2章 第73話 反動
「うわ、雨かよ。洗濯物入れといて良かった」
鏡花とのデートから帰宅して、暫くするとそこそこ強い雨が振り始めた。出掛ける前に干しておいた洗濯物を先ほど回収したばかりだ。わりとギリギリで間に合ったらしい。
「やっべ。風呂沸かしてない」
いや、もういっそシャワーで済ますか? 夏場だからそんな長く湯に浸かるわけでもないし。
明日の予定は、夏休みの宿題と自主勉強のみ。誰かと会う予定もないので、わりと適当でも問題ない。
汗さえ綺麗に流せれば、それで十分ではある。この家には自分1人しかいないのだから。
1人暮らしは大変な事もあるけど、長期休みの間はわりとダラダラ出来る。少々適当に過ごしても問題はない。
そんな風にダラダラし始めた時だった。珍しくこんな時間に誰かが来たらしく、インターホンが鳴っている。こんな時間にうちに来るのなんて、小春ぐらいだろう。
「何だよ小春こんなじか……鏡花!?」
カメラに写っていたのは、1時間近く前に駅で別れた鏡花だった。そこそこ強い雨が降っているのに、傘も持たずにずぶ濡れで立っていた。
何があったのか分からないが、これはただ事ではあるまい。今行くと伝えて玄関に走る。
「どうしたんだ、そんな恰好で!?」
「……ごめん」
「このままじゃ風邪引くな。ちょっと待ってろ!」
鏡花を玄関に招き入れ、急いで風呂場へと向かう。さっさと風呂を沸かしておけば良かった。今更だけど湯船の用意をしておく。
そして乾いたバスタオルを何枚か掴み、玄関へと戻る。未だ俯いたまま棒立ちの鏡花は、何かがおかしいのは間違いない。
だけど今はそれよりも、ずぶ濡れの状態を何とかしなければ。幾ら7月と言えど、このままでは風邪をひいてしまう。
「ほら、使ってくれ」
「うん……」
「その服も、着替えた方が良いな。洗面所に行っててくれ」
鏡花とは20cm以上の身長差があるから、大体の服がデカ過ぎる。紐で腰を絞れるタイプのハーフパンツと、中学時代に使っていたトレーニング用のTシャツを、タンスの奥から引っ張り出す。
下着は、ちょっとどうにもならない。母親が置いて行った下着を渡すわけにもいかない。
「鏡花、開けて大丈夫か?」
「大丈夫」
「なら入るぞ」
ずぶ濡れだった鏡花は、多少マシにはなっていた。その変わり、濡れた衣服が張り付いて体のラインが丸分かりだ。少し透けてもいるから、ちょっと扇情的だ。あまり見ない様にしないと。
「まだ湯舟は湧いてないけど、シャワーは使えるから。着替えだけど、こんなのしか無くてな。すまん」
「ううん、ありがとう」
「じゃあ、俺はリビングに居るから。しっかり暖まれよ」
本当にどうしたんだ。見た事もないぐらい、感情の起伏がない。また何らかの暴力にでも晒されたのかとも思ったけれど、見える範囲に外傷は無かった。
衣服にも異常は見られ無かったので、そっちの心配も無さそうではあるが……。警察沙汰では無いと願いたい。
とにかく今は、鏡花に事情を聞かねばならない。それが分からない間は、どうにも動く事が出来ない。
分からないなりに色々ネットで調べたりしていたら、30分ほどで鏡花が風呂場から出て来た。
「もう良いのか?」
「うん、大丈夫……」
軽く鏡花の体に触れてみると、いつも通りの温もりを感じた。流石に夏場だからか、体の芯まで冷たくはなって居なかったらしい。それでも、安心するにはまだ早い。
「なあ、大丈夫か? 何があったんだ?」
「えっと……」
「言い難い事なら、無理に話さなくていい」
もちろん気にはなるが、無理矢理聞き出すのも違うだろう。それこそ小春を呼んで、女性同士で話し合うのも良い。
結城さん達に頼む手もある。俺が今どうしても聞かないといけない理由はない。後日改めて、と言うのも選択肢だ。
「……実は、その」
