第19話 暗中模索
ヒグラシが盛んに鳴いていた真夏の夕方に比べると、ほんの少しだけ日が短くなったかなと思える放課後。
体育祭へ向けての準備は、大詰めを迎えていた。
私とはるかは、私たちのクラスが受け持つスコアボードの作成を手伝いながらリレーの合同練習にも参加しなければならず、ばたばたと慌ただしく動き回る毎日を過ごしていた。
耳をすませば微かに気の早い秋の虫の音が聞こえてくる中、家に帰り着いた時には辺りはもう真っ暗になってしまっている。
最近はずっとそんな日が続いていたけれど、しかし今日はいつもと少し違う事があった。
駿太と別れて家に向かう私の背後からは、はるかが付いて来るのだ。
お互い色々と忙しくて疲れているし宿題もしなければならないし、あまり遊んでいる時間なんてない。それでもはるかは、淡々と私に付いて来て、とうとう家にもやって来て、気が付くと私の部屋で落ち着いていた。
はっきりとは言って来ないけれど、どうやら私と話がしたいらしい。
私はカバンを置いて一度階下のキッチンに下りると、ジュースと簡単なお菓子を用意して部屋へと戻った。
はるかは私のベッドに背中を預けて膝を立てて座ると、芝犬の頭型のクッションをぎゅっと抱き締めてじっと正面の壁を睨み付けていた。
私はテーブルの上にジュースとお菓子を置くと、別の芝犬クッションの上にうんしょと座る。
はるかの前で私だけ着替える訳にもいかなかったので、とりあえず今は制服のタイを外して胸元を緩めておくだけにした。
「帰らなくていいの?」
はるかが話しを始める気配がなかったので、私から話し掛けてみる。
しかしはるかは、うーん、まぁなと難しい顔をして生返事を返すだけだった。
私はそっと溜息を吐いてから、今のうちに宿題をしてしまおうとカバンを引き寄せる。
はるかはベッドからずり落ちる様にころりと横になる。そして柴犬枕に顔を埋めて、うーうーと唸り始めた。
「……どうしたの」
私はノートを広げながら、取りあえずはるかに声を掛ける。
……何だかはるかが、話を聞いて欲しそうにしていたから。
「……えっとな、最近、駿太が俺の事を女扱いしてくるんだ」
隣でごろりと仰向けになったはるかは、今度はぼそりと話を始めた。
私は、ちらりと寝転がったままのはるかを一瞥した。
スカートを気にせずゴロゴロするものだから、裾がめくれて白い太ももが露わになってしまっている。
中身が遼だからか、今は同性の私しかいないからか、あまりに恥じらいがないというか気が抜けているというか……。
「駿太が私たちに優しいのは、いつもの事でしょ」
駿太の気持ちを知っている私からすれば、駿太がはるかを女の子と見なし始めているのをわかっているから、はるかの言葉は的を射ていると言う事が出来る。
でももちろん、私の口からそれは言えない。
とりあえず今は、何でもない事の様に軽く受け流しておく事にした。
「そうかなー」
はるかが天井を見上げながら、むーんと唸った。
「この間のリレー練習の後、俺はあいつに宣戦布告したつもりだったんだけどな。こちらとしては、ナナの事なら喧嘩でもしてやるってつもりだったんだけど……」
……私の事なんかで、喧嘩はしないで欲しい。
私ははるかの方は見ずに、平静を装いながらノートをじっと見つめる。
そんな私の心の中なんてお構いなしに、はるかは坦々と話を続けた。
「俺としては駿太とバチバチしているつもりだったんだけど、あいつ、全然普通に近付いて来るんだよな。この前も俺が先生に頼まれて授業で配る資料運んでたら、急に手伝うって全部代わりに運んでくれたし」
はるかはうんしょと体を起こすと、抱き締めたままの芝犬枕に顎を乗せて、空中を睨み付ける。
「この間の昼も、多分ナナがいない時だったけど、駿太の奴ふらりと現れたかと思うと、デザートだって言って大福くれたんだよ。……美味しかったけど」
はるかは、ふうっと溜息を吐いた。
……駿太、はるか相手にどう対応したらいいかわからないと悩んでいるのかと思ったら、いつの間にか地味に積極的になっているみたいだ。
私は、シャーペンのおしりを顎先に当てながら、はるかに対して「ふーん」と相槌を打つ。
もしかして駿太は、例のリレー勝負で自分の想いを告げると決めて、開き直ってしまったのだろうか。
……もしも駿太が勝負に勝ったら、その告白を聞いて、はるかはどんな反応を示すのだろう。
その時私は、どうしたらいいのだろう……?
