第17話 気が付いた事は
大木に囲まれた暗い森の底に、赤い光の鎖で縛り上げられた白馬が宙吊りになっている。
それはまさに今私が目にしている光景に間違いないのだけれど、でもやはり、とても現実に起こっている事には思えなかった。
赤の光に絡め取られた巨大な白馬は、何とか自由になろうと身をよじりながら、怒りと苦痛の滲んだ唸り声を上げていた。
それはまるで、地面の底から響いているかの様な低く恐ろしい声だった。
唖然として身動き出来ない私たちとは対照的に、特段白馬の方を気にした風もなく、黒のドレスに身を包んだアミリアさんがゆっくりとこちらにやって来る。
巨大な角と翼付きの白馬と同じくらい信じられない事だけれど、あの赤い光の鎖を操って巨馬を縛り上げているのは、どうやらアミリアさんみたいなのだ。
「さて、どうしてこの場所にハルカたちがいるのかな?」
森の中に、落ち着き払ったアミリアさんの声が響く。
私は何か言おうと口を開くけど、あまりに信じられない様な事が目の前にあって、上手く話す事が出来ない。
困惑しているのは駿太も同じだ。
ただはるかだけが、なんとか「アミリア先生……」と呟いていたけれど。
アミリアさんはそんな私たちの状態などお構いなしに、じっとこちらを見据えていた。その威圧的な光を放つ緑の瞳が、少し恐ろしく思えてしまった。
アミリアさんは不意に立ち止まると、肘を抱く様に腕を組み、空中に吊されている白馬の足元に視線を向けた。
「ふむ。どうやら彼女を助けに来たという事かな」
白の巨馬の下には、中崎くんの妹の真理亜ちゃんが倒れていた。白馬に咥えられていた真理亜ちゃんは、先程その馬が咆哮を上げた時に、地面に落とされてしまったのだ。
……くっ!
私は、ギリッと奥歯を噛み締める。
「真理亜ちゃん!」
ここでじっとしている場合じゃない。
アミリアさんの突然の登場に目を奪われてしまっていたけれど、まずは真理亜ちゃんを助けなくてはならないのだ。
真理亜ちゃんは動かない。
トクトクと胸の鼓動が早くなる。
嫌な予感が、想像が脳裏を過る。
私はガクガクと震えて力の入らない足に力を込めて、真理亜ちゃんの元に駆け出した。
「ナナ、待て! 俺が行く!」
しかしそんな私の側を、さっと紺色の浴衣に身を包んだはるかが追い越した。
先程まで固まっていたのが嘘に様に、飛ぶ様に真理亜ちゃんの元に向かって走るはるか。黒髪が、浴衣の袖が、ふわりと舞い上がる。
そんなはるかを、恐ろしい金色の目で睨み付ける白馬。
まるではるかを威嚇するかの様に、白馬が咆哮を上げた。
大気が震える。
あまりの大音声に、耳がキンっとする。
私は思わず耳を押さえてぐっと立ち止まってしまうが、はるかは臆する事無く真っ直ぐ真理亜ちゃんのもとへと走り続けた。
「はるか!」
駿太が叫び、はるかを追い掛ける。
はるかは、スライディングをするみたいに白馬の下に滑り込むと、倒れている真理亜ちゃんに手を掛けた。
真理亜ちゃんの体を抱き起こそうとしながら、頭上の白馬を警戒するはるか。
金の双眸をギラつかせ、白馬がはるかを睨み付ける。
「……ふむ」
その時、はるかたちを見つめるアミリアさんが、小さな声で何か言った様な気がした。
次の瞬間。
「えっ……」
ビリっと布が避ける様な音がして、白馬の首を固定していた赤の鎖が千切れた。
私は呆然とする。
首だけとはいえ自由を取り戻した白馬は、手近な目標、つまりその巨躯の下で真理亜ちゃんを助け起こそうとしているはるかに向かって、ぐわっと口を開いたのだ。
再び強烈な咆哮が響き渡る。
白馬は、ぐんっと勢いよく首を伸ばした。
そのまま、はるかに噛み付くために。
「はるか!」
「はるかっ!」
私と駿太が同時に叫ぶ。
はるかは、咄嗟に両手を広げて真理亜ちゃんの前に立ち塞がった。
多分、今からでは真理亜ちゃんを連れて逃げられないと判断したのだろう。
白馬が、はるかを食べてしまう……!
