147.水中から
「ジェイド……! ねぇ、聞こえる……!?」
私が水中内に身体をゆだねている――ジェイドに大声で声をかけても……彼は全く反応を返さない。
彼の状況を見て、緊急性が高いと感じて……目の前の水の膜に――手を差しこんでみると……。
「つ、冷たい……っ」
あまりに冷たさに、私はすぐに手を引っ込めてしまった。
水風呂なんて可愛いものじゃなく――温度は真冬の……何なら極寒の湖の冷たさだ、
しかし思い悩んでいる暇はない……と、手が差し込めたのなら身体だって入る……とそう意気込んでいれば。
「ニンゲンが、キタ……?」
「えっ!?」
突然、どこからともなく声が聞こえて――私はギョッとする。
もちろん慣れ親しんだジェイドの声ではなく……。
「ナン、だ……レイラか……」
「! く、黒い靄が……しゃべった……!?」
私の目の前にある水の膜越しに――ふよふよと黒い物体がこちらへやってきたのだ。
しかし大部分の黒い靄はジェイドの身体に巻き付いたままになっている。
そんな黒い靄から連想されるのは……。
「あなた……上皇后様なの……?」
「じょうコウゴウ……ソンナときも、アッタな」
「はい……?」
「ダガ、オマエは、ソンナことヲキニシテイル……バアイではナイノだろウ?」
「……っ! ジェイド……!」
「オマエは、ウンガいいナ。ジェイドはマダ、イキテいる」
「!」
「アイツは、ワタシもろトモ、コオラセヨウとシタが……ワタシがテイコウしたオカゲで、コオラズ……ミズノなかにイル」
黒い靄には顔なんてないはずなのに……目の前の無機質なそれが、ニヤニヤと笑っているような――そんな気がした。
しかし黒い靄から言われた言葉から――私は光明を見出す。
(そう、ジェイドがまだ生きているのなら……彼を助けるのは遅くない……ということよね)
「イイかおダナ……ニンゲンとイウのは、ドウシテこんなニモ、タニンヲ……タスケようとスルのか……」
「何か文句でもあるの?」
「ナニモ……ナイ。タスケタイノなら、ハヤクあいつヲ、ミズのナカからダシテやればいい」
「……ジェイドを助けるには、あそこから引っ張り出せばいいってこと?」
「ソウダ。イマハ……ようせいノチカラヲつかってイルカラ、ムコキュウでもダイジョウブだが――イズレげんかいをムカエテしんでシマウ」
「!」
「ソレハいやダロウ?」
黒い靄は相変わらず、私をあざ笑うかのような口ぶりでそう言った。
ここまで私をたきつけるように言ってくる――この言い方からして。
「……まるで、私がジェイドをあそこから引っ張り出すのが……あなたにとっても都合がいいみたいね?」
「フッ……」
黒い靄の反応を知り……私はジェイドが言っていたことを思い出す。
確か彼は――「氷をもってして外部と遮断する……妖精の力を持っている」と言っていた。だから、この黒い靄は現在進行中で……この水中内に閉じ込められているのだ。
そして見ていれば――わずかな違いだが……黒い靄が先ほどよりもちょっとずつ薄くなっていることに気づく。
きっと黒い靄が言う「抵抗する力」のせいで、ジェイドの力が上手く働かず――じりじりと消えて行っているのだろう。しかしそのおかげで、ジェイドは死なずに済んでいる……複雑な状況になっているようだ。
「タトエ、ケネンがアッタとシテも、オマエがマヨウジカンは……」
「迷ってなんかいないわよ?」
「ハ……?」
そう、例え――この黒い靄が私をあえてジェイドのほうへ誘導しようとしているのが分かっていたとしても。
私がやることは決まっていた。
なにより、この黒い靄のおかげで私の決意が定まったといってもいい。
「オマエは、ナニヲいって……」
「あなたの望み通り、私はジェイドを助けに行くわ」
「!」
黒い靄にそう言ったのち、私はジェイドから貰ったドレスをその場で脱いだ。
そしてコルセットを外し――下着でまとっていたシュミーズだけになる。
(こんなに布面積が大きいドレスで――水中を泳ぐべきではないわよね。それにコルセットも、身体が苦しすぎるもの)
シュミーズは薄いワンピースのようなものなので、足の上までたくし上げて――下の裾でまとめるように結ぶ。加えて、ヒールが付いた靴は……水中では、なにも役に立たないので――脱ぐことにした。
気分は水泳の授業前の……準備のような気分だった。
黒い靄は私がしている行動が理解不能なのか、黙りながら水中でふよふよと漂うばかり。
「すぅ――はぁ――」
「……ヤハリ、ニンゲンはオロカだ」
「ええ、そうかもね……ほら、今から行くわよ」
「ホウ……ナラバ、あそこデ、マッテイテやろう」
呼吸を整えながら、黒い靄にそう話しかけた。
すると黒い靄は私の答えに満足したのか、ジェイドの身体のほうへ戻っていく。
そしてひと際大きく、息を吸ったのち。
――ピチャン……。
冷たい水中へ、私は意を決して身体を入れていく。
(やっぱり、すっごく冷たい……!)
