階に上がる階段に差し掛かった所で、私はふと気配を感じて顔を上げた。
2階の踊り場から、聞き覚えのある声が聞こえて来る。
これは……。
はるかと駿太だ。
別にやましい事なんて何もない筈なのに、思わず私は、階段の途中で息を潜めて立ち止まってしまった。
「ナナ、どこ行ったのかな……」
寂しそうなはるかの声が聞こえる。
……うぐ。
胸がズキリと痛んだ。
「どうせまたトイレだろ。すぐ戻るだろうから、教室にいた方がいいんじゃないか?」
駿太の低い声も聞こえて来る。
……何だかその言い方、私がずっとトイレに入り浸っているみたいじゃないか。
「ナナがいないとな、女子の輪の中にいるのが辛いんだよ。城山とかいい奴なんだけど、女子ばかりだとやっぱり落ち着かないよ。ナナがいないとなー」
ため息交じりのはるか。
透き通る様な綺麗な女の子の声でそんな事を言われても、何だか逆に違和感を覚えてしまう。
……頼られているのは、少しだけ、ほんの少しだけ嬉しいけれど。
「クラスの男子連中に声を掛けたら、話し掛けただけで身構えられるからな。まったく、男子と女子の壁がこんなに頑丈だとは思わなかったよ」
はるかが、不満そうにぶつぶつと呟いている。
そういえばはるかは、たまに男子の集団に積極的に話しかけている。それが、久条さんはフレンドリーだと男子の人気を高めている要因の1つでもあるのだけれど。
「まぁ、はるかなら、男子のその反応もしょうがないよな」
駿太が苦笑する。
はるかが人気なのは、その容姿のせいだけではない。男子からも話しやすいという評判も大きい。
中身が元遼なのだから、当然の事ではあるけれど。
むしろそのはるかが、そつなく女子の輪に入っている事の方が凄いなと思う。
「ナナはもちろんそうだけど、やっぱり駿太の横も落ち着くなー」
先程までの不満そうな様子とは一転して、ほっとした様なはるかの声が響く。
「お、あ、ああ、まぁな……」
それに対して駿太の返答は、しどろもどろだった。
多分隣ではるかににこりと微笑み掛けられて、真っ赤になっているのだ、駿太。
微笑むはるかの横で体の大きな駿太がもじもじしている姿が目に浮かぶ様だ。
……ふんっ、だらしない。
「そ、それで、昨日のデートはどうだったんだよ」
露骨に話題を変える駿太。
駿太は気軽に話せる話題を選んだつもりだったかもしれないが、しかしそれが、今私とはるかの間で問題になっている事なのだ。
「……それがな、まぁ、色々あってさ」
はるかの声が沈み込む。
「……どうしたんだ?」
駿太の声が低くなり、真剣なものに変わる。
私は階段の途中で手摺に背を預けて腕組みをすると、ふっと息を吐いた。
はるかが、昨日の私とのデートについて話を始める。
最初は楽しかった、良かったという感想ばかりで、聞いているこちらが恥ずかしくなってしまう程明るい声が響いていた。しかし話があのライトアップされた陣屋町でのやり取りになると、はるかの声は聞き取れない程小さく途切れ途切れになってしまった。
最後に、はるかの大きな溜息が聞こえて来る。
話を盗み聞きしているだけの私も、俯く。
周囲が、しんっと静まり返ってしまった。
「それは、はるかが悪いな」
そこに不意に、駿太のあっけらかんとした声が響いた。
私は、はっとして顔を上げる。そして、2人がいる階段の上方を見上げた。
「遼がいなくなって、奈々子は凄い落ち込んでいたんだ。去年はずっと、奈々子は遼の事を考えていたんだと思う。こんな言い方は良くないが、それこそ少し遼が羨ましく思える程にな」
駿太はそこでふっと息を吐いた。
……駿太。
「最初は、帰って来た遼がはるかになってた事を認められない様子だったけど、今じゃすっかりはるかを遼だと認めてるだろ、奈々子は。あいつ、変わったんだよ。変わってくれて良かったと思ってるんだ、本当に……。お前が俺の立場なら、きっとはるかもそう思っただろう」
ゆっくりと、しっかりとした口調で言葉を紡ぐ駿太。
……うぐぐ。
私は思わずカッと顔をが熱くなって、下を向いてしまった。
弟だと見なしていた駿太にそこまで見守らていた事、そしてそこまで気を使ってもらっていたという事に、嬉しいような気恥しいような、何だか胸の奥がむず痒い様な気持ちになってしまう。
去年は、駿太にそっけなく接してしまっていた後ろめたさもあって、今すぐ駿太にごめんねと言ってしまいたい衝動に駆られる。
しかし私は、ぎゅっと奥歯を噛み締めて、スカートの裾を握り締めてその場に留まった。
駿太の話は、まだ続いているのだ。
その駿太の言葉に対して、はるかは沈黙したままだった。
私も駿太も、はるかの次の言葉を待つ。
しばらくの間、遠くの方から聞こえて来る生徒たちの笑い声だけが響いていた。