そう思った瞬間。
白馬の巨大な頭は、はるかの体に到達する寸前、見えない壁にぶつかったかの様に弾かれた。
私も駿太も、そしてはるかも、何が起こったのかわからない。
しかし。
安堵する間もなく、再び白馬が大きく首を振り上げる。
「はるか、退がれ!」
駿太が絶叫し、はるかに向かって突撃する。
くっ!
私は咄嗟に、近場に落ちている枝と小石を拾い上げた。
「この、こっちだっ!」
私も声を張り上げる。そして、白馬の気を逸らす為に、枝と石を投げ付けた。
枝は上手く行かず、明後日の方向に飛んで行く。でも石は、ペチッと白馬の胸に当たった。
当たった!
的が大きくて良かった!
白馬がギロリと私を睨む。
うぐ……!
気を引く作戦は的中したのだけれど、こちらを睨む白馬の威圧感に、思わず私は一本後退ってしまった。
私が白馬の気を引いた一瞬の隙に、駿太が真理亜ちゃんを抱え上げるのが見えた。
駿太はそのまま、はるかの手を引いて白馬から離れる。
取り敢えずは、これで大丈夫か……。
そう思って私がほっと息を吐いた瞬間。
白馬が咆哮を上げた。
私に向かって。
その鳴き声は、物理的な圧力を持っているかの様に私へと押し寄せて来た。
恐怖で頭の中が真っ白になる。
足の力が抜けて、思わず私はその場にへたり込んでしまった。
「ナナっ!」
はるかが叫ぶ。
白馬は、今度は首を伸ばして私へと迫ってくる。
足に力の入らない私は、必死にその金の目を睨み返す事しか出来ない。
視界の隅に、駿太の腕を振り払い、こちらに駆けて来るはるかの姿が映った。
同様に、これまで事態を静観していたアミリアさんがさっと腕を振るのも。
次の瞬間。
再び四方から伸びて来た赤い光が、白馬の頭を完全にぐるぐる巻きにしてしまう。
口を開ける事も出来ず、もがく白馬。
さらに飛び出した赤の光の帯に、その巨体は瞬く間に絡め取られていく。
「ここまでだな。元いた場所へ還れ」
鳴き声も上げられず、その巨体をよじるだけの白馬に、アミリアさんの感情の窺えない問答無用の宣告が突き付けられる。
赤い光は、じわじわと広がっていく。私が呆然と見上げる目の前で、あれ程大きかった白馬の体をまるまる包み込んでしまう。
「ナナ!」
走って来たはるかが、うずくまる私を助け起こしてくれる。
はるかはそのまま私の手を引いて、駿太と真理亜ちゃんの所まで退がった。
私は駿太やはるかと並ぶと、そこでやっと深く息を吐くことが出来た。そしてきゅっと目を瞑ってもう一度深呼吸してから、改めて白馬の方へと向き直った。
「これは……」
「ああ。あれがアミリア先生の力か……」
目の前で起きている事に思わず呟いてしまった私に対して、驚きと恐れの滲んだ声ではるかが返事をする。
赤い光の塊は、白馬を締め上げたまま少しずつ小さくなり始めていた。
まるで、中の白馬を潰して無くしてしまおうとするみたいに……。
そんな光を背にして、改めてアミリアさんが、ゆっくりとした歩調で私たちのもとにやって来る。
「ふむ。その子供はまだ喰われていなかった様だな」
私たちの前に立ったアミリアさんが、鋭い目つきで真理亜ちゃんを一瞥した。
真理亜ちゃん、無事なんだ……。
私は、アミリアさんの言葉にほっと息を吐いた。
この白馬や今まさに目の前で起こっている事について色々と聞きたかったけれど、今は真理亜ちゃんが無事だった事への安堵感の方が大きかった。
「アミリア先生……」
はるかが一歩、アミリアさんの前に進み出る。
アミリアさんは、無表情のままはるかに向かって頷き掛けた。
「話はまた後にしよう、ハルカ。その子供を元の世界に戻す役目は頼めるかな?」
今度ははるかが、こくりと頷いた。
僅かに目を細めたアミリアさんは、ひらりとドレスの裾を翻して踵を返した。そして、赤い光の塊と化した白馬を見上げる。
既にその大きさは、人間くらいなってしまっていた。
「この獣を送還すれば、直にこの境界の森も閉じる。今来た道を戻り、去れ。ハルカなら、帰り道がわかるだろう」
振り向かず、有無を言わさぬ口調で告げるアミリアさん。
言外にこの場はここまでだという雰囲気を漂わせるアミリアさんの背中に、私も駿太もはるかも何も言う事が出来なかった。