私はノートを睨み付けたまま、きゅっと眉をひそめた。
「なあ、ナナ、聞いてるか? なあー」
はるかが、抱き締めた柴犬枕に体重を乗せて、私の方に身を乗り出してくる。
黙っていれば才色兼備のお嬢様然としたはるかがそうやって子供っぽい仕草をしていると、何だか微笑ましくなってしまって、私はふっと笑ってしまった。
……まあ、今からあれこれ妄想しても仕方ないか、と思う。
人の考えや関係性は、ふとした事から突然変わってしまうものだ。その時その場で、どうなるかなんてわからない。それはここ半年の間で、私や駿太やはるかが身をもって実感している事だ。
はるかは遼なのだという事を、いつの間にか受け入れていたみたいに……。
「……うーん」
はるかがその大きな目で天井を振り仰ぎ、動きを止めた。
「やっぱり俺、女子として扱われているのかな?」
納得がいかないという様な表情を浮かべるはるか。
何を今更言っているのだろう、この子は。
私は特に返事はせず、はるかにもわかる様にふうっと溜息を吐いた。そして、そのまま宿題へと戻る。
その後もはるかは、私の周りでごろごろしながら、駿太の事やクラスメイトやその他周囲のみんなについて、ぶつぶつと話を続けていた。
驚いたのは、夏前の騒ぎに続いて、再びはるかがラブレターをもらうという事態が発生していたらしい事だ。
今度は、自力でお断りしたみたいだけれど……。
……はるか、もてるんだ。
何だかかんだとはるかに邪魔されながらもやっと宿題を終えた頃、階下から私を呼ぶお母さんの声が聞こえて来た。
その時には既にはるかは、一方的に話をするのに飽きたのか仰向けに転がって携帯をいじっていた。
私ははるかを残してリビングへと向かった。
キッチンから、ふわりとお味噌汁の良い匂いが漂って来る。同時に揚げ物をするジュワジュワという微かな音も聞こえて来た。
そういえば、お腹空いたな。
キッチンに立つお母さんの用件は、はるかも一緒に晩御飯を食べていくのか、というものだった。
昔から私も駿太も遼も、それぞれのお家でご飯を一緒にする事がよくあった。そのため私の家でも、食卓に私の友達を招く事にあまり抵抗がないみたいなのだ。
莉乃も前に来たことがあるし。
私ははるかに確認を取るべく、部屋へと戻った。
ガチャリとドアを開ける。
む。
そこで私は、一瞬動きを止める。
先程まで転がっていた場所にはるかがいない。
何故かはるかは、私のベッドの上で寝転がっていた。
それも、とても満足そうな幸せそうな顔をして。
「……はるか?」
「は!」
私が声を掛けると、一瞬の間の後、はるかは勢い良く体を起こした。
長い黒髪が、ふわりと舞い上がる。
私と目が合ったはるかの顔が、みるみる内に真っ赤になって行く。
「ち、違うんだ、これは! 俺、何だか眠くて眠くて、それでナナのベッドが凄い気持ち良さそうで、良い匂いがするし、つい……」
ぶんぶんと勢い良く手を振りながら、しかし尻すぼみに声を小さくしていくはるか。
しばらくの沈黙の後、おもむろにベッドを下りたはるかは、テーブルの前で正座した。
「……その、勝手にごめん」
はるかは、もじもじと居心地悪そうに視線を落とした。
「別にいいけど」
私はふっと息を吐く。
「それより、お母さんがご飯を食べて行くかって。久しぶりにどう?」
はるかとしては初めてだけど、遼としても私の家でご飯を一緒に食べるのは久しぶりの筈だ。
私の言葉を聞いた瞬間、はるかは勢い良く顔を上げた。そして、ぱっと周囲の空気が華やぐ様な輝く笑顔を浮かべた。
「え、いいのか? やった!」
両手を合わせて僅かに首を傾げ、微笑むはるか。
