基特高校、夜明け前の最も暗い時間帯。ヒロシマ城、外堀にて
〜地上にて〜
堀に湛えられた水面に上弦の月が揺らぐ。
闇の中を吹きさらばえる湿った風は、今が確かに夏だという事を生きる者に伝えていた。
そこだけが、青白い月明かりに照らされている。人工の光が消え去った世界で、ただ月明かりだけが、届いていた。
「く、あ」
風の中、響いた女性の苦悶の声を樹原勇気は聞いた。
風が一際強く吹き、夜に染められた墨汁のような水面に映る月が砕かれる。
樹原勇気は、風にさらわれないようにそのたおやかな細い首を強く握りしめた。
再び響く静かな苦悶の声にも、その手が緩むことはない。
「勝負あったね、夏山 凛音。 認めよう、キミのその悪性、能力は確かに僕を脅かす試練だった事を……」
ぐっと右手に力を入れる。女の細い首は樹原の大きな手のひらによって掴まれ締め続けられていた。
樹原は堀の淵に立ち、女の首を掴んで持ち上げている。
互いに傷に塗れ、辺りには血生臭さが漂う。怪物種がいつ来てもおかしくはないはずなのに、まるでそこだけ台風の目なったかのように、ただ静かだった。
樹原の足元には地が、女の足元には水が。
このまま樹原が手を離せば、女は堀に落ちていくだろう。
その細い首を掴んでいる手に、赤い血が垂れ落ちる。
「くっ…… 私は、私は勝っていたはず……よ。何を、したの…… 樹原 勇気」
女の首には深い傷が刻まれている。白いスポーツジャージにべっとり着いた赤色が、月明かりにぼうっと照らされた。
白いスポーツジャージは、彼女が2日前に基特高校へ難民の1人として入り込んだ際に渡された教員用の体育着。
樹原はぼんやりと、そういえばあの時この服を渡したのは自分だったなと、懐かしむように光景を思い出していた。
「言ったろう…… 運命だよ。人間にはどうにもならない大きな力が選んだんだ。この樹原勇気が生き残るべきだとね」
「……ふふ、ふふふ。運命…… 嫌いな言葉…… そんなモノに負けるのね、私」
樹原は、夏山のガラス球のような瞳を見つめ、それから突如現れた首筋の傷を一瞥する。
獣に食い千切られたかのような傷、肉はグズグズに千切れ、骨まで見えている。赤い血は止まりそうにはない。
しかし、そのような傷を負っているにもかかわらず、華奢な夏山はまだ生きていた。
「認めよう…… キミの能力は間違いなく僕がこれまで出会ったどの人間の能力よりも凶悪だった。文字通りの不死…… きっとその傷も放っておけばそのうち治るのだろう?」
「ふ、ふふふ…… お褒めに預かり光栄……よ。貴方に凶悪と言われるなんてね…… 貴方の言う通り私は死なない。死ぬのにも慣れているわ…… 私は、死んでも死なないわ」
虫の息、しかしその女の瞳はしっかりと樹原を見ていた。その目に宿るのは暗い火、死ぬのはお前だと表明する殺意の瞳。
「……ああ、その通りだ。キミは死なない。不死、死なず、イモータル。人類が夢見た至高の存在なのだろうね」
樹原はその視線を受け止める。月明かりが平等に彼らを照らす。
「……私は、まだ死なない。だって、まだ何もしていない。もっと、もっと愉しみたい…… みんな居なくなったのだもの…… みんなの分も私が生きなくてはならない……」
「その生きるという事が、他人を殺すという事でもかい? 夏山 凛音。キミは呪われた人間だ。自らの死を遠ざけた故に、他者の死を以ってでしか生を実感出来ない、歪んだ存在だ」
勝負はもう、決まっていた。樹原の能力は既に夏山の身体の中を蝕んでいる。
あの時突如現れた夏山の傷、その一瞬の隙を突き、樹原は不死者を下していた。
「……貴方にだけは、言われたくないものね…… 悲劇を見る事でしか生を実感出来ない哀しい怪物の貴方に」
「あはは。僕のコレは趣味だよ。キミみたいに、深刻なものじゃあない。せっかく世界が終わったのだからね、楽しく生きたいじゃないか。……そして、キミは僕の悲劇には邪魔だ。邪魔者は、生かしてはおけないよ。キミが殺した数人の生徒は、僕の悲劇においても役割を持っていたのだからね」
「ふふ。あら、どの子の事? あの元気な放送委員の子? それとも貴方のお気に入りの図書委員の子かしら? ……保健委員の子を、逃したのは失敗だったわ…… 厄介な護衛がついていたから」
「皆だ、邪魔者め」
ぐっと、樹原はその首を更に締め上げる。喉の肉を気道を押し潰すように手のひらに力を込めた。
「ぐっ、ううううっ」
「苦しむ声は人間らしいじゃあないか。キミが殺した生徒は誰1人として、欠けていい存在などいない!! 皆が僕の大事な生徒なんだ!! ……欠けた配役は、補ってもらうがね」
声を荒げる樹原、手のひらに血管が浮きでて、ブルブルと震える。
「ぐくくぐ、がはっ、あ、貴方は、イかれてる…… 化け物よ。不死の、私なんかよりもよほどのっ」
「いいや、僕は、僕たちは毒蟲だ。出会えば殺しあうしか出来ない毒蟲だ。僕は今日、蠱毒を生き残って、更に強くなった。キミという試練を、同種の毒蟲を喰らい、更に強くなり、自由になるんだ」
樹原の、右手その手のひらの皮膚が割れた。新芽のように蠕く何かが手のひらを這って、夏山の首に伝う。
