33.
「――……驚いた。なんということだろう。こんなところに月の女神がいるだなんて!」
急に聞こえた声に、私は思わずそちらに身体ごと向いた。
そうしたら涙がこぼれて、ああ、私は泣きそうなだけじゃなくて今泣くところだったのかと思ったら妙に恥ずかしくなった。
だって、この声の主が誰か知らないけれど私が子供じみた行動をしていたところを見られていたのかもしれないから!
「ど、どなたですか」
「これは不躾で申し訳ない。おれはカイマールだ、月の女神よ」
「……もしや、草原の国キャンペスよりお越しの、カイマール殿下でしょうか。本日はパーティに間に合わぬとご連絡をいただいていたはずでは?」
「おう、その通り。そのカイマールで間違いない。ああ、それよりも麗しき人、月の女神の化身よ。貴女のその愛らしい口からその名前をおれに聞かせてはくれないだろうか。その名を聞く栄誉をこの身に与えてはくれないだろうか」
私の前にずんずんと歩み寄ってきたのは、精悍な男性だった。
名前を聞いて心当たりがあったけれど、まるで王族というよりは一人の武将のような方で、そしてそのお姿から似合わないと言っては失礼だけれど、どんどんと甘い言葉が紡がれるものだから私は目を白黒させる。
驚きすぎると人は声も出なくて、そんな私に焦れることもなくカイマール殿下は私の前までやってくると迷うことなく膝をついて私の手を取り、懇願するようなまなざしで私を見上げてくる。
浅黒く日焼けした、男らしい風貌に白いキャンペスの伝統衣装、そこから流れるような黒髪が見えて、エキゾチックだ。
ああ、なんてことだろう。
こんな風にされたことなんて、人生で一度もない!
勿論、王女として跪かれることはあっても、こんな……こんな風に私が誰か知らずにただ無条件に褒めちぎり、名前一つ聞くだけでこんなにも情熱的な視線を向けられたことなんて!
草原の国、キャンペス。
ターミナルから北の山を抜けた先には草原がどこまでも広がる肥沃な大地があって、そこでは竜を駆るよりも馬たちを巧みに操り共に生きる部族が集まって一つの国家と成している。
基本的に遊牧生活中心としたもので、冬には定住地として作られている町々でそれまでの遊牧生活で得た羊毛やそこから紡いだ糸で織った布などを輸出している。
優秀な軍馬も多く輩出していて、特にキャンペスでは弓の名手が多いと言われている。
家族というものを特に大切にする国民性が有名で、一夫多妻制……だったはず。
カイマール殿下は現国王の弟で、その武勇は国内外に響き渡ると専らの噂。
特に決まった女性はいないし浮ついた噂もない、豪胆な人という話だったのだけれど……私の前に跪く男性がそうだと言われて動揺が隠せない。
「わ、私は……ターミナル王国第二王女クリスティナ、と、申します……」
「なんだって? 貴女が?」
ぱっと顔を上げたカイマール殿下は、とても驚いているようだった。
私が王女ということは、本当に知らなかったみたいだ。
けれど、噂は耳にしているのでは?
そう思ったけれど、彼には私のマイナスな点などどうでも良いのかもしれない。
「カイマール殿下には、初めてお目にかかることかと、思います」
「ターミナルの至宝、ターミナルの頭脳。そのように噂された女性がこのように嫋やかで美しい女性だったとはついぞ知らなかった」
「お、おそれいります」
こんなに手放しで異性に褒められることには慣れていない私は、どうしていいかわからない。
カイマール殿下は立ち上がって私のことをただじっと見つめてくるけれど、この場はどうしたら良いのだろう。失礼しますと踵を返して良いのかしら。
婚約したばかりの私が、異国の王族、それも妙齢の方とご一緒しているのではいらない誤解も招いてしまうのは火を見るよりも明らか。
それだけは避けたいし、レイジェスにどう思われるのか、それも怖い。
『俺はただ、マールヴァール将軍が望んだように彼女を守ろうとしているだけだ!』
先程の声が、私の耳にまた蘇る。
それだけで胸の内がぎゅっと痛みを訴えたけれど、一人でいられなくなった以上感傷に浸っていてはいけないし、もしかしたらこれは良いタイミングだったのでは?