「良いのか、俺で?」
「うん。真君に聞いて欲しい」
それから鏡花は、母親と喧嘩した事とあまり両親と仲が良く無い事を話してくれた。何故そうなったのかは、まだちょっと話したくないらしい。
それなりの理由があるらしいから、いきなり踏み込んだ事は言わない方が良いと感じた。
「ここに居るって連絡ぐらいは、した方が良いんじゃないか?」
「要らないよ。どうせ、心配されないし」
「けど、そんなわけには」
「お願い……」
そこまで言うなら、黙っているけど。幾ら未成年とは言え、小学生じゃない。誰か友達の家に行く予想ぐらいは立つだろう。
結城さんか小日向さんの家、そして俺の家辺りが候補か。実際ここに鏡花が居るわけで。とりあえず落ち着くまでは、このままでも良いか。
「分かった、ここに居れば良いよ」
「うん。ごめんね」
「気にするな、俺達は恋人なんだからな」
一旦鏡花には、ゆっくりしておいて貰うとして。ずぶ濡れの衣服をそのままにはしておけない。
時間的に乾燥機を使うしかないだろう。夏服と下着ぐらいなら、多分乾くだろうし。
「鏡花の服を洗濯してくるよ」
「そんな、良いよそんなの」
「俺の洗濯物もあるからさ。ついでだよ。……嫌ならやらないけど」
それならお願いと、申し訳なさそうに頼む鏡花の頭を撫でてから、洗濯機のある洗面所へ向かう。
確か、女性用の下着ってそのまま洗濯機はダメだったよな? 母さんが使ってた下着用のネットがあった筈……これだ。
前にハウスキーパーさんに、やり方聞いたんだよな。男性でも知っておいた方が良いって。
やり方を思い出しながら、スマホで確認もしつつやるか。え〜と、弱や手洗いコースでやるのが良いと、なるほどな。
そんな話だったな、思い出して来た。じゃあ、タオルとかのちょっとした物と一緒に洗うか。服はいつも通り色物と分けてと。じゃあ下着をネットに…………あっ。
「これは洗濯だからな。嫌らしい意図はない。不可抗力だし同棲とかしたら、どうせやるんだからな、うん」
親と揉めてウチに来た彼女の下着を、ジロジロと見るもんじゃないよな。意外にも赤なんて着るんだなとか、思ったよりセクシーだったなとか、そんな煩悩は捨てろ。
心頭滅却心頭滅却……落ち着け、ただの布じゃないか。これは洗濯、ただ衣類を洗うだけ……よしネットに入れ終わった。
あとは鏡花の衣類を優先しつつ、ついでに洗える物も洗わせて貰おう。洗濯機が回っている間に、風呂も済ますか。
今の鏡花を、あんまり1人で待たせるのも良くないしな。ササッとシャワーを済ましてしまおう。
「すまん鏡花、待たせたな」
「大丈夫だよ」
「乾燥機に入れて来たから、その内乾くと思う」
ソファに座っていた鏡花の隣に座る。親子喧嘩をして気分が落ち込んでいるからか、今の鏡花はいつもよりも甘えたがった。
俺としては全然嫌じゃないし、鏡花の望む通りに対応する。こんな鏡花は初めてだから、新鮮な気持ちで頭を撫でてやる。
まるで甘えたがりの子犬の様だ。こんな一面もあったんだな。
中々見る事の出来ないレアな鏡花を、こうして愛でる時間も悪くは無かったが、いつまでもこうしてられるほど、残された時間はない。
もうすぐ22時になる、そろそろ家に帰さないと。鏡花の服も乾いただろうし。
「鏡花、時間も遅いし。そろそろ帰らないと」
「…………嫌」
「嫌って、そうは行かないだろ」
「今日は、帰りたくない」
これは困った。幾ら恋人とは言え親の許可もなく、未婚の女性を泊めるなんて良くないだろう。
鏡花の両親はもちろん、俺の両親にすら無断で泊めて良いのか。今時そんな事を考えるのは古いのかも知れないが、全く無視するのもどうなんだろう。
「鏡花……」
「お願い。今日は、一緒に居て……」
