救世主の救世主
ピチョン。
水の音。継続的になる雫の音。
「う、ここは……、風は……」
ウェンは身体中に鉛を詰め込まれたような倦怠感を覚えつつ、瞼を開いた。
ピチョン。天井から垂れる水が、ウェンの小さな額を濡らした。
目線だけを辺りへ配らせる。
ひかる砂が敷き詰められ、天井には緑色にひかる苔が生えている。
洞窟、恐らくいくつか存在するオアシスのたもとに在る砂丘洞窟の一つだ。
この階層の管理人でもあるウェンは今、自分がどんな場所にいるかすぐに理解していた。
「オキタカ、ハコニワの巫女。摸倣されたヒカリ、ワガ虜よ」
仰向けになった背後から風を通して伝わる、その声。
力強さと知性を、血と乱暴さで丸め込んだような音だ。ウェンは一瞬、強く息を吸ってからゆっくりと起き上がろうとする。
どじゃ。
その瞬間、どこからか現れたであろう存在、真っ白な毛並みを持つ群狼に瞬く間に押さえつけられた。
「ウアッ?!」
「伏せなさい、巫女。王のガンゼンにあられる」
知性を冷徹さで塗り固めた透き通るような声。真っ白の群狼がウェンの薄い腹をその前脚で抑える。
「ヨイ、許す。巫女の胎を痛める。離してやれ、ツガイよ」
「……王のイノママニ」
のしかかるような声に、白い群狼がふっとウェンから退く。
途端に軽くなる身体、ウェンは咳き込んだ後にゆっくりと起き上がった。
「群狼……」
背後から声をかけてきた存在を見つめて言葉を漏らす。
「……初にミエル。ハコニワの巫女。白銀のカゼ。天使の似姿よ。テアラナ招待を許してホシイ」
ウェンは息を飲む、その姿に。
目の前にいるのは、ただの群狼ではない。歳を重ねて成長しきった偉大なる生命。
重ねられた何かの生き物の皮の上にうつ伏せに寝転ぶその姿。
黒い体毛に覆われたその体格はほかの個体とは比べモノにならぬほど大きく、首周りに備えるたてがみはまるで王の衣。
ウェンを見つめるその瞳からは、野生と同時に深い知性のヒカリすら見えていて。
「……キミ、その傷は……」
ウェンが息を飲んだのは、その生命の巨大さだけではない。その巨大な生命が負っている傷跡の深さもその驚きの原因だった。
胴体にはいくつも穿たれたような傷跡が生々しく残り、その部分からは毛皮が剥がれ落ちている。捻れた傷跡。おそらくもうあれ以上は治らないのだとその肉の埋まり方を眺めて理解する。
理知を感じさせる瞳は、片方しかなく……。大きな縦傷によりその瞳はもう、光を写す事はないだろうとウェンは知った。
「無様ダロウ……、コレは全て外より降りてきた大敵とのタタカイによりつけられたものだ。人の悪辣とワレラの力を併せ持つ歪な化け物にな……」
「王……、お身体に触ります……これ以上は……」
傷の痛みに呻く大柄な黒い狼をしなやかな体躯を持つ白い狼が労わるようにたしなめ、その傷を舐めた。
ウェンの目の前に暖かな風が吹く。
「キミ達……番か。……彼女が言っていた。この階層には強き群狼の番がいると。誇り高きその一族はこの階層の主にして、秩序の維持を司る生命だと。そんなキミ達を、ここまで」
「……もし王がイナケレバ、我々は滅ぼされていたでしょう。それほどまでにあの、歪な化け物は強かった……、そしてまだその化け物は生キテイル」
白い狼が黒い狼に寄り添いながらその知性の光を湛えた目でウェンを見つめる。
ごくり、無意識。ウェンの喉が鳴る。
「ワレラには、新たなるチカラが必要なのだ。大敵を滅ぼすチカラが」
王と呼ばれた黒い狼がその身体をゆっくりと起こす。その瞳にありありと浮かぶモノ。
ウェンはそれを知っている。怨嗟と怒りが灯す暗い炎。かつて、自分が湛えていたものと同じ火が今、目の前の怪物にも備わっている。
「あっ……」
ウェンはその瞳に射竦められた瞬間、膝を崩してその場にへにゃりと座り込んだ。
その火を通して、怪物の思念がウェンに流れ込んでくる。
ウェンの風が怪物の想いを汲み、届ける。
暖かな群れ。互いが互いを尊重し合い、協力してこの厳しい世界を生き抜いてきた思い出。
その中で見出した絆、出会い。家族との邂逅、新たなる生命の誕生、その喜び。
突如現れた、歪な化け物。人と怪物が混じり合い、ヒトの道具を備えるその冷たい知性。
向けられる捻れた槍先。目の前でなすすべもなく殺される仲間達。
