遺された者たち
「ぇ……?」
春野一姫はふっと背後を振り向いた。そこには見慣れた保健室のカーテンベッドがあるだけだ。
今、誰かが自分の後ろにいたような……。
「どうかした? 一姫」
いきなり後ろを勢い良く振り向いた一姫に対して雪代 継音が声をかける。
「あ、ごめんね、雪代さん。びっくりさせちゃったよね! ……あの、笑わないで聞いてくれる?」
同じ長机に腰掛けている雪音へ、少し躊躇いながら春野は話しかけた。
「……笑わない。話して欲しい」
文字通りニコリともせずに継音が言葉を紡ぐ。深夜に静かに降る雪のような声。
「ありがとう、雪代さん。あのね、気のせいだと思うんだけど…… 今、一瞬背後に、私の叔父さんが立ってた気がして。ふわっと煙草の匂いとかもしてね。……ふふ、おかしいよね、わたし」
髪の毛を弄りながら、春野が控えめに笑う。
無意識にもう一度、背後を振り向いていた。
もうそこには、懐かしい叔父の気配も、やめてといつも口を尖らせていた煙草の残り香もなく。
風に掻き消される煙のように、全て消え去っていた。
「……大丈夫だよね、雪代さん。みんな、みんな帰ってくるよね」
春野は自分の身体の芯が冷えている事に気付く。気を抜くと自分の声が震えてそれが嗚咽になってしまいそうだ。
あれ、私なんで泣きそうなんだろ。一姫は縋るように継音に言葉を求めた。
「……大丈夫、一姫。皆、帰ってくる。鮫島さんは賢い人だし、樹原先生だっているもの。それに……」
「それに?」
言葉を止めた継音に対して、一姫が次の葉を促す。
ほんの少し、継音はう、と唸る。首をかしげる一姫に対して少し息を吐いた。
「……あの人も付いているから、大丈夫」
顔を背けながら、継音は小さく呟いた。言いたくない事を言ったような、もしくは恥ずかしい事を白状したような。
彼女が誰の事を言っているのか、付き合いの長い春野はすぐに分かった。
叔父と似ているあの、人の悪い笑顔を思い出す。
春野は、無口で口下手で意地張りの友人のそんな姿を見て頰を緩めた。
そっか、そうだよね。貴女にそんな顔をさせる人が、あの海原さんだって一緒にいるんだもの。きっと無事だよね、竜樹叔父さん。
「そうだよね、御守りだって渡してるし。ちゃんと持って帰らなかったら叱ってあげなきゃ」
春野は湧き出した希望を胸にニコリと笑う。同時に胸の底にチクリと感じる奇妙な痛みは無視する事にした。
気のせいに決まってる。煙草の残り香、叔父の気配。その中には自分の母の気配も僅かに混じっていたことなんて。
2人とも無事に決まってる。
叔父は暗くなる前には帰ってくる。ぼやぼやと悪態をつきながら、それでも最後にはにかりと笑ってわたしの頭を撫でてくれる。
母だって、遠くにいるけどそこで必ず生きている。いつか叔父と一緒に迎えに行くんだ。
それが春野一姫がこの終わった世界の中で自分を支える為の希望だった。
例え世界が終わっても、明日はきっといい日だと。そう信じる事の出来る強さを彼女は持っていた。
継音と2人、静かに春野は鮫島を待つ。
保健室には、柔らかな、それでいて力強い陽光が降り注ぎ始める。
彼女の叔父が斃れた場所には決して届かぬ暖かな陽光に包まれる。
彼女はここでずうっと待つ。ただ、その無事だけを祈りつつ。
徐々に強くなる日差しが保健室の窓から室内にそよいでいた。
……
…
彼女は一人、空をぼんやりと見上げていた。彼と共に座っていた安っぽいプラスチックチェアに深く腰掛け、大きくあくびをした。
「ふぁああ」
ぐーと背伸びをする。豊満な胸が強調され、目の端からは宝石のような涙が浮かぶ。
男が見れば誰でも目を奪われてしまいそうなたたずまい。魔性にすら届きうる美がそこにあった。
身長の割に長い脚を組み替えて、雪代長音はまた腰深く椅子に体を預けて空を眺める。
私も一緒に行きたかったなぁ。
空を眺めながら一人、長音は心の中で呟く。
今、考えてみれば海原と別行動するのは出会ってからこれが始めてかも知れない。
常に彼の側には私がいたし、私の側には彼がいた。
それが当たり前だった、それで良いと思っていた。
だから今回の大規模捜索もきっと、彼は自分を待ってくれるのだと信じていた。
だって彼はとても弱い。私や継音、他の人達と違って彼はなんの優位性も持たない只の凡人だ。
彼が今まで生き残って来たのは全て、私のおかげだったはず。
「……心配だな」
本心からのつぶやきだった。長音にとって海原は手放したくない特別なものだ。
確かに海原にはその能力においてなんの才能も特別もない。しかし、海原は長音にとっては特別な人間だった。
あの夜の事は今でも覚えている。
自分を呪い、全てを諦めたあの瞬間。なんの特別な理由もなく、見返りすら求めずにただ、ちっぽけな理由で自分を見つけてくれた。
自分と隣にいてもおかしくならない、恐るわけでも、虜になるわけでもない。
私に依存しない奇妙な男。
「……やっぱり、手放したくないなぁ」
それが長音にとっての海原という人物だった。
ならばやはりここはわたくしが海原様を籠絡して差し上げましょうか?
