51.
「ディミトリエ皇子」
私が呟くように名前を呼べば、その人は柔らかな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
カイマール殿下が少しだけ眉を顰めたけれど、ディミトリエ皇子はどこ吹く風だ。
「外の空気を吸いに出てみたらずいぶんと賑やかな集団が目に入りましたので。クリスティナ姫のお姿が見えましたので寄ってみたのです」
「そ、そうですか」
「サッカス殿も、昨夜ぶりですね。カイマール殿も、どうなさったんです? 供の方々は随分と肩で息をしていらっしゃるようですが」
くすくすと笑うディミトリエ皇子は柔らかな雰囲気のまま、私に歩み寄って小首を傾げる。
彼の視線はくるりと私の周囲にいる人間全員を見渡したようで、その関係性を今考えているんだろう。
キャーラとラニーはともかく、サッカス殿とヴァッカス、カイマール殿下とそのお供の方々というのは確かに変な取り合わせだとは思うからしょうがないのかもしれない。
ディミトリエ皇子の後ろにも当然、彼の従者が影のように付き従っているのだし厩舎の傍でこの人数は確かに目立ったに違いない。
「私が、そちらの、学者のヴァッカス殿に師事することになりましたの。それで、サッカス殿もご一緒にこちらに」
「ああ、昨晩話しておられた」
「はい。ディミトリエ皇子は、息抜き、で、しょうか?」
「ええ。昨晩のパーティで随分と深酒をしてしまいましたからね、ふふ、学びに来たというのに情けない限りです」
「いいえ、この国で寛ぎ、日々の糧にしていただけるのは喜ばしいことと思いますから時にはそのような日があっても良いと思います」
「優しいですね」
ふんわりと笑ったディミトリエ皇子はとても綺麗な男性だと、思う。
プラチナブロンドに宝石みたいな青い目を持つ、柔らかな雰囲気の人。だけど、その内面はきっと……私のようなぬるま湯の中で生きている人間には、想像もつかないくらい強い人。
きっとこんな笑顔を浮かべられたなら、何も知らない女性なら恋に落ちてしまうんじゃない? って思うような甘い笑みに私もなんとか笑みを返す。
なんだろう、この人と並んでしまうと女として負けている気がする……。
「ディミトリエ皇子はこの国の賓客ですもの。折角の休憩時間を煩わせてしまい申し訳ないと思っております、私も一度部屋に戻ろうと思っておりましたので、これで失礼いたします」
「おや、そんな事を仰らず。折角こうしてお会いできたのです、カイマール殿もサッカス殿も、皆揃って茶でもいかがです? マギーア流の茶会で是非皆様をもてなさせていただきたいのですが」
「まあ……それは大変ありがたいお話ですが、私は失礼させていただきます。またお誘いいただけますか?」
「おや、だめですか?」
「ヴァッカス殿に師事すると私が決めましたけれど、国王陛下の裁可を仰いでいるところですの。その確認に行かせた侍女がそろそろ戻っていると思いますので、今回は失礼いたしますね」
なんとか、私は『王女らしく』笑みを浮かべることに成功したと思う。
ラニーが差し出してきた手を取って、土から石畳へと移動した私をカイマール殿下が静かな目で見つめてくる事がとても居心地悪くて、私はそっと息を吐き出した。
「クリスティナ王女」
「なんでしょう、カイマール殿下」
「……後日、改めてお誘いするとしよう。その際は快い返事を、期待している」
「では、その時には私の婚約者も同伴の上で是非に。それでは皆様、ごきげんよう」
私が笑みを浮かべてそう言えば、肩を竦めたディミトリエ皇子とただ視線だけを投げかけてくるカイマール殿下、従者の人たちは何も態度には出さず。
サッカス殿は苦笑をしながら、ヴァッカスはおどおどしながら私に続いた。
キャーラは当然だというように少しだけ唇を突き出して不満そうにしていたので、私はそれがなんだかおかしくて、笑いそうになってしまった。
彼らの姿が見えないくらい進んだところで、私が歩みを止めれば全員が立ち止まった。
「ああ、びっくりした。どうだったかしらキャーラ、あれなら波風立たずに済んだかしら」
「だ、だだ、大丈夫、です!」
「サッカス殿も、巻き込むような形になってしまってごめんなさいね。ディミトリエ皇子のお茶会にお招きされた方が貴方には益があったかもしれないのだけれど」