「……俺だって、またナナや駿太に会えて嬉しかったさ」
たっぷりの間を取って、遼の口調ではるかが口を開いた。
「でも、もう俺は宮下遼じゃないんだ。こんな姿になって、ナナの隣にもいられないし、そもそもこの世界の人間ですらなくなってしまったんだ。だから、だから、せめて今だけはって、そう思ったんだ。俺だって、俺だって出来る事なら……」
はるかの声は、だんだんと小さくなって、最後の方には少し震えていた。
先程の駿太の言葉を聞いた時とはまた少し違うけど、私の胸がきゅっと締め付けられる。今度は今直ぐ階段を駆け上がって、はるかをぎゅっと抱き締めてあげたい衝動に駆られてしまう。
1番大変な目にあっているのは、はるかなのだ。だから私たちは、はるかの望むままにさせてあげた方がいいんじゃないのか。
一瞬、そんな風にも思ってしまった。
「はるか」
しかしそんな私の思考は、駿太の穏やかな声に中断させられた。
「奈々子は、今のはるかとは一緒にいられないって言ったのか?」
駿太の問い掛けに、はるかの答えは聞こえてこない。
しかし少なくとも私は、そんな事を言った覚えはない。そんな風に考えてもいない。
最初は、少し戸惑ったけど……。
「だろ?」
駿太が明るい声を上げる。どうやらはるかは、駿太の問に首を横に振ったみたいだ。
「だからな、俺、思うんだけれど、今の女になってしまったはるかを受け入れられていないのは、はるか自身じゃないのかなって」
はっとする。
「……えっ」
はるかが、ぽつりと呟くのが聞こえた。
「まずは、はるかが今の姿と女の自分を受け入れる事が大事だと思うんだ。簡単じゃないとは思うけど、自分はこうなんだって拘りは捨ててさ。そうすれば自然と、また俺たちと一緒にいたいって思えるんじゃないか? はるかとしてさ、ここにいたいって。奈々子の言う通りさ」
大した事ではない様に、まるで宿題は早く終わらせた方がいいと忠告する程度の軽さで、駿太がふっと笑った。
私は、階段の上をじっと見つめる。目が離せなくなっていた。
多分はるかも、私と同じ表情をしているのだと思う。
「奈々子もそうだけど、俺は今のはるかをちゃんと認めてるからさ。その、自信持てよ。だから、そうだな、試しに俺や奈々子にも女子の、はるかとして接してみるってのはどうだ? 俺は、えっと、その、久条はるかとしてお前が俺の側にいて欲しいって、そう思ってるからなっ!」
先程までの落ち着いた感じはどこへやら、台詞の途中から駿太の声が急に裏返り始める。
あ。
まさか駿太、どさくさに紛れて告白するつもりじゃないだろうか……。
今の台詞だって、第三者からすれば告白みたいなものに聞こえると思うけど。
なんだか胸がドキドキとし始める。ここから先の会話を、気になるけど聞いちゃいけない気もして、私は足音を忍ばせて一段階段を上り、でもまた直ぐに戻るという行動を意味もなく繰り返した。
「はるか、俺は……!」
駿太が意を決した様にそんな台詞を口にした瞬間。
「それでさ、ありえないだろ?」
「マジか、キツイな、それはっ!」
「ははは、ありえねー」
ドキリとしてしまう。
私の背後、1階の方向から、男子の集団が大声で話す声が近付いて来たのだ。
駿太が思わず言葉を呑み込むのが気配でわかった。
「……きょ、教室に戻るか! 奈々子が戻って来ているかもしれないしな!」
「……うん、戻ろっか」
階下から男子たちの気配が近づいて来ると、駿太とはるかが足早に立ち去っていく。
私は一瞬、2階に行こうか1階に戻ろうか迷ってしまったけど、今は駿太やはるかと出くわしたくないので、そのまま下に戻ることにした。
駿太も色々と私たちの事を考えてくれているのだ。
私は……。
スカートを揺らして階段を下りながら、私はそっと目を伏せた。
その日の6限目は、寺島くんが言っていた通り、文化祭で私たちのクラスが何をするのかを決める為のホームルームだった。
田邊先生が窓際に座り、委員長が壇上に立って議事進行役を務める。
予定通り寺島くんから演劇の提案があり、他にもたこ焼きの模擬店とか喫茶店とか無難に夏休みの自由課題の展示とか、様々な意見が次々と出されていった。
クラスメイトのみんなは、初めての高校の文化祭にやる気満々の様子だった。高校の文化祭は、中学と比べて規模が大きくなる上に、この秋陽台高校では近隣の高校の中でも特に盛大に行われるらしいから、みんなの期待も自然と高まっているのだと思う。
しかし私は、そんな話し合いには積極的に参加せずに、自分の席で静かに沈黙していた。
シャツの上に着たセーターの袖を伸ばしてその上に顎を乗せて頰杖を突くと、黒板を眺めながら、時々ちらりとはるかの席を窺う。