いやいやー! 海原さんはそんな甘くないですよ! ああいう男の人はわたしみたいな元気で友達的な感じで付き合える女の子が好みですってば!
「……うるさいなぁ、もう」
長音の中で他の長音が好き勝手にがなりたてる。
生まれた頃から共にいた姉妹よりも深い所で繋がっている私自身。
私の仮面、いや、これも全て私。
一時期はどれが本当の私かが分からない事もあった。
でもある日、なんの特別な事もなく受け入れる事が出来た。
記憶を共有している沢山の仮面達、彼女もまた私と同じ。わたくしもわたしも、全て同じ私なのだと。
理解するのは私一人で良かった。私が納得すればそれで良いと思っていた。
「……雪代はお前しかいない……か」
彼に昨日、言われたあの言葉を思い出す。夕焼けを2人で眺めながら、なんの事も無さそうに届いたあの言葉。
あれは
嬉しかったですね。
嬉しかったです!
「……そうね、嬉しかったな」
わたしもわたくしも私も、全てが彼にとってはお前なのだろう、その事が雪代にはとても嬉しかった。
どの私でも彼はきっと、雪代長音として扱ってくれるのだろう。
大切な相棒、良き友人として。
海原のそのブレない、凡庸故の図太さのようなものが雪代にはとても眩しいモノのように思えた。
この貌は男の眼を引く。
この身体は男の劣情を呼び起こす。
この血は男を惹きつける。
この魂は男を求める。
雪代長音はそういう風に出来ている。雪代家の祖の血をより深く、濃く受け継いだこの身体には業が染み込んでしまっている。
それは他の人間を狂わせる、雪代の女のとなりににいればやがてその人間は雪代の女無しでは生きていけなくなる。
それは常に歴史が証明して来た。
雪代家はそうやって繁栄してきた。その氷のような美しさにより優秀な男の血を取り込み、代々永らえてきたのだ。
長音は、その事を嫌悪していた。その血の縛りに囚われた家が、姉妹の在り方すら歪めた血の呪縛を憎んですらいた。
そしてこの血に集まってくる有象無象の男が嫌いだった。
貌を舐め回すように見つめるその顔が嫌いだ。
胸をねめつけるように見回すその眼が嫌いだ。
自分に寄り添ってくる男が、血の力に引き寄せられる男が嫌いだ。
雪代は自分の肩を自分で抱く。
なのに、何故だろう。
海原はきっと自分と共にいても大丈夫な気がする。
あのぼんやりとした顔、分厚い胸板、日焼けした肌や手入れ不足の髪。
なんで彼も男なのに、嫌じゃないのだろうか。
「……会いたいな。海原さん」
いつもなら、わたしかわたくしが会いに行けるのに。
彼の事を想像する。
彼に貌を見つめられる事、胸にたまに感じる視線、肩が触れない距離で並んで歩く時に香る僅かな汗の匂い。
ああ、なんでだろうか。
全然、嫌じゃない。嫌悪感も苛立ちも何も感じない。
海原さん、海原さん、うみはらさん。
早く帰ってきて。
でないと、私、わたし、わたくし。
「どうにかなりそう」
ならば、お前の力であの男を手に入れればいいじゃないか。それができるだろう?
頭の中で響く、どの私でもない声。
私はそれをねじ伏せる。
「黙れ、貴女には関係ない」
すぐにその声は消える。
雪代の中に眠る古い血と力の源すら、長音は簡単に調伏せしめる。
昨日の力の乱用で消耗したものは順調に回復しつつある。
長音は空に手を伸ばす。
そのままギュッとその白魚のような手を握り込んだ。
遠くの空、長音の視線のずぅっと先にある積乱雲がまるで握り込まれたようにその形を一瞬で変えていく。
わたあめが乱暴に手で引きちぎられたかのようなーー
「海原さん、早く帰ってきてね」
自らの特別な力を確認しつつ、雪代長音は笑う。いつしかわたしもわたくしの声も消えていた。
そう、あの人が言う通り。
私は私しかいない。雪代長音は独りしかいないのだ。
うっすらと笑う、長音の瞳は雪兎のように真っ赤に染まり、その黒い鴉羽の髪の毛は所々が新雪にまぶれたように白く染まっていた。
もし、海原が帰って来なければ。
あの化けモノの言う通りにするのは癪だが、私の好きにするのもいいかもしれない。
「ふふっ、でもそれも悪くないかもね、海原さん」
超人が凡人を想って静かに嗤う。
しかしてその笑いは凡人の為のものでは決して無かった。
しばらく長音はそのままぼんやりと空を眺めて、その内お腹が空いた為に、妹や善き友人の待つ保健室へと降りて行った。
基特高校の時間はゆっくりと流れて行く。今はまだ何事もない揺蕩う平和な海原ように。
その下に何を隠しているのか全てを把握する者は居ない。
…………
……
…
地の奥底、一人の男が静かに伏している少年の元へ辿り着いた。
男は優しく少年の肩を揺さぶり、声をかける。
「起きて、影山君。僕だ、樹原だ。助けに来たよ」
その声は静かに闇に溶け込み、少年をまどろみから覚醒させて行った。
残念ながら眠りと覚醒の狭間にいる少年は気付く事は無かった。
その男の表情は、暖かな声色とは違い、なんの感情も見られないのっぺらなものだったという事に。
そして、その呟きも少年には理解出来なかった。
「おっと、やっと一人目か。その調子で続けなさい。ボクの愛し子よ」
その声色はとても優しく、そして深いものだった。
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