「グロリア」
「ここに」
「あの、カイマール殿下。父とはもうお会いになられましたか?」
「いや。先ほど到着したばかりで、一息つきたいとテラスに来て気を静めようと思ったのだ。そこにクリスティナ王女、貴女がおられた」
「それは……申し訳ございません」
「いや、貴女にお会いできたのはなによりも嬉しいことだ。……しかし、確か第二王女は婚約をしたと聞いたが」
「……私、の、婚約者は」
婚約者。
そう言葉にするのには、何故だか躊躇われて。
その言葉を口にするのに、喉が張り付いたような気がした。
だけれど、なんとか笑顔は作れたと思う。
「この国の、親衛隊隊長を務めております。今は、兄である王太子とお話をしておりましたので、私は侍女を伴って夜風に当たりに来たのです」
「……では、おれと踊っていただくことは可能か?」
「え?」
「無論、ターミナル国王にご挨拶と、遅れたことを詫びた後にだが。月の女神よ、貴女と出会うことが遅かったのだとは理解している。理解している、が」
伸ばされた手が、私の手首をやんわりと掴む。熱い、と思うくらいだった。
その突然の行動は、かつて謀反の日にいいようにされてしまった己の無力さを思い出させるものであったのに、この人のそれは怖くなかった。
(どうして?)
「クリスティナ様! カイマール殿下、どうぞ我が主からお手をお放しくださいますよう」
疑問が浮かんだけれど、非難するグロリアの声に私自身もこれはいけないと思わずその手を振り払った。
「……カイマール殿下、どうぞお戯れはお止しくださいますよう。婚約者のいる女にそのような真似をするのがキャンペスの礼儀ではございませんでしょう?」
「そう、だな」
私が下がって、グロリアが前に出る。
グロリアは無言だったけれど、決して怯む様子もないそれには安心できた。
私を庇うように立ってくれたからほっと息を吐き出したところで、背後から聞こえてきた声に私はぎくりと身を竦ませる。
「クリスティナ姫」
「れ、いじぇす」
「探した。……カイマール殿下、供の方があちらでお待ちです。陛下も御身を案じておられましたので、どうぞご無事なお姿をお見せくださるよう」
「……貴殿が、クリスティナ王女の婚約者とやらか。ふむ、確かに腕は立つようだ」
「……」
じっと見るカイマール殿下、それを意に介していない様子のレイジェス。
だけれど、沈黙は僅かの間だけで、殿下は私の手を取ると口づけを落として「後でダンスを」と言ってさっと広間の方へと入っていく。
彼の登場にわっと中が騒がしくなったけれど、それはとても好意的な物で。
このテラスの静けさが、あちらとはまるで別世界のようだ。
「……なにか、言われたのか」
「え?」
「顔が赤い」
「そ、そう、かしら」
レイジェスに指摘されて、私は頬に手を当てる。
ああ、でもそうかもしれない。あんなに情熱的な視線を向けられたのは人生で初めてだったから、ドキドキしたのは確かだ。
月の女神だなんて。太陽がなければ輝けない、そんな月だとばかり思っていたけれど、月の女神という言葉はなんだかとても甘いもののように思えたから恥ずかしかったんだと思う。
「月の女神なんて褒めていただいて、恥ずかしくて」
「……」
「レイジェス?」
自嘲気味に笑ってしまって、レイジェスが何も返さないものだから不安になる。
だけど、彼の顔見る勇気は、まだ私にはない。
「グロリア殿。少々、席を外していただけるか」
「……お二方の、お飲み物をとってまいります」
「感謝する」
「えっ!? グ、グロリア!?」
それなのに、グロリアがこの場を去ってしまうだなんて!
今はまだ、レイジェスと二人でなんて覚悟も何もないのに……!!
「クリスティナ」
慌てる私の名前を呼んだレイジェスが、私の頬に、触れた。
その指先は、カイマール殿下と違って、ひんやりしていた。