「問題ございませんよ、王女殿下。あちらが誘いたいのは王女殿下であって私のような木っ端役人ではないのです。ましてや、私も弟の雇用主である貴女様と親しくする方がありがたいくらいで」
「ひ、ひどいなサッカス。僕は別に……そんなに、お前に迷惑をかけてなんか……ほんのちょっとくらいだよ。多分……うん、たぶん……」
「どうだか。お前のその性格のせいで、どこの貴族家相手でも家庭教師もできなかった事を忘れたのか? お前の考えに理解を示してくれて頭脳明晰な相手なんてそうそう見つかるもんじゃない、お前が愛想を振りまけないならせめて私が補うしかないじゃないか」
「……あんたたち、そういう兄弟喧嘩はせめてその対象であるうちの主の前では避けて二人きりの時にしてくんないかねえ……」
ラニーが呆れてそういえば、サッカス殿がにやりと笑う。
この人も、若くして外交官を任されているのだからそれ相応の曲者なのだろうとは思うしディアティナ姉様が頼りにするくらいなのだからとても有能なのだろう。
それにディアティナ姉様の事だから、きっと私のことを頼んだりしたのかもしれない。
「ヴァッカス、部屋に戻ったら貴方の意見を色々聞きたいの。実際に見聞きした事から判断ができると仰っていたでしょう? 実際にアニーに会って、ここから何が必要でどうするべきか、何を調べていくべきか是非意見を伺いたいの」
「ご自身も参加なさるのですか?」
「だめかしら……何ができるかわからないけれど、私もアニーのためにできる事はしたいわ。それが迷惑で出資だけしてほしいと言うのであれば、それも受け入れます」
「あ、いえ、そういう意味じゃないんです!!」
「いいのよ、はっきり言ってくださって」
「ち、違うって、ああ、どうしようサッカス、ねえサッカス……!!」
「ちゃんと自分の言葉で伝えろ、そのくらいできるだろう」
呆れた様子のサッカス殿の言葉に、ヴァッカスがああ、だかうう、だかよくわからない声を発している。
私自身、学者のヴァッカスの頭脳に並んで物事を考えられるなんて思ってはいない。
サッカス殿の言葉はお世辞だろうし、それを真に受けるほど私だって純真無垢じゃないもの。
本当はあの場でもっと話をするつもりだったのだけれどカイマール殿下が現れてディミトリエ皇子が現れて、それどころじゃなくなったものね……。
(それにしてもカイマール殿下は一体どういうおつもりなのかしら)
ディミトリエ皇子の方はまだマギーアでの王位継承権争いでターミナルの支援を受けたいっていう事から私に対して好意的に行動を起こすのも理解はできるけれど。
純粋に私に対する好意……のように思えるけれど、叔父様の話を聞いた後だとキャンペスにとって益となる理由がきっとあるのだろうと思うし……。
ああ、だめだなあ。
もっとこう、思惑とかが読める程度には知恵をつけなくては。
(書類上の数値だけじゃない、慣習や文化、歴史も知った方が良いかしら)
そうすれば、どんな考えを持った国民性なのか、そこから導き出せるのかもしれない。
黙り込んでしまった私の視界に、あわあわとヴァッカスが手を振っているのが見えて私はハッとした。
(またやっちゃった)
ついつい思考に耽るのはもう悪い癖だ、直さなくちゃ。
「ヴァッカス?」
「で、ですから!」
「え、ええ」
「あの、一緒に、学ぶ姿勢でいてくれるのは、大歓迎、です……!!」
顔を真っ赤にした彼に、私は目を瞬かせる。
ああ、そうか。
また私は勝手に、私の行動を人が迷惑だと思うのだと考えたけれどそれは違うんだ。
私は、少しずつ、こうして直していくんだろう。直していく間に、彼らの信頼を失わないように、努力し続けよう。
「……ありがとう、ヴァッカス。きっとお父様はお許しくださるだろうから、必要なものを揃えていきましょう。きっと私たちが考える事は、アニーだけではなくカエルムにも、ターミナルにも、必要な事になると思うわ」
「微力ながら、頑張ります!」
ほっとしたように笑ったヴァッカスに、私も今度は作りものじゃない笑みを浮かべて歩き出す。
グロリアは、きっともう戻っているだろうから。
アニーが走り回る姿を脳裏に浮かべて、私はそれをただの想像で終わらせないと改めて心に誓ったのだった。