その姿は同性からみても可憐で、告白したくなる男子の気持ちが少しわかってしまう。
……中身は、遼なのに。
「その代わり、ご飯食べたら花結びの練習するからね。駿太はいないけど」
私ははるかの笑顔に吊られてこちらも笑ってしまわない様に、ぐっと顔を引き締める。
夏休みが終わってしばらく経つのに、花結びの紐を操るというアミリアさんの課題は、未だ何の進展もない状況だった。
体育祭の練習が始まってはるかと駿太が勝負だと言い出してからは、練習する機会自体も少なくなってしまっているし。
時間なんてあっという間に無くなってしまう。このままではいけないと思うのだけれど……。
「おばさんのご飯、久しぶりだな!」
こちらの気持ちを知ってか知らずか、はるかが上機嫌そうにうんっと伸びをした。
その能天気な様子に、私は今度は耐え切れずにふっと笑ってしまった。
ご飯の後、一度自宅に、遼の家に戻って私服に着替えたはるかは、再び私の部屋にやって来ると約束通り花結びの訓練を始めた。
アミリアさんの説明を聞いている限り、イメージとしてはゲームや漫画の魔法みたいに、はるかの中にある魔素の力をこの紐に流し込んで操る、という事みたいなのだけれど……。
姿が女の子になってしまったという事以外、はるかは普通の人間なのだ。そんな特殊能力の扱いなんて、多分想像もつかないのだと思う。
それは、私だってそうだった。
はるかには口うるさく訓練訓練と言っているけれど、魔法の使い方なんて指導出来る訳がない。
遼の、はるかのお姉さんとしては、不甲斐ない限りだけど……。
着替えたといっても、上は遼の使っていたダボダボのパーカー、下は制服のスカートのままのはるかは、私の部屋の真ん中で花結びを手に乗せ、ううっと力を込めていた。
下がスカートのままなのは、アミリアさんの秘密の庭に帰る時に、ズボン姿だとあまりいい顔をされないかららしい。
それならば今日のところは、いっそ遼の家に泊まって行けばいいと思うのだけど、アミリアさんからは必ずあのお屋敷に帰って来る様にときつく注意されているそうだ。
はるかも、色々大変だなと思う。
こちらも私服に着替えた私は、再びジュースやお菓子を差し入れしてあげる。大変だと思うからこそ、こうして一緒になって色々考え、エールを送って精一杯はるかを励ましているのだ。
しかし結局、はるかは花結びを投げ出してばふっと芝犬枕に倒れ込んでしまった。
こうなってしまっては、後はもうグダグダだ。
またあれこれと学校の話や昔の思い出話をする事になり、訓練に集中出来ないまま、夜はどんどんと更けて行ってしまった。
会話が途切れて、ふと静かだなと思うと、はるかはベッドに持たれ掛かったままとろんとし始めていた。
疲れているのか、はしゃぎ過ぎたのか、随分と眠そうだった。
「はるか、帰るんでしょ。起きないと」
今日はここまでみたいだ。
私は肩を揺すってみるが、はるかはうーんと唸るばかりだった。
「はるかー」
繰り返し呼び掛ける。
……その、遼であるという事はこの際忘れるとして。
別にはるかを泊めてあげる分にはいいのだけれど、アミリアさんとの約束を守らないというのは、凄くダメな事だと思うのだ。あの人の言葉を軽んじると、何だか大変な事になりそうな気がする。
何度も何度も呼び掛けて、やっとはるかが起きてくれた。
もちろんそのまま帰る事になったのだけど、はるかの足取りはどこか覚束なくて危なっかしかった。
夜も遅い時間になってしまったし、私ははるかを送って行く事にした。
はるかと一緒にリビングに下りてその旨を説明すると、お母さんはあまりいい顔はしなかった。
「奈々子、こんな遅い時間に2人だと危ないでしょ。お父さんに送って行ってもらったら?」