己の磨いた爪と牙を持ってしても届かない、その悔しさ。
「あ……あァ……」
ウェンに課せられた役割、箱庭の管理人。調停者としての役割がウェンの思考を誘導する。
この者は怒っている。仲間を奪われた暴虐。
この者の怒りは正しい。この者は箱庭の住人としての正しさを備えている。
「ハコニワのミコよ……、ソナタの助けがヒツヨウだ。歪なるイノチに報復を。血の代償を払わせなければナラナイ。イチゾクの魂の安寧のために、ヤツを滅ぼさなければナラナイ」
のそり、のそりと黒い狼が、崩れ落ちて座り込むウェンに近づく。白い狼はその後ろ、3歩ほど下がったところを追随する。
「チカラが、イル。守るために、奪い取られぬ為に、新たなるチカラがヒツヨウダ。ハコニワのミコよ。ソナタの役割をハタセ。箱庭のバランスの為に、我にその血と胎を捧げよ」
「……はあっ、はあっ、はっ……」
ウェンはいつのまにか震えていたその細い肩を抱く。生物として感じる生命の危険と、課せられた役割を果たさんとする舞台装置としての使命感が身体を麻痺させる。
「キミは……キミ達は風の仲間を裏切った……! 力など、貸してやるものか!」
それでも、震える声を束ねて叫ぶ。ガチガチといつのまにか歯の根は合わずに震え始めていた。
正しい。目の前のこの存在は全てが正しい。
ウェンは本能的にそう、感じてしまっていた。風を通じて流れ込んで来た黒い狼の存在そのものが、ウェンにその正しさを叩きつける。
「ワガママを言うな。ソナタはソナタの役割を果たせ。ソナタもまた箱庭の生命。汚らわしい外からキタ猿など、もとよりソナタのムレでもなんでない……、ソナタはワレラと共に在る」
黒い狼はその大口を開けて、唄うようにウェンに言葉を綴る。
「ソナタは選ばれたのだ。ソナタは我らの救世主。ソナタはハコニワに調停をもたらすモノ。思い出せ、ソナタの生きる意味を」
ウェンはその声を聞き、顔を伏せた。
ああ、あの時と同じだ。
前の世界でもそうだった。ウェンは自らに課せられた役割を思い出す。
部族の英雄、歪な世界の剪定者。虐げられしモノの救世主。
様々な存在が、ウェンをそう呼んだ。選ばれし存在と呼び、媚び、そして託した。
ウェンは世界に虐げられ、奪い取られたモノの為に世界へ戦いを挑んだ。
それは請われた為、必要とされた為。
世界から選ばれなかった自分が始めてだれかに必要とされた事、それがウェンフィルバーナにはとても尊い事のように思えていた。
だから、勝ち目のない戦い、世界への反逆を為す事が出来たのだ。
誰かに請われる。誰かの為に生きる。自分を必要としてくれる者の為に生きる。
それがーー
「風の……生きる理由……」
「ソウ、その理由のために生命はその生命を賭けて戦うのだ。ワレはイチゾクを守る為に。ソナタはハコニワの秩序をマモル為に。ハコニワのミコよ、ソナタの生きる理由を果たせ」
正しい。仲間を殺した存在のはずなのに。自分を裏切った存在のはずなのに。
目の前の存在が言っている事は全てが正しい。ウェンの前にはただ、ただ、圧倒的な正しさのみがあった。
一族を守る為に力を欲する怪物と、箱庭を守る為に命を賭けなければならないのにそれを拒む自分。
ウェンは自らがまだ、怪物を拒んでいる事がだんだんと恥ずかしくなって来ていた。
それでもまだウェンが目の前の存在の手を取らないのには訳がある。
脳裏にちらつく光景と、脳裏をかすめるあの言葉。
世界に挑んだ一夜、最期の瞬間、存在が焼き切れる寸前に目に写った、あのニホンジンの悲しい目つき。まるでこちらを哀れむようなーー
その目つきが、ウェンには悲しくて仕方がなかった。
初めて出来た仲間と囲んだ食卓。初めて使ったおばあちゃんから貰った友達用の食器を使って囲んだ美味しい食卓。
ニホンジンにかけられたその言葉、ーーお前はそんなのにならなくて良い。
その言葉がウェンには何故か嬉しくて仕方なかった。
2人のニホンジンによる記憶が、ウェンの選択を遅らせる。
あの時、躊躇いなくとったその手を今度は簡単には取れなかった。
これはあの日と同じ選択だ。
ウェンは己の生きる理由を知っている。勇気の名前を知っている、その名は犠牲。
自分を請う者、自分に縋るもの、その者の為に己を捧げる。
それこそが己の生きる理由だと知っていた。言い聞かせていた。
本当にーー?