むしろ私は、アミリアさんの言う通りに一刻も早くこの場から立ち去って、元居た場所に、お祭りの会場に帰りたいと思ってしまった。
しかしはるかは、私と繋いだ手にぎゅっと力を込めてしばらくの間アミリアさんの背中と赤い光の塊をじっと睨み付けていた。
そういえば、先程はるかに助け起こしてもらった時から、私たちはずっと手を握りっぱなしだった。
はるかが遼なんだと考えれば、普通は恥ずかしくてこんなに手なんか繋いでいられなかったと思う。
……でも今は、この手を離す事が出来なかった。
今はるかから伝わって来る温もりが離れてしまっては、私はこの場で立っていられる自信がなかったから……。
「……行こう。真理亜ちゃんを中崎くんのところへ連れて行かなくちゃ」
前を向いたまま、はるかが静かに告げる。
私とはるかと駿太はそっと視線を交えて小さく頷き合うと、その森の中の広場を後にした。
夏休みも後半となった日のお昼下がり。
私と駿太は、アミリアさんの秘密の庭に集まって、はるかと一緒に夏休みの宿題の仕上げに取り掛かっていた。
私たちははるかの部屋ではなく、お屋敷正面の庭に向かったテラスの大きな丸テーブルに陣取ると、ノートやテキストを広げていた。
宿題の状況はというと、私とはるかは余裕で終わるペースだったけど、駿太が若干遅れ気味だった。
駿太は決められた事を淡々と繰り返すタイプの課題には強いのだけれど、自分で考えなければならない自由研究や課題論文などは苦手としていた。
もっともそういった課題には、私もはるかもちょっとした助言をするくらいの事しか出来なかったけれど。
なので結果、私たち3人の合同勉強会は、雑談しながら答え合わせも兼ねてのんびり進める私とはるかに対して、難しい顔で頭を抱えている駿太の図という事になってしまう。
これは、遼がはるかに変わっているけれど、例年変わらない私たち3人の夏の光景だった。
相変わらず外の世界はかんかん照りで凄まじく暑かったり台風や夕立のせいで蒸し蒸しだったりするけれど、このアミリアさんの庭には涼やかな風が吹いていて、とても過ごしやすかった。
勉強会をするにしても、これまでの場所は、ガンガンにクーラーを効かせた誰かの部屋だった。
室内でずっと冷風に当たっていると段々と気が滅入って来て集中出来なくなってくるけれど、こうして外にいると良い気分転換が出来て、宿題もはかどっていた。
環境もいいし宿題も順調だし本来なら3人で賑やかにに楽しく過ごせる筈なのだけど、今日は、いや、最近の私たちの間には、あまり笑い声がなかった。
この少し暗い雰囲気は、あのお祭りの夜からずっと続いている。
あの日。
あの白馬と遭遇した奇妙な森から脱出した私たちがまず目にしたのは、夜空に咲いた大輪の打ち上げ花火だった。
ドンっとお腹に響く音と共に色とりどりの光の粒が散っては消えるのを繰り返している光景は、はっと息を呑むほど綺麗だった。
でももちろん私たちには、悠長に花火を見上げている暇なんてなかった。
一刻も早く中崎くんたちに、真理亜ちゃんの無事を伝えなくてはならなかったから。
みんなと合流した途端、中崎くんは駿太が背負った真理亜ちゃんを見るなり、ぽろぽろと涙を流してその場に座り込んでしまった。
既に到着していた中崎くんのご両親は、駿太から真理亜ちゃんを受け取り、心底安堵した様に深く息を吐いていた。
莉乃や明穂、金井さんたちはもちろん、捜索に参加していたお祭りの実行委員会のおじさんたちや通報を受けたお巡りさんたちも、皆んなそれぞれ真理亜ちゃんの無事な発見を喜んでいた。
その後真理亜ちゃんは、一応救急車で病院へと運ばれた。特に外傷はなかったけど、ずっと意識を失ったままだったからだ。
後になって中崎くんから、真理亜ちゃんは無事目が覚めて特に異常もなかったと連絡が来た。
私たちは、真理亜ちゃんを見つけた経緯を警察と真理亜ちゃんのご両親に説明する事になった。
でももちろん、アミリアさんの事とかあの白馬の事なんて話せる訳がない。
……例え話したとしても信じてもらえなかっただろうし。日置山の、私たちの時と同じように。
