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伯爵令嬢の幸福④

甘いです

 今日のシャイルはデスクワークより外に出て騎士団の指導をしたりする時間が多かったからか、彼の胸元からはあまりコロンの匂いはせず代わりに土のような香りがした。


「……リネットはよく俺の匂いを嗅ぐが、そんなにいいものか?」


 すんすんと匂いを嗅いでいると、頭上でくすくす笑われた。


「特に今日は、騎士たちと一緒に泥にまみれたし、その後で汗は流したにしろ……あまりいい匂いじゃないだろう?」

「そんなことないです。……いつも誰かのために一生懸命になるシャイル様の匂い、私は大好きです」


 昔ミラが、「本当に好きな人だと体臭でさえいい匂いに感じられるそうです」と言っていたが、まさにその通りだ。


「私、子どもの頃からシャイル様の匂いが好きだったのです。私が部屋にこもって本を読んでいたら、シャイル様はお茶に誘ってくれたりしました。そのとき、シャイル様からお外の匂いがするのが好きでした」


 シャイルからはいつも、土と草と太陽の匂いがした。運動嫌いで出不精なリネットとは違う、明るくて爽やかな香り。

 ……それがリネットの大好きな人の匂いだった。


 そう告げると、シャイルは「そうか」と小さく笑った後、少し腕の力を緩めてリネットを離した。

 そして体を少し縮めると、自分の膝の上にまたがる姿勢になっていたリネットの肩口に顔を押しつけた。さらさらの前髪が首筋に触れて、少しくすぐったい。


「んっ、シャイル様……」

「俺も……おまえの匂いがずっと好きだ。花のような、菓子のような、果物のような……だがそれらよりずっと甘くてかぐわしい匂いがしていた」

「え、と……そうなのですか?」

「ああ。……だが」


 シャイルは先ほどのリネットをまねているのかしばらくの間リネットの首筋をすんすんと嗅いでいたが、顔を上げた。

 そして片方の手で、リネットのドレスの詰め襟部分を軽く引っ張って――


「こちらの方が……より甘い匂いがする」

「……きゃっ!?」


 ちゅ、とあらわになった首筋に唇を押し当ててきた。

 がががっと全身の体温が急上昇して、シャイルに触れられている部分だけでなく全身が甘く痺れてくる。


「シャ、シャイル様!?」

「ん……俺も、リネットの匂いが好きだ。大好きだ」

「分かりましたから、そこで言わないでください!」


 首のあたりは皮膚が薄く、シャイルが喋るたびに温かい吐息が触れてぞくぞくっとした痺れが背中を駆け上がってくる。


 リネットが半ば悲鳴のような声で訴えたからか、シャイルは「分かった」とわりとあっさり襟を戻し、むくれるリネットの頬に軽くキスをした。


「いたずらをして、悪かった。……謝るから、許してくれるか?」

「ゆ、許し――」

「……」

「……ません!」


(いけないいけない! ついほだされそうになったわ!)


 一度目では結婚した相手とはいえ、戦況が戦況なのでこんなふれあいをまともにしたこともなかった。


 だから、リネットの中で二十二歳の自分が嬉し泣きしていた。

 ずっとこうして触れてほしかった、とシャイルを置いて戦死した自分の魂が、喜びを訴えている。


 ……だが、それにしても恥ずかしいものは恥ずかしい。


(これは、今後のためにもきちんと言っておかないと!)


 腕を突っ張ってシャイルの抱擁から離れたリネットは、右手の人差し指を立てた。


「いいですか、シャイル様。私だって恋愛初心者なのだから、そのへんはもう少し手加減していただきたいのです」

「……リネットは、あまりベタベタされるのは好きではないのか?」

「そ、そういうわけじゃありません! ただ……」

「ただ?」

「……す、すごくドキドキするし、恥ずかしくなってくるし……素直になれなくなるので!」


 言いながらリネットは、これでは理由になっていないのではないかと思い至る。

 だがシャイルは思うところがあったようで、リネットの立てた指をじっと見つめて「ふむ」と唸った。


「顔を真っ赤にして恥ずかしがるリネットの顔なら、いくらでも見たいが……それでリネットが意固地になって逃げてしまったら、俺も困るな」

「そうでしょう!?」

「分かった。リネットに逃げられない程度に抑えておく」


 シャイルは真面目な口調で言った後にやおらリネットの右手首を握ると、その立てた人差し指の先に軽く口づけた。


「んっ……!?」

「リネット、可愛い。……できるなら、恥ずかしがる顔も俺に見せて?」


 そう言って小さく笑うシャイルを表現するなら、「気障」といったところか。人によってはげんなりするような気障な仕草も、シャイルがするからかますますリネットをときめかせた。


(シャイル様、もっと欲がない感じだと思っていたのに……)


 積極的になってくれるのは嬉しいが妙に悔しくもあり、リネットは右手を引っ込めると左手の拳でシャイルの胸を叩いた。


「……シャイル様、ずるいです。前は、こんなに迫ってこなかったのに……」

「……一度目の俺は、おまえに手を出さなかったのだろう? だがきっと心の奥底ではおまえに触れて愛でたいと思っていただろうし……俺の方も、手放して死なせてしまうくらいならいっそ、ずっと俺の腕の中に閉じ込めておきたいと思っていた」

「……それは、あの、嬉しいです。でも、やけに手慣れていません……?」

「そんなことはない。一度目でも俺はリネット以外の女性を口説いたことさえないし……。ああ、だが、もしリネットと一緒になれるならいろいろなことをしたい、とは思っていた。今は、その積み重なった想いを少しずつ消化しているだけだ」


 シャイルはそう言うと、真っ赤になったまま固まってしまったリネットを愛おしそうに見つめ、頬を両手で押さえた。


「……熱いな」

「……シャイル様が、触れているからです」

「そうか。……唇も、熱いのだろうか?」

「……試して、みてください……」


 たまには思い切って言わねばと思いリネットが告げると、シャイルは目を丸くした。


(あ、今のシャイル様の顔、子どもの頃みたい)


 リネットが派手な魔法を披露したとき、シャイルはこんな顔で驚いて――そして満面の笑みになり、「リネットはすごいな」と言ってくれた。


 だが二十一歳のシャイルはそんな可愛らしいことはせず、すぐににやりと捕食者のような眼差しで笑った。


「では、遠慮なく」

「……」

「……ずっと。おまえだけを愛している。リネット――」

「わた――」


 リネットの返事は重なった唇の狭間に溶けて、ほとんど音声になることはなかった。

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