第079話
ニコラとシグラス村に行く計画を立ててから二週間後。
ユーリは親しい人達にしばらく留守にすると伝え、いよいよシグラス村に向けて出発である。
時刻は早朝。天気は快晴。馬の調子良し。馬車に不備無し。
「それじゃ、出発ね」
「うん!」
御者台に座るニコラと、幌付きの荷台に座るユーリ。そして、
「よろしくおねがいします」
ユーリの隣には当然のようにフィオレが座っている。
ユーリがシグラス村に行くと話をしたとき、フィオレはそれはそれは反対した。
しっかりした護衛付きの旅ならまだしも、16歳の少女と8歳の少年の二人旅である。しかも戦力は8歳の少年だけだ。
冒険者の活動をしていたことは知っているが、フィオレはユーリの実力を詳しく知らない。止めるのは当然である。
しかしながら、ユーリの意志は固い。いくら止められても、シグラス村に行くという意志は折れることなどないのだ。最終的にフィオレもついていくということで話がまとまったのである。
フィオレがついてくるということすなわち、旅の難易度がグッと下がるということである。何せ、水と火の心配をしなくていいのだから。
「弟は強くて錬金術使い、姉は火と水のダブル。ほんと、優秀な姉弟ね」
傍から見れば子供だらけの非常に危なっかしい旅だが、その実は非常に安心安全な旅の始まりである。
◇
夏の強い日差しの中を馬車が進む。
整備された広い道を快調に進んでいく。
御者台に座るニコラが暑くない様に、ユーリは冷風の吹くうちわ、ヒエヒエ君でニコラを仰ぐ。
馬も熱中症にならないよう、定期的にフィオレの魔法で水をかけているし、喉が渇いたら遠慮なく水を飲み放題だ。
快適だ。快適すぎる。
ニコラはあり得ないほど快適な行商にだらけそうになる心を必死に保っていた。
まずい。これが普通だと思ってしまったら、もう今までの行商には戻れなくなってしまう。気を引き締めねば。
そんな妙な葛藤に苛まれているニコラをよそに、馬はいつも以上に元気にかけていく。
予定通り途中2つの村で野宿させてもらい、三日目の昼過ぎには目的の漁村、シグラス村が見えて来た。
海から吹き付ける潮風がユーリ達の鼻に届く。
「わぁー! 変な匂い!」
ユーリは初めて嗅ぐ海の匂いに興奮してウズウズしている。今にも飛び出しそうだ。
「ちょっと先に行ってくる!」
実際に飛び出してしまった。
身体強化を発動して馬車から勢いよく飛びしだしたユーリは、そのまま猛スピードでかけて行った。
「あっ、こら! まちなさい!」
フィオレの抑制の声は、残念ながら駆けていくユーリの耳には届かなかった。
「……あのスピードなら、馬車じゃなくて自分で走れば一日でここまで来れたんじゃないの?」
ニコラのつぶやきももっともである。いまのユーリのであれば、一日でベルベット領都からシグラス村まで駆け抜けることは可能かもしれない。流石に荷物を抱えていたら難しいだろうが。
「もう、あの子ったら……」
「まぁいいじゃない。どうせ海辺にいるでしょ」
心配そうなフィオレとは対照的に、ニコラは特に心配している素振りはない。ユーリの強さを実際に見たことがあるからだろう。
ちなみにフィオレもユーリと同じく初めての海である。ユーリの様に駆け出したい気持ちもあるが、フィオレはユーリの様に走れるはずもない。
シグラス村の入り口の守衛(といっても、若者の漁師が交代でやっているだけの守衛だが)に村に来た目的を伝えると、特に怪しまれることもなくすんなりと通される。
そもそもシグラス村は城壁も何もない村だ。入ろうと思えばどこからでも入れるのだから、村の入口で検問したところで意味などない。
ログハウスのような、丸太を組み合わせた家が点在する通りを進む。
どの家も漁師をやっているのか、軒下にはおろされた魚介類が並んでいる。干物にしているのだろう。
少し進むと、日の光を反射してキラキラと光る青色が目に入る。海だ。
「わぁー……すごい、これが海……」
「領都からは遠いから、なかなか海を見る機会って無いわよね」
近づいて行くと、広い砂浜と桟橋、所狭しと並べられ波に揺られている木製の船が見えてくる。そして桟橋付近をチョロチョロと動き回る人影。ユーリである。
フィオレとニコラは馬車から降り、ユーリのもとへ歩く。
「ユーリ! 一人で走っていったらだめじゃない!」
「お姉ちゃん! 見て見て! 早く! こっち!」
怒るフィオレなど無視してユーリはフィオレの手を引き、桟橋の上に来ると海を覗き込む。
「ほらここ! すごい! お魚さんがたくさん!」
桟橋の近くに漁礁があるのか、色とりどりの珊瑚に海藻が揺らめき、鮮やかな色をした魚達が泳いでいる。
「もう、この子は……」
呆れながらもフィオレも海の中を覗き込む。
「わぁ、本当に綺麗……」
「ね! すごいよね!」
キラキラした瞳で楽しそうに海を眺める二人。
放っておけば何時までもそのまま眺めていそうな二人にニコラが声をかける。
「はいはい、どうせ明日から飽きるほど見ることになるんだし、今日は早く宿に行って休むわよ。流石にあんたたちも長旅で疲れてるでしょ。私はもうヘトヘトなのよ」
街から街へ、村から村へと行商をしていたニコラにとって、海はさして珍しいものでもない。
それよりも早く宿屋に行き休息したいのだ。
「シグラス村の宿は一つだけだけど、良い場所よ。何より温泉があるのよ!」
「温泉!」
「おんせん、ですか」
温泉という単語に喜ぶユーリと首を傾げるフィオレ。
「地中からお湯が湧いてててね、大きなお風呂みたいになっているのよ。すごく気持ちいいんだから!」
「地面からお湯が……なんか土で濁ってそうですけど……」
「まぁ入ってみれば分かるわよ。ほら、いくわよ」
納得のいってなさそうなフィオレと目を輝かせるユーリを連れて、ニコラは目的の宿へと向かった。