2人のニホンジンとの邂逅は、ウェンに明らかに変化をもたらせていた。
あの日、あれだけ簡単に取れた手が、いまはこんなにも遠くーー
「ッ! ハヤクシロ!! ミコよ! ナニヲ躊躇う! 役割を! その約定をハタセ!! キサマにはそのギムが有る!!」
牙を剥き出しにしながら黒い狼が本性を剥き出しにして叫ぶ。先ほどまでの理知的な声色は身を潜め、今あるのは猛る野生のみ。
ウェンがギュっと目を瞑る。選択が出来ない。
「っ! 風が、風が正しくない事は分かっている…… キミ達が言うことが正しいことも分かってる……、でも、それでも、風は……」
「愚かな……外なる猿にほだされたか……、偉大なる箱庭の主人、光の似姿に敬意を払っていたつもりだったが仕方ない。その血、その胎、力づくで奪うまで!!」
獣が獣たる所以を発揮する。傷付いた身体を震わせた。
ウェンはこれから何が起きるかを理解した。尊厳を奪われ、生命を奪われる。少し昔の前の自分ならば受け入れる事が出来たであろう未来。
でも今のウェンがそれが恐ろしくて仕方なかった。
ウェンは、生まれて初めて、その星空のような瞳から大粒の涙をこぼしていた。
化け物の正しさが、何かが決定的には変わりつつある自分が怖くて、怖くて仕方なかった。
その巨大なる体躯が薄く細いウェンの肢体に覆いかぶさる。覆われる。
獣臭さ、それと同時に感じる獣の息遣い、それは明らかに興奮していて。
これから何が起こるのか、いやでも分かってしまう。
「オオオ! オオ! コレがミコの肉体、素晴らしい! さあ、今こそキサマの生まれた理由を果たせ!」
「っい、いやだああああ! こんな、こんなの嫌だあ! 助けて、誰か助けて! おばあちゃん! おばあちゃん! アリサ! っヨキヒト君! タイナカっ!」
今度こそウェンは泣き叫ぶ。その叫びは目の前の雄の嗜虐心を強く刺激するだけだった。
狼がウェンの服を噛みちぎろうとその牙をぎらりと剥き出しにしてーー
「聞いたよな、田井中。俺の名前を先に呼んでたぜ。聞いたよな」
「うるっせえよ。オッさん。それを言うならアンタの名前を呼ぶ前にばあちゃんとかアリサとか叫んでたろーが。都合の良い耳してんぜ、マジで」
っきゃイン!!
ウェンの叫びよりもワンオクターブ高い悲鳴。尻尾を踏みつけられた獣のような悲鳴が洞窟に鳴り響いた。
暴威を振るう黒い狼、それをじっと眺める白い狼、そして必死に抵抗するよだれまみれのウェン。三者の動きがぴたりと止まる。
ゴロン、ゴロン、びたん。
洞窟の入り口側、坂道になっている洞窟の入り口から何かが転がり落ちてきた。
「……グ、ボ……ボボボ」
青い血を吐きながら白目を剥いて絶命しているソレは、王の一族の一員。洞窟の見張りをさせていた群狼の一頭だった。
瞬時に白い狼が毛を逆立たせ洞窟の入り口に向かって唸り始める。
「何者だ! ココを王の寝所としっての狼藉か!」
叫ぶ白狼。牙を剥き出しにして、吠え続ける。
ひとしきり吠え続けたのちに白狼が呟いた。
「この……匂いは……まさか」
何かに気づいたようなつぶやき、その言葉に返事などあるはずもなかった。
ざり、ざり、ざり。
砂のみちる洞窟を歩き進む音が聞こえた。トンネル状の空間にその音が響き続ける。
その音が止まる。
呑気に並んで彼らは歩いて、たどり着いた。
「よう、化けモノ。よくもウチの自己陶酔ぼっちエルフを虐めてくれたな」
その衣服を真っ青に染めた男が、眼前の化けモノに向けて言い放つ。
ウェンは見た。獣臭いその狼の身体の隙間から、彼らがやって来たのを。
自分に救いを求めない、自分に役割を求めにないその存在を見つけた。
「…っあ、キミたち……生きて……」
救世主の叫びは今度こそ届いていた。この異質な凡人生存者の耳に、きちんとーー。
「R21展開には間に合ったな。帰るぞ。バカエルフ」
ウェンはその声を聞いた。風はその声の持ち主の怒りを伝える。
何故、なぜそんなに怒っているの?
ウェンにはまだその理由が、わからなかった。
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