なので皆さんには、真理亜ちゃんは森の中で倒れていたのだとだけ説明しておいた。
中崎くんのご両親は凄く感謝していたけれど、嘘をつく事になった私たちは少し後ろめたい気持ちだった。
本当の事を言えないもやもやに加えてさらにもう一つ。
私たちがどんよりしている原因があった。
それは、はるかが継がなければならないというアミリアさんのお仕事というものを、目の当たりにしてしまった事だ。
「あー、終わりだっ」
ころりと英語のテキストの上にペンを転がしたはるかが、背もたれに体を預けるとうんっと胸を突き上げて伸びをした。
はるかは白のブラウスだけという薄着だったので、大きな胸の形がよく分かる。
それをじろりと駿太が盗み見ているのを、私は見逃さなかった。
私はキッと駿太を睨み付けてから、はるかに目をやった。
「……それで、アミリアさんからは何かアドバイスをもらえたの?」
「うーん、そうだな……」
はるかは体を起こしてテーブルの上に頬杖を突くと、大きな目だけを動かして私を見た。
あの白馬がなんだったのかという話は、夏祭りの次の日、アミリアさんから説明してもらった。
やはりあれは、私たちを襲った日置山の怪鳥と同種の存在。異世界から境界を越えて現れたもの、という事らしい。
「あれは、五位の火の鳥と同位の獣だな。あれほどの大物が現れるのは稀だが」
本で溢れた自分の書斎で寛いだ様子のアミリアさんは、集まった私たちを一瞥してから話を始めた。
あの白馬や日置山の怪鳥みたいに、長く生きた古い獣や強大な魔法の力を備えた存在なんかは、稀に世界の垣根を越えて別の世界に現れる事があるらしい。
それらは、基本的にはその異世界で長生きは出来ないそうだ。
もともと違う世界の因果により存在しているものは、その影響の及ばない別の場所では存在を維持出来なり、消えてしまう運命にあるのだという。
話が難しくて現実離れしていて、私には理解出来ても呑み込む事が出来なかった。しかしこちらの事など御構い無しに、アミリアさんはすらすらと説明を続けた。
そうした異世界の存在は、こちらの世界で生き延びる為にこちらの世界のものと同化しようとするらしい。
「即ちそれは、その世界の存在を取り込む、喰うという事だ」
アミリアさんは、何でもない事の様に淡々と告げた。
だから日置山の怪鳥は遼を食べてしまったのだ。そして今回は、真理亜ちゃんがそうなるところだったという事になる。
思わず私は、背筋がぞくりとしてしまった。
「あの馬は、どうなったんですか?」
私はぎゅっと肘を抱きながら、アミリアさんにそう尋ねていた。
人を食べてしまうなんて、そんな恐ろしい存在を放置なんて出来ない筈だけど……。
アミリアさんは、すっと私へと目を向けた。
「境界の管理者の仕事は、越境者を元の世界に還す事だ。あれは既に送還済みだ」
そう言うとアミリアさんは、はるかへと目を戻した。そして、机から花形のブローチの様なものを取り出した。
「ハルカ、これを」
アミリアさんに促されて、はるかがそれを受け取る。
私たちのところに戻って来たはるかの手の中を覗き込むと、そこには色味の違う赤色3色の紐を編み込んで花形に結んだ組紐の飾りがあった。
はるかはそれをためつすがめつ見つめてから、アミリアさんに疑問の視線を投げ掛ける。
アミリアさんは首を傾げ、口角を僅かに持ち上げた。
普段は無表情のアミリアさんのそれが笑みなのだろうと、私は勝手に解釈する。
「ハルカに我が弟子となる資格がある事は確かに確認させてもらった。後は、期日までにこの紐を操って見せろ。それが我が弟子となる合格の証だ」
そう言うと紐を操る具体的な方法を説明し始めたアミリアさんだったけど、魔素を高めるとか認識を共有するとか、その話は専門的というよりも私たちには少し抽象的過ぎる内容だった。
はるかも私も、質問を挟む事すら出来ず、というか何を質問していいかもわからず、じっと聞いているしかなかったのだ。
ただ一つきちんと理解出来た事は、紐を操る練習は1人でしてはいけない、私や駿太と一緒にするのが望ましいという事だけだった。
何故と質問すると、アミリアさんはそれが最も効率の良い方法だと言うだけだった。
