第086話
憎き色無鮫を討ち取ったとあって、浜辺は大いに賑わっていた。
クリスタルのようにキラキラと輝くサメの体を、ヘリングが器用に捌く。内蔵も骨もほぼ透明なのにうまく捌けるのは、何万匹もの魚を捌いて培ってきた長年の経験と勘が為せる技といえるだろう。
きれいにスライスされたその刺し身は、見た目は正しく寒天である。
みな恐る恐るその身を口にして、そしてその味に感動している。美味いのだ。
脂の旨味はあるのに、魚特有の臭みがない。旨味だけが舌に広がり、身が溶けるように無くなっていく。まさに絶品である。
当然酒と合わないわけがなく、またしても宴会が始まっていた。まぁことあるごとに宴会を開きたがるのは漁師の性だ。つまりいつも通りと言えよう。
「もうダメかと思ったその時だ! 息子のレイが銛を持って決死の突撃をした! レイの銛はヤツのエラの近くに刺さったみたいで、途端に動きが鈍くなったんだ!」
皆の注目を集め大きな声で喋っているのはカッドである。息子の勇気ある行動が余程嬉しかったのか、同じシーンの話を繰り返している。すでに4度目だ。
「別に、大したことじゃねぇよ」
照れながらも、満更でもなさそうなレイ。その右腕は色無鮫の尾ビレに打ち付けられた時に折れたようで、今は処置が終わり三角巾で首から吊るしてある。
「そしてフィオレ嬢の魔法! みんなも見たと思うが、俺たちの舟を物凄い勢いで推し進めるとんでもねぇ魔法だった!」
ようやくカッドの話が息子から他の人へと移った。
「彼女がいなかったらこの作戦は成り立たなかった! 最高の魔法使い、フィオレ嬢拍手を……って、フィオレ嬢はどこだ?」
「フィオレなら温泉に入ってくるって言ってたぜ。海水に慣れてないからベタベタして気持ち悪いって言ってたぜ」
そう、フィオレは海に落ちたのだ。海水で濡れた髪や体を放置するなど、乙女に許せることではない。
浜に乗り上げ、皆の無事を確認したあとに早々と温泉へと歩いていったのだ。
「お呼びですか?」
そしてちょうど帰ってきた所だ。
湯上がりで上気した頬に、濡れて張り付いた紫の髪。制服は濡れてしまったので、シグラス村の女性たちと同じ、袴の様な服に身を包んでいる。幼いのにどこか色気のあるフィオレと、見慣れた服装というギャップが漁師達の視線を釘付けにした。
一時間ほど前に、ゲロと言う名の撒き餌を海に撒いていたとは思えない美少女である。
皆の視線を一新に浴び、コテンと首を傾げるフィオレ。フィオレに見とれていたカッドがハッと我に返って叫ぶ。
「最高の魔法使い、フィオレ嬢に拍手を!!」
ワッと浜が湧く。
フィオレは状況がよくわからないまま、笑顔で手を降っていた。
「そして今回の一番の功労者は、やはり錬金術師のユーリ! 幼いながらも錬金術を使え、錬金術師にあるまじき力の持ち主! いやぁ、俺は未だにユーリがあんな力を持っていたことが信じられないぜ。って、ユーリの奴もいねぇじゃねぇか」
「ユーリなら宿屋の前でゴソゴソしてましたよ?」
「全く。せっかくの宴会だってのにマイペースな姉妹だな。おいレイ、ちょっとユーリを呼んで来い」
「うっす」
ユーリを呼びにかけていくレイ。その後ろ姿を見ながらフィオレが首を傾げる。
「えっと、姉妹じゃないですよ?」
「そうなのか? ユーリがお前のことお姉ちゃんって呼んでるから、てっきり姉妹かと思ってたぜ」
「いえ、私はユーリの姉であっていますが……」
意味側からないというような表情の漁師達。ニコラだけが可笑しそうに肩を震わせて笑いを我慢していた。
「えっと、とても可愛いですが、ユーリは私の『弟』です。なので、姉妹ではなく姉弟ですね」
驚愕の声が、今日一番の大きさで浜に響いた。
◇
えええええええぇぇぇ!!