お母さんは、心配そうな声を上げる。
……私では力不足か。
でもお父さんに秘密の庭の事を知られたくない。
私はしばらく悩んでから、はっといい方法を思い付いた。
「あ、じゃあ駿太に送ってもらう!」
あいつならデカいし、防犯上もばっちりだろう。
寝てるか勉強してるかわからないけれど、はるかがいると分かれば直ぐに来るだろうし。
お母さんも、駿太ちゃんならと納得してくれた。はるかは微妙な表情をしていたけれど、眠気が優ったのか、特に何も言って来なかった。
寄り道せず直ぐに帰って来なさいとお母さんに送り出されて、私たちは家を出た。
昼間とは違って秋の気配が濃くなった夜の空気が、私たちを包み込む。周囲はしんと静まり返っていて、点々と灯った街灯と家々の明かりだけが浮き上がって見える町並みは、良く見知っている筈なのにどこか違うものに見えてしまうから不思議だ。
遠くの国道から、車の音が聞こえてくる。
微かに、秋の虫の音も響いていた。
「大丈夫、はるか」
表の通りに出ると、私はふらふらと後を付いて来るはるかを見た。
「うーん、ごめん。何だか異様に眠くて……」
完全に目が覚め切っていないのか、はるかは口に手を当てて欠伸を噛み殺している。
うちの家の門灯のせいか、こころなしかその顔は青白く見えてしまった。
……随分と疲れているみたいだ。
私は、携帯で駿太を呼び出す。
案の定駿太は、直ぐに家から出て来た。
Tシャツに短パンという部屋着のままの駿太が、私たちのもとに駆け寄って来る。
私が事情を説明すると、駿太はああと簡単に了解してくれた。
「悪いな、駿太」
はるかも眠そうにしながら、駿太に苦笑を向ける。
勝負だなんだと言っていても、別に真正面から喧嘩してる訳ではない。私たちの関係は、基本今まで通りだ。
私たちは、今日の秘密の庭の入り口を目指して歩き始める。
でもどうしてもはるかの歩き方が危なっかしくて、なかなか進まない。
「もう、駿太、おんぶしてあげたら?」
一旦立ち止まった私は、腰に手を当てて駿太を見た。
このままだと、寝ぼけたはるかが電柱にぶつかるとか側溝落ちるとか、大惨事になりかねない。
「え!」
一瞬固まった駿太が、急に動揺し始めた。
「い、いや、ほらっ!」
駿太なら、はるかを背負うくらい楽々だろう。
駿太はデカいし、はるかは軽そうだし。
はるかの方にも特に異論はない様子だったので、私は戸惑う駿太をしゃがませてはるかを背負わせた。
「うお、軽いな、それに、柔らか……」
はるかをおぶった駿太が、ぶつぶつと何かを言っている。
「に、匂いが……髪が……!」
まったく、変にふざけてはるかを落としたら、どうするつもりなのだ。
私は真面目にやれという意味を込めて、半眼で駿太を睨み付けた。
はるかは、駿太の背中で直ぐに寝てしまったみたいだ。やはり、よっぽど眠かったのだろう。
しばらく黙々と歩いていると、駿太も慣れたのかだんだんと静かになってきた。
「はるか、疲れてるんだな」
夜の街に、駿太の声と私たちの足音が静かに響く。
「そうだね」
私は、さっと髪を払って駿太を一瞥した。
「こんな時間までお前ら、何してたんだ?」
「まぁ、色々とね。体育祭の事とか、色々あるから」
駿太に対する愚痴を聞いていたとも言えないので、私は適当に誤魔化しておく。
「……そうか。こいつ、変なところで真面目だからな」
駿太は、何だか自分が褒められたみたいに嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私は胸がきゅっとするのがわかった。