はるかは、昼休みもその後も、一見普通にしていたけれど、ふと難しい顔をして何かを考え込んでいる姿がちらちらと見受けられた。
多分、駿太の話に思うところがあったのだろう。
これではるかが、花結びの訓練に前向きになってくれればいいなと思う。はるかが、私ではなく駿太の説得で考えを改めるというのには少し悔しい部分もあるけれど、それで状況が良い方向に向かってくれれば、もちろん文句なんてあるわけがない。
そういえば、階段でのやり取りを聞いた後に駿太にも会ったけれど、駿太は何だかげんなりと脱力し、疲れ切っている様子だった。まるで、大きな勝負を終えて燃え尽きてしまったかの様に。
きっと告白しようとして力を振り絞り、 結局不発に終わった事で気力とエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。
私は労いの意味を込めて、駿太の広い背中をポンポンと叩いておいた。
駿太は、不思議そうに私を見ていたけれど。
寺島くんの根回しが功を奏したのか、投票の結果、私たちのクラスの出し物は演劇に決まった。
秋陽台高校の文化祭では、全学年の全クラスの内、3クラスが体育館のステージに何か出し物をするという事が決まっているらしい。私たちのクラスはそこに立候補する事になるが、例年ステージを希望するクラスは少ないらしく、多分私たちのクラスの希望は通るだろうと田邊先生は言っていた。
一応ステージ枠の抽選に外れた場合の代案も決まったのだけれど、それよりもクラスの関心は、演劇の演目とその配役へと移って行った。
演目は、驚いた事に寺島くんの書いたオリジナルの脚本があるらしい。
どうやら寺島くんは密かにお話を書いていて、それを文化祭でやってみたいが故にみんなに演劇がやりたいと話していた様なのだ。
寺島くんが少し恥ずかしそうに説明してくれたそのお話は、剣と魔法のあるファンタジー作品だった。
その粗筋を聞いて、クラスのみんなからもその脚本で行く事に同意の声が上がる。ロミオとジュリエットとかシンデレラとか、ありふれたものよりもオリジナルの方が面白いだろうという意見が出されていた。
脚本が採用されて、寺島くんはほっとした様に笑っていた。
寺島くんのお話では、主役は騎士とお姫様、そして最初は敵だけど最後には仲間になる魔法使いの3役があるみたいだった。
具体的な役の話になると、俄かにみんなが目を輝かせてざわつき始める。
多分みんな、今まで本格的な劇を演る機会なんてほとんどなかった筈だ。反対した生徒も含めて、みんな密かに演劇に興味津々なのだ。
騎士は誰がいいとか、自分は何がやりたいとか、一気に広がるお喋りに、委員長が「静かにして下さい!」と声を上げて火消しに奔走する。
ちらほらと周囲からは、メインヒロインであるお姫様役には、久条はるかさんがいいという声が聞こえて来た。
そこでふと私は、先程駿太が言っていた事を思い出した。
はるかが女の子である自分をきちんと受け入れられたら、その考え方も変わるかもしれない、という事だ。
はるかが私や駿太の側にいられない理由として上げたのは、女の子であるはるかになってしまった事だけではない。
アミリアさんの弟子になって、不思議な力を扱う事なんて出来る筈がないとも思っている事も大きいのだ。
違う世界の存在とかそういうのはわからないけれど、はるかが私たちの世界に留まるためには、アミリアさんの弟子に採用してもらえる事が条件だ。だから、あの花結びの組紐を自由に扱える様にならなければならない。
まるで、魔法使いみたいな不思議な力を駆使して。
……無駄かもしれないけれど、はるかが気持ちを切り替える切っ掛けになる可能性があるならば。
その切っ掛けに少しでもこの文化祭の劇を利用する事が出来たなら、練習とか、演劇に取られる時間も決して無駄にはならないと思う。
ならば、はるかに相応しいのは、お姫様役じゃない。
私は一瞬だけ手をぐっと握り締め、目を細めて逡巡する。
しかし次の瞬間には、心を決めていた。
私は、すっと手を上げた。
「はい、はい、静かにして下さい! じゃあ、発言は挙手でお願いします! はい、水町さん、お願いします!」
委員長が必死に声を張り上げながら、私を指名した。
私はすっと立ち上がる。
みんなの視線が、私に集まる。
私は少し驚いた顔をしてこちらを見上げるはるかを一瞥してから、前方の黒板を見据えた。
「私は、魔法使いの役に久条はるかさんを推薦したいと思います」
簡潔に明確に。
私はそれだけを告げると、ガタリと椅子を鳴らして席に着いた。
視界の隅に、大きな目をさらに丸くして驚いているはるかの姿があった。
そちらに向かって、私はふっと笑顔を送る。