あの日以来、私たちは出来る限り集まってはるかの訓練に付き合っているのだけれど……。
今日の分の宿題を終えたはるかは、アミリアさんのお屋敷にいるので不承不承身に付けているロングスカートからその花結びを取り出した。そしてそれを掌に乗せて、むんっと力を込める。
しかし、何も起こらない。
昨日と、一昨日と全く同じだ。
「はぁ、ダメだー」
机の上に投げる様に組紐を落として、はるかはがくりと項垂れた。
私もふっと息を吐いて人差し指でぐりぐりとこめかみを押した。
あの白馬と遭遇したお祭りの日の夜以来、何の進展もないままこんな状態が続いている。
あんな恐ろしい巨大な怪物と対峙しなければならないという課題はわかったのに、アミリアさんの弟子になれる具体的な道筋は見えてこない。
華の夏休み中だというのに、それが私たちをどんよりと暗くさせていた。
「腹へったな」
しばらくの沈黙の後、むくりと体を起こしたはるかが呟いた。
確かに、私もお腹が空いた。
遅い朝ごはんの後このアミリアさんのお屋敷にやって来て、お昼は何も食べておらず、もう直ぐ午後3時を回ろうとしている。きっとはるかも、そんな感じなのだろう。
夏休みのせいで、少し生活習慣が乱れてしまっているのだ。
きっと駿太なんかは、もうぺこぺこだろう。
「そうだね、確かに」
ノートの上にペンを転がし、私は腕を広げてうんっと伸びをした。
勉強は随分進んだし、私も今日はこのくらいでいいだろうと思う。
はふっと息を吐いてから、駿太の方を窺う。
意外な事に駿太は、私たちの会話が聞こえていないのか、厳しい顔でじっとテキストを睨み付けていた。
……でも、目の焦点がテキストにあっておらず、何か悩んでいる風に見えるのは気のせいだろうか。
「じゃあ俺、クッキーでももらって来るよ。さっきお手伝いさんが焼いてるのを見かけたんだ」
気持ちを切り替える様に明るい声を上げたはるかが、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
「あ、いいね」
私はうんっと微笑んではるかを見上げた。
バターの香り漂うハンドメイドクッキー。
思い浮かべるだけで、お腹がぐーっと鳴ってしまいそうだった。
「じゃあもらって来るよ。あとお茶もかな。ナナは紅茶でいいか?」
「うん、お願い」
「駿太は?」
はるかの問い掛けに、しかし駿太は答えない。先程までと同様に、じっと難しい顔をしたままだった。
「駿太ー」
はるかがむっと眉をひそめる。
しばらく間を置いて、はっとした様に駿太がはるかを見た。
「あ、悪い。聞いてなかった」
はるかの顔を見て、ばつが悪かったのか駿太は直ぐに目を逸らしてしまった。
はるかは、わざとらしく溜息を吐く。
「……お茶にするけど、駿太も紅茶でいいのか?」
「あ、ああ。悪いな」
どこかぎこちない苦笑いを浮かべる駿太にさっと手を上げたはるかは、長い黒髪をひらりと翻してお屋敷の中へと消えていった。
その途端、駿太がはぁっと大きく溜息を吐いた。まるで、身体の中の空気を全部吐き出してしまう様な勢いのため息だ。
「……どうしたの?」
私もはるかもあのお祭りの夜から何だか落ち着かない様なそわそわとした感じだったけど、駿太はまたそれとは別に何かを思い悩んでいる様だ。私やはるかに対しても、どこか距離があるというか、いつもと様子が違うのだ。
駿太は私の問い掛けには何も答えず、しかし再び宿題に戻るといった風もなく、ただじっと中空を睨みつけていた。
何を考えているのか、自分の世界に入り込んでしまっている様だ。
ぼうっとしている事が多い様に思える駿太だけど、実はしっかりと周囲に気を配っているという事が多い。こんなに周りが見えなくなるほど一心に何かを考え込んでいるのは、なかなか珍しい事だった。
取り敢えず反応してくれない駿太の事は放っておいて、私は席を立った。
長時間椅子に座っていたせいで腰とかお尻が固まってしまっていたので、はるかが戻って来るまで少し散歩でもしていようかと思う。
さっと吹き抜ける風が、ふわりと髪を撫でる。
濃い緑の香りが、微かに漂って来た。
私は腕を上げて、もう一度うんっと大きく伸びをする。