という漁師達の声を背中に受けて、レイはちらりと後ろを振り返った。ここからでは何があったのか分からないが、何か驚くような事があったのだろう。
気にはなるが、今はユーリを迎えに行くことが優先である。
憎き色無鮫を倒した祝の席に、その最大の功労者であるユーリがいないのはいただけない。早く呼んでこなくては。
レイが宿の前に来た時、ユーリは宿の前にダンゴムシの様に蹲っていた。
研究所者というものは、度々ダンゴムシの様になるものである。
「何してんだ? みんなユーリのこと待ってるぞ」
レイが声をかけるも返事はない。
「ユーリ、腹でも痛いのか?」
レイがユーリの手元を覗き込んで見ると、地面には何枚かの紙が散乱していた。殆どの紙に何やら模様が描かれている。そう、魔力用紙である。
「何だこれ?」
当然レイにはそれがなにか分かるはずもない。一枚を拾い上げる。
ニチャァ……
「うわっ、何だこれっ!!」
その拾い上げた紙には何やら透明でヌメヌメした液体が付着していた。恐る恐る鼻に手を近づけてみると、ほのかに生臭い。
「うえぇ、もしかしてダイオウクラゲか?」
御名答、ダイオウクラゲである。本来であれば乾燥させ粉末にしたものを中和剤として使用するが、ユーリはその手間を惜しんで、というか待ちきれずにそのまま使用していたのだ。
「錬金術ってのはよく分かんねぇや。本当にこんなのが役に立つのか?」
傍から見ればユーリのやっていることは、クラゲの成分を塗りたくった紙に落書きをしているだけだ。『錬金術』なんてものとは程遠い行為に見える。
レイの問いかけにもユーリは答えない。いや、声が耳に入っていないのだろう。
今は先程まで一心不乱に削っていた何かの粉末を紙にふりかけている。
「なんだこれ? 透明の粉末……もしかして色無鮫の歯か?」
そう、ユーリが削っていたのは色無鮫の歯である。まるでクリスタルのようなそれの粉末を中和剤として使用するつもりなのだ。
ユーリは細かく削った色無鮫の歯と中和剤を混ぜたものを紙の上に撒き、中心に指を乗せる。
今度は綺麗な円が現れた。
「へー、ギザギザだけじゃなくて円もあるんだな」
レイはユーリの触っていた紙を無造作に掴むとマジマジと見る。きれいな円形だ。
「んで、なんなんだこれ? ……ヒィッ!」
ユーリに目を向けると、無表情でレイの顔を見ていた。表情筋を動かす脳さえつぎ込んで研究をしていたのだろ。幼く、容姿の整っている子供の無表情は、なんというか、軽くホラーである。
「ななな、悪かったよ! ほら、返すから!」
返してもらった紙。魔力用紙に描かれた真円を見て、今度は大輪の花が咲いたかのような笑顔になる。
「レイ! やった! やったよ! できたよーー!!」
ホラーな無表情による恐怖からの、この愛らしい満面の笑み。吊り橋効果に似た何かがレイの心を揺さぶる。
「あははははっ!! できたっ! できたんだっ! やったー!!」
喜び、はしゃぎ、レイに抱きつくユーリ。ちなみにユーリの体はダイオウクラゲでベタベタである。
「おおおお、おい!! やめろ!! 離れろ!! 痛え!! 腕が痛え!!」
「あははは! できた! 一歩前進だー!!」
必死に引き離そうとするもユーリの膂力に叶うわけもない。レイの顔は真っ赤である。
「ユーリ! お、お前、身体ベタベタなんだよ! 洗ってこい!」
ベタベタなのが幸いし、ぬるりとユーリの腕から抜け出したレイ。
「何やってるか分かんねぇけど、終わったんならさっさと体流してこいよ。今日の宴会の主役はフィオレとお前なんだからよ」
何故かユーリを直視出来ない。頬が熱い。胸が痛い。
レイは頭を抱える。まさか、こんなダイオウクラゲでヌチョヌチョになっているあやしい錬金術師の少女を好きになってしまったというのか。
こんな、何を考えているか分からない、意固地で、変人で、力が強くて、天真爛漫で、可愛らしい子を……
チラリとユーリの顔を見る。可愛い。当たり前だ。あの美少女フィオレの妹なのだ。
まさか、これが恋……
「あはは、うん! 体流してくる!」
言うが早いか、着ている服をスポポーンと脱ぎ捨てるユーリ。
「……へ?」
パンツは履いているが、上半身は裸である。
頭が真っ白になるレイ。
「海で流してくる!」
海に駆け出すユーリと、数秒固まった後に慌てて追いかけるレイ。
「お、お前! 待てー! 上着ちゃんと着ろ! バカ!」
ユーリはレイの言葉など気に留めることもなく、桟橋から思いっきり海に飛び込み、気持ちよさそうに泳ぐ。
色とりどりの魚たちが、ユーリの身体から剥がれるクラゲのカスを食べに集まってきた。
レイもユーリの脱ぎ捨てていった服を持って海に飛び込む。
「ほら! 早く着ろ!」
「なんでー!? レイも着てないのにー!」
「俺は男だから良いんだよ!」
「あはは! なら僕も良いじゃん! 変なのー!」
「僕もって……へ?」
レイの顔からスッと血が引いた。ユーリを見る。プカプカと仰向けに寝ているユーリの、その胸を。
ペッタンコ。
そんな音が聞こえてきた気がする。
バシャンとレイも仰向けに海に浮かぶ。海水が口に入る。しょっぱい。これは海水である。決して涙などではない。
恋心を自覚した瞬間に、レイの恋は終わった。