手であれほど、冷水なのが分かっていたはずなのに――身体でもその冷たさを浴びて、末端まで急激に体温が下がった気がした。
しかしそれで身を引くことはしない。
目の前に助けるべき――ジェイドがいるから。
水中に入って気づいたのが――この水中は意外と氷の地面が、すぐ下の足元にあった。だから、泳がなくとも……一歩ずつ足を進めれば、彼のもとに辿り着きそうだ。
「ホラ、こっちダ……」
本来なら、水中内で声など聞こえようもないのに……不思議なことに、黒い靄の声が聞こえた。きっとあの靄が、上皇后様であり、妖精ゆえに人知をこえた技ができるのかもしれない。
しかしそうやって挑発を受けながらも、私は歩みを止めず――ものの30秒ほどで、ジェイドのもとにまで辿り着く。
「ハヤク、コイツを……ソトヘ」
「……」
ジェイドの身体には相変わらず、黒い靄が張り付くように付いている。
なんなら、ジェイドの身体から染み出てくるようなのもあって……。
(食事に黒い物質が含まれていたのよね……本当に、なんてことを……)
痛ましいジェイドの様子に、私は自分の手をぎゅっと握り――自分へ活を入れる。
そして黒い靄に……ニコッと笑みを浮かべた。
「……?」
急に私から笑みを受けて、黒い靄は黙り込む。
そんな様子に私は、満足な気持ちになりながら。
ジェイドの身体に――ギュッと抱きついた。
「!?」
そして力づくで……黒い靄を引きちぎるように――思いっきり引っ張る。
水中ゆえ、だからだろうか――普通なら靄なんて触れないはずなのに……しっかりと掴めたのだ。
「グ……ァ、グァアアア、イタイ、イタイイタイ……ッ」
(私はジェイドを助けると……確かにそう言った――けれど助ける方法として、すぐに外へ連れ出すなんて言っていないわ)
「お、マエ……マサカ……まもリて、ナノ、か……!?」
黒い靄は驚愕したような声で、そう言ってきた。
なるほど、上皇后様は――私が守り手だということを知らなかったようだ。
(そうだとしても……手を緩めるつもりはないけれどね)
ジェイドを助けるために……彼を外へ連れ出すよりも、この方法を優先したのは――彼がこの黒い靄をわざわざ遮断している状況ゆえに、そうしたのだ。
(きっと外部に出したらまずいから……だからこそ、ここに閉じ込めておいた……ということよね)
あの日の夜に……彼の妖精の力について聞いていて良かった。
その記憶があったがゆえに……彼に黒い靄が付いている状態で外へ連れ出すよりも先に――黒い靄を除去することを選んだのだ。
そして少しでも早く……私は黒い靄を追い払えるように、加えてジェイドの身体から無くすように――全力で引っ張った。
するとノエルの妖精の時と同じく効果があるようで……黒い靄がスゥッと色が薄くなっていく。
「ヤメロ……ヤメ、イヤダ、キエタクナ……ヤメ……」
黒い靄は必死に抵抗しているようで、か細い声をあげて同情を誘おうとしていた……が。
(まったく同情の余地なんてないわよ! さっさと消えなさい……!)
私はあらためて決意を強く持って……黒い靄が消え去るまで、彼の身体から離れなかった。そして、絶対に離れない決心をした――その時。
――パァァ……。
(ジェイドの身体に……光が纏って……)
黒い靄が消えていったかと思えば、彼の身体を覆うように淡い光が発光しだし――気づけば大きな明るい光となって彼を包み込んでいた。そのまま、その光はすぐに収束していき……。
黒い靄の声が消えていた。
感覚的に……黒い靄が除去できたのだと――そう感じた。
そして彼の眉がピクッと動いたのに気づく……のと同時に、水中の温度が冷えていくのを感じる。
(ジェイド……! 黒い靄の効果がなくなって……この水中が……)
先ほど黒い靄は、水中内が凍らないように――力を使っていると言っていた。しかしその黒い靄がなくなったことで、水中内が再び凍ろうとしているようだ。
私はジェイドの腰を支えながら、来た道を素早く足を動かして――歩く。
(水の中なのに……ジェイドの身体が……お、重い……!)
私よりもはるかに、体つきがよく――何なら逞しすぎる肉体美を持つのだ。そりゃあ、重いわけで。
しかし弱音は吐いてられない、このまま外に出られないと……氷漬けにされてしまう。そうなったら、せっかく黒い靄をなんとかできたのに、すべてがしまいだ。
(早く、少しでも早く歩きたいのに……どうしてこうも私の身体も……重いの……っ)
最初に水中に入って来た時よりも明らかに、身体が怠い。
これがきっと――レイヴン卿が言っていた……守り手の力を使うことで起きる身体のデメリットなのだろう。
(でも、あともうちょっとなの……お願い……もうちょっとだけ、身体を動かさせて……!)
必死に全身の筋肉を総動員して、一歩また一歩と水の膜の方へ近づいていく。それと同時に、水温はどんどん下がっていくため、より身体がうまく動かしづらくなる。
(ノエルに必ず戻るって約束したの……! それにジェイドを助けるって……!)
こんな終わりは――あんまりだ。そう思っているのに、段々と足がうまく動かなくなっていく。
怠い、重い……感覚もどこか鈍くなっていく。
気持ちだけではどうにもならない――ひどい倦怠感。
水の膜まであと一息……そう思うのに、ついに身体が沈んでいってしまう。
(やだ……もう、だめ……なの……?)
せっかくここまで、どうにか……できそうだったのに……。
意識すらどんどん沈みかけそうになった――その時。
――グイッ。
私の腰に強い力が――押し上げるような力が入る。
思わず……ジェイドの腰を掴んでいた手にも力が入ったその時。
――ザパッ……!
水の膜を突き破って――私は外の空気を浴びることができた。
それと同時に……。
「レイラッ……! 大丈夫か……っ!?」
慣れ親しんだ……大切な人の声が聞こえてきた。
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