得体の知れない場所だったけど、居心地は良いのだ、この秘密の庭は。
今度あの芝生の上でシートを広げて、みんなでお弁当を食べるのもいいかもしれない。ずっと進展しない訓練の事で思い詰めているよりも、少し気分転換した方が良いだろう。
「奈々子」
私がそんな事を考えていると、不意に駿太が話し掛けて来た。
さっきまで黙りこくっていたのに……。
「何?」
私は、目だけを駿太に向ける。
駿太はこちらに顔を向け、真剣な眼差しで私を見つめていた。
その目には、何か強い光が宿っている様な気がした。
「……この間のあの馬の騒ぎで思ったんだが」
駿太はぎゅっと眉をひそめる。しかし、決して私から目は背けない。
「俺は、その、あれだ。はるかの事が、気になるみたいだ。はるかの事、守ってやりたいと思う。側にいたいし、気が付くといつもはるかの事を考えてしまう。これって、変、かな……?」
自分の言葉を確かめる様に、ゆっくりとそんな台詞を口にする駿太。
「は……?」
私は、自分の目が点になるのがわかった。
「その、あの白い馬みたいなあんな怪物に向かっていけるはるかを、俺は凄いと思った。同時に、これからもあんな事が起こるなら、傍にいてはるかの助けになってやりたいって。だから俺、はるかと一緒にいたいなって」
少し恥ずかしそうに、しかし淀みなく言い切る駿太。
私はあまりにも突然の告白に、言葉が出てこない。
気になるって……。
……それって、つまり。
私は、自分でもびっくりするほど緩慢な動作で駿太に向き直った。そして目を見開いて、まじまじと幼馴染のその顔に見入ってしまう。
自分の事を言われている訳ではないのに、だんだんと顔が熱くなってくる。
「それってつまり、駿太ははるかの事を……」
そう呟いた私の声は、少し掠れてしまっていた。
駿太ははっとした様に目を大きくすると、慌てた様にぶんぶんと大きく首を振った。
「ち、違うぞ! 俺が好きなのは奈々子であって、でも同じくらいはるかの事も気になってて……はっ!」
勢い良くまくし立てた駿太は、そこで自分が何を口走ってしまったのか気が付いたみたいだ。
駿太は、そのまま凍り付いてしまった。
「う……」
固まってしまったのは、私も同じだ。
既に私は、頭の中が真っ白だった。考えていた事が、全部吹き飛んでしまった。
今、駿太は何て言ったのだろう。
駿太が、私を……?
え?
う?
いや、いやいや、それよりも今ははるかの方だ。
私は、ぶんぶんと頭を振った。
「わ、悪い……」
何に対して謝っているのか、駿太がしゅんっと肩を落として小さくなってしまった。その顔は、今まで見た事がないほど真っ赤になっていた。
……多分顔が赤いのは、私も同じだろうけど。
私は、背を向けてこの場所から逃げ出してしまいたくなるのを必死に堪える。そして、このもやもやした気持ちをぶつける様に、キッと駿太を睨み付けた。
「……駿太、自分が何を言ってるのかわかってるの?」
取りあえず私の事は置いておくとして……。
はるかは遼なのだ。
見た目は美人の女の子でも、中身は遼なのだ。
それをその、駿太が……。
私は大きく息を吸い込むと、ぎゅっと手を握り締めて駿太を睨み付ける。
その時。
がしゃんと音がする。
はっとしてお屋敷の方へ振り向くと、銀のお盆にクッキーとティーカップを満載したはるかが、ガラス戸が開けられずに室内をうろうろしているところだった。
何とか自分の体で戸を開けようとしているけれど、ダメみたいだ。
「ナナ、駿太、開けてー」
はるかがぴょこぴょこ背伸びをしながら声を上げる。
私は胸のドキドキを抑える様に小さく深呼吸する。そして一拍の間を置いた後、すたすたと足早にはるかの元へと歩み寄ると、がちゃりとガラス戸を開けた。
お盆をぶつけない様に、うんしょとテラスに出て来るはるか。
「そういえば何か真剣な様子だったけど、何を話をしてたんだ、ナナ、駿太」
ガラス越しにこちらを見ていたのか、澄んだ無垢な目で私と駿太を見たはるかは、こくりと小さく首を傾げた。
私と駿太は、うっと言葉に詰まって押し黙ってしまう。
……何をどう答えたらいいのか、咄嗟に私はわからなかった。