友達としてなのか兄弟としてなのか、もしくは片思いの相手に対してなのかはわからなかったけれど、確かに駿太は、はるかの事を大切に思っているんだなというのがわかってしまったから。
その駿太とはるかの親友として、そしてお姉さん役として、私はこの3人の関係をどう思っているのだろう。
改めてそう考えてしまうと、胸がきゅっとなってしまう。
……1つ確かなのは、私を取り巻く私の世界が、今まさに急速に変化しようとしている事だ。
「……一生懸命なのはわかるけどさ」
私は様々な思いが湧き上がって来る自分の内側から目を背ける様に、わざと明るく声を上げた。
「はるか、アミリアさんの課題に対してはイマイチ乗り気じゃないみたいなんだよね。タイムリミットもあるっていうのに。今度、駿太からも注意してあげてよ」
そっと軽く肩をすくめ、私はるかと駿太を一瞥する。
直ぐそうだなという同意の返事が帰って来ると思っていたけれど、しかし駿太は、そこでじっと押し黙ってしまった。
私は、んっと眉をひそめて駿太の顔を窺った。
「……はるかが奈々子に告白するって決めた時、はるかは事前に俺に相談に来たんだ」
たっぷりの間を置いてから、駿太が口を開いた。
「相談というか、俺より先に奈々子に告白する事を断わっておくというか、多分それがこいつなりの俺に対するケジメだったんだと思う」
告白された時の事を思い出すと、今でもカッと顔が熱くなってしまう。今直ぐ大声を出して駿太の話を遮ってしまいたくなるが、なんとかそれは我慢する。
「はるかが告白を決意した切っ掛けは、自分が告白されて恋愛っていうものを強く意識したせいもあるんだろうけど、ぼそりともう自分には時間がないって言っていたのも大きな理由だと思うんだ」
時間がない……。
その言葉の重みが、私の背に覆いかぶさって来る。
でも、だからこそアミリアさんの課題をきちんとこなして、こちらの世界に留まれる様にしなければならないと思うのだ。
「だから……」
「俺が思うに、こいつは、はるかは、初めからこのまま俺たちの元に残るのを、諦めているんじゃないかな」
私が言うよりも早く、駿太がぼそりと呟いた。
えっ……。
一瞬駿太の言った事がわからず、私は思わず立ち止まってしまう。そして、まじまじと駿太を見る。
こちらより僅かに先に行ってしまった駿太も私が止まったのに気が付き、歩みを止める。そして、振り返った。
「……何言ってるの、駿太」
私は、キッと俊太を睨み付けた。
「ああ、そうだな、何て言うか……。ちゃんとはるかに確認した訳じゃないけど、はるかは、遼じゃなくなった自分が、昔の通り俺たちと一緒にいる事は無理なんだと思ってるんじゃないかな。もう自分は、はるかという女になってしまったからって。だから、アミリアさんからもらった1年間だけはまた俺たちと一緒に過ごして、後は……。そう思っているから、俺たちのところに残る為の訓練より、今を精一杯満喫したいって思ってるんじゃ……」
「何それ」
ボソボソと低い声で話す駿太の言葉が聞いていられなくて、思わず私は強い調子の声を上げてしまった。
あまりにも冷ややかで攻撃的な声音に、私自身もびくりとしてしまう。
でも……!
「……折角帰って来てくれたんだよ。確かにはるかになってしまったけど、あの遼が、私たちのところに! なのに、またいなくなるなんて、遼が、はるかがそれを望んでいるなんて、そんな!」
声が震えてしまう。
体の奥から熱いものが込み上げて来る。
もう手の施し様がないとか、何も方法がないというのならば、まだ諦めも付く。でも、例えそれが曖昧模糊で眉唾な話であっても、はるかが私たちのもとに留まれるという方法はあるのだ。
それを諦めてしまうなんて……!