「ひっ、……何を、何をしているの?! 無駄よ、何をしても、私は死なない。世界が死んで、私は死ななくなったの、不死よ! 誰も私を殺すことなどできやしない!」
「ああ、その通りだ。キミを殺す事はない。キミの生命、終わらせない」
「待って……待って、何を、何をするつもり? 嫌、貴方、貴方の目、その目はなに?!」
「言った筈だ。キミが不当に奪った僕の生徒の配役を補う必要があると。悲劇は遂行されなければならない。キミが空けた空席は、キミに埋めてもらおう」
毒蟲が、毒蟲を喰らう。蠱毒の中で、弱きものがつよきものに喰われる。
「まって、樹原 勇気! わかったわ! 取引をしましょう! 私の力の事は知っているでしょう? 私の不死は別ける事が出来る! 私が殺した子達に新しい生命を与えてあげる! だからーー、あ、っあああっアアア?!!」
「The Sailor Who Fell from Grace with the Sea[午後の曳航]」
樹原の手のひらから産まれた蠕く小さな、大量のミミズのような生き物が、夏山の傷口から一斉にその身体に侵入している。
傷口から、内側から肉を貪られる痛みに、夏山は人間の出す音ではない叫びを漏らしていた。
「駄目だよ、夏山。僕たちのような存在はね、最後の時まで弱さを見せちゃあ駄目だ。退場の瞬間にこそ、僕たちは笑わなければならない。それが毒蟲というものだ」
樹原は笑う、おもちゃのように身体をビクつかせる夏山を見て。
「ほら、笑って。キミは有名な女優なのだろう? こう考えるんだ、以前の世界でのキミのキャリア、女優としての努力や時間は全てこの瞬間のためにあったのだと。その痛みも恐怖も演技で乗り越えるためにあったんだ、ほら、頑張って、笑って」
「あがっ、あああ…… お願…い……やめて……ああ、お願い、なんでもいう事聞くから……ああああか」
「……いいや、駄目だね。もう思いついたんだ。キミを再利用して作る悲劇の方が面白そうだ。タイトルは、不死の怪物と高校生達、に決定だ。うん、一時期は役者が沢山殺されてどうなるものかと心配したが、なんとかなりそうだね」
もがく夏山の身体を樹原は腕1本だけで、掴み止める。
「さようなら、女優、夏山 凛音。キミの出番が来るまで、暫しのお別れだ」
「ーーっあ」
スパン、スパン。
樹原の背中、肩甲骨から生えたのは、カマキリの腕のような、鎌だった。
ふらりと閃いたそれは、夏山の四肢を綺麗に切断する。
ふっ、と同時に樹原はその手を離す。不死者の身体の中に、怪物の種を植え付け、堀に落とした。
「っうそーー」
「キミは苗床だ。怪物種と呼ばれる生き物の中には生物の身体を乗っ取り、宿主とするものもいる。キミに植え付けたのはその幼体の群れ…… 堀の大水の中でしばらく休むと良い。火照った身体を冷やしてくれるだろう」
ばちゃん。
最後に見えたのは、なにも映さないガラス球のような瞳だった。
堀に沈み行くその目には既に、樹原への殺意はみてとれない。
ただ、ぽつんと絶望のみが映っていてーー
荒れる水面、ほんの少しだけ四肢を失った身体でもがいていたが、すぐに暗い水面に飲み込まれるように、夏山の身体は沈んでいった。
樹原は、堀を見下ろし呟いた。
「キミの能力は確かに最強だった。しかし、キミはそれでも僕の最強の敵ではなかった。もし、あの男ににキミのような能力が、ほんの少しでもあったのなら…… まあ、そんな恐ろしい事は起きるはずもないか」
樹原はどさりとその場に座り込む。血まみれのポロシャツを乱雑に脱ぎ捨て、鍛えられた身体を夏の夜の湿った風に晒す。
夜を溶かし込んだ堀は、静かに月を写すだけ。
誰も夢にも思わないだろう。不死者となった有名な女優が、この堀の中に沈められていることなど。
それにしても、それにしても、なんという数日だったのだろうか。
地下から帰って来たと思えばすぐに、現れた不審な難民の集団、蓋を開けてみれば同じ種類の人間に操られた死者の群れだったとは。
樹原は、辺りに散らばる十数人の骸を億劫そうに眺める。
これの処分もしなくてはならない。堀に全て捨てるのもありか。いや、怪物どもを呼んで食わせる方が速いな。
樹原にはやるべきことが山ほどある。
気になるのは、今、始末した殺人鬼、夏山の言っていた言葉だ。
保険委員、春野 一姫。何故彼女だけ、夏山の毒牙から逃れる事が出来たのか。
夏山に目を付けられた生徒は3人、春野以外は手遅れだった。
厄介な護衛。それは、なんだ?
「調べて見る必要があるかな…… ここまで来たんだ。用心を重ねておいて間違いはないだろう」
樹原は小さくため息をついて立ち上がる。
脱いだポロシャツを傍らに持ち上げて、それからまたため息をついた。
さしあたり、樹原には考えるべき事があった。
「……しまった。どう誤魔化したものかな、これは」
肩甲骨から生やした鎌は、ポロシャツの背中をビリビリに突き破っていた。お気に入りのものだったのに。
樹原はわずかに肩を落として、歩み始める。
季節は、夏。
市街地の向こうの山際の空は、闇が薄れて、紫色に滲み始めていた。
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