視界がぐにゃりと歪んでしまう。
こらえ切れなくて、ぽろりと熱い液体が頰の上をこぼれ落ちた。
「な、奈々子! 悪い、そんなつもりじゃ……俺!」
駿太が、慌てた様に声を上げる。
私は大きく息を吸い込んで、乱暴に涙を拭った。
きゅっと唇を引き結ぶ。
……今の話は、駿太の推測に過ぎないのだ。それに熱くなってしまうなんて、私とした事がなさけない。
でも、駿太は人を良く見ている。駿太の観察眼を馬鹿には出来ないという事は、長年の経験からわかっている事でもある。
……だから余計に、駿太が口にした事に腹が立つのだ。
おろおろと子供みたいに狼狽える駿太を一瞥して、私は足早に歩き始めた。
「……行くよ、駿太。早くお屋敷に帰してあげないと、はるかがアミリアさんに怒られちゃう」
「あ、ああ」
はるかを背負った駿太が足早に私を追い掛けて来るのが、足音と気配でわかった。
それから特に話をする事もなく、私たちは黙々と歩き、アミリアさんのペンダントの導きによって秘密の庭にたどり着く事が出来た。
微かな虫の音と火照った体には心地良い空気がしんしんと降り積もる秘密の庭は、穏やかな夜の中、既に寝静まっているみたいだった。
周囲の木々のシルエットが、秘密の庭を取り囲む暗幕の様だ。
空には月はなく、見渡す限りこぼれ落ちて来そうな程の無数の星々が瞬いていた。
そんな夜の秘密の庭を石畳の道に従ってお屋敷に向かって歩いていると、やがて前方から淡い灯が見えて来る。
そこでふと私は、お屋敷の鍵が閉まっていたらどうしようと思ってしまった。
アミリアさんや使用人さんが、起きてくれていればいいけれど……。
鍵が開かなければ、最悪はるかを起こすしかない。気持ちよく眠っているところ申し訳ないけれど、アミリアさんたちを起こしてしまうよりはいいだろう。
しかしそんな私の心配は、杞憂に終わってしまった。
お屋敷の全景が見えたところで、ちょうどそちらから歩いて来るアミリアさんとばったりと出くわしたのだ。
「あ、こんばんは」
私は慌てて頭を下げた。
はるかを背負っている駿太は、そっと会釈する。
「こんばんは」
夜に溶けてしまいそうや黒いドレスを身に付けたアミリアさんが、僅かに首を傾げて挨拶してくれた。
夜道でばったりと出くわしたというのに、アミリアさんに驚いた様子は一切なかった。はるかを背負っている駿太を一瞥しても、特にその表情に変化はない。
私が事情を説明し、はるかを送って来た事を告げると、アミリアさんは目を瞑ってふっと息を吐いた。
「帰りが遅いと思っていたら、まったく、しょうがない子だな」
ゆっくりと近付いて来たアミリアさんが、そっと背伸びをして駿太の背中のはるかを覗き込んだ。当然背丈は、駿太の方が圧倒的に高いから。
はるかを見たアミリアさんが、僅かに眉をひそめる。
「ナナコ。ハルカは明日学校を休む。もしくは、もうしばらくか。その旨、了解しておいてほしい」
「え?」
私は目を丸くしてまじまじとアミリアさんの顔を見た。
学校を休むなんて、どうして……。
「シュンタ、ナナコ。悪いが、ハルカを部屋に寝かせておいてもらえないか。もしハルカが目を覚ましたら、私が戻るまで、部屋で大人しくしているようにとも伝えておいて欲しい」
アミリアさんは抑揚のない声でそう告げると、ふわりとクラシカルなスカート翻して私たちに背を向けた。
「あの、アミリアさんは、どこかに行かれるんですか?」
それだけで話は終わりらしく、それ以上何も説明する事なく立ち去ろうとするアミリアさんに、私は思わず声を掛けてしまった。
アミリアさんが顔だけで僅かに振り返り、私たちに視線を送る。
「君たちの町で、また越境者が出現した。仕事だよ。まったく、最近多いものだ」
越境者。
あの日置山の怪鳥や、神社の森の白馬みたいな……。
私と駿太が息を呑んで凍り付く。
そんな私たちにハルカを頼むと声を掛け、アミリアさんは夜闇の向こうへと消えて行った。