いやね、正直言えば嬉しいけどね。GWでも同じ建物の中で宿泊したとは言え、あの時は2人きりじゃないし保護者も居た。今とは全然条件が違う。
本来なら喜ぶべき展開なんだろうけど、傷付いた彼女の心を利用するのは違うだろう。鏡花はただ、一緒に居て欲しいだけ。
肉体関係を求めて、こう言っているのではない。1人で居たくない、そう言うタイミングなだけだ。
「分かったよ。じゃあ、母さんの部屋を使ってくれたら」
「真君と一緒が良い」
「鏡花……それは、流石に不味いだろ」
「一緒が良い」
鏡花はやや食い気味に、俺と同じ部屋を要求してくる。本当にどうしたんだろうか。喧嘩の内容までは聞けていないけど、そこが関係しているのか? 鏡花はやたらと一緒に居ようとする。
今の鏡花はノーブラノーパンなわけで、正直同じ部屋で寝るのは抵抗がある。とても落ち着いて寝れる気がしない。朝まで悶々と過ごす未来しか見えない。
「どうしても、か?」
「……嫌?」
「そうじゃなくてな、自制する自信がない」
「それなら気にしないから」
それはどういう意味ですか鏡花さん? え、今のその返答は聞き間違いですか? オッケーと言う意味に読み取れるんですけど? ……いや、違うダメだ。だから、今日はそう言うタイミングじゃないから。傷心の恋人につけ込む様な事はダメ、絶対。
「ま、まあ。鏡花が望むなら」
「うん。一緒が良い」
「じゃ、じゃあ布団取って来るから。鏡花はベッドを使ってくれ」
同じベッドで寝るのは不味い。物置に来客用の布団一式があった筈だ。多少強引だが鏡花を自室に押し込んだ後、物置に向かう。
ほぼ新品に近い来客用の布団を持って自室に戻る。大人しくベッドにちょこんと座る鏡花を尻目に、持ち込んだ布団を敷く。
普段使っている夏用のタオルケットを鏡花に譲り、俺は予備の薄い毛布を使う事にする。
「じゃ、じゃあ。時間も遅いからそろそろ寝よう」
「うん……」
電気を消そうとしたら、鏡花が袖を引っ張る。鏡花の表情を見れば、何を望んでいるか理解した。電気を消して寝る前にキスを交わし、俺は布団へと向かう。要らぬ煩悩と戦う為に目を瞑り、必死に寝ようと頑張り始めた。
ベッドの軋む音がするので、鏡花も寝る為に横になったのだろう。さあ、ここからが戦いだ。隣に鏡花が居るとか考えるな。ただひたすらに羊の数を数えるんだ。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……
「ん? 鏡花? どうした?」
何匹目か分からない羊を数えながら、必死に寝ようとしていた。すると横になった俺の体に、優しく触れる手の感触がした。
トイレとか? もしくは飲み物か。きつく瞑った目を開けて、暗闇に目が慣れるまで数秒。僅かな月の明かりが差し込む薄闇の中で、一糸纏わぬ姿の鏡花が俺のすぐ傍に居た。
「ちょっ!? 鏡花!? 何やって……」
「ごめんね……」
「いきなり何を」
突然の事に頭が全くついて来ない。俺が自制をしていたら、逆に鏡花の方から? 何で? マジでそう言う意味だったの?
いや、でもどうして? 鏡花にしては珍しく喧嘩なんてしたから、思考が正常じゃないのかも知れない。
「待て、落ち着け。こんなやり方は良くないって言うか、もっと自分を大切にだな」
「真君なら、大切にしてくれるでしょ……」
「いやいやいや!! そう言う意味じゃなくて、だからうむっ」
熱烈な口付けで黙らされてしまう。普通逆じゃありませんかね!? こう言うのって男がやるんじゃないか!? 何で俺が黙らされてる側なんだよ。
今の鏡花は、たまに見せる妖艶さが全開になっている。純粋な力だけなら余裕で勝てるのに、鏡花を跳ね除ける力が湧かない。
「上手く出来なかったらごめんね」
鏡花の放つ色気に絡め取られた真は、ろくな抵抗も出来ずに雰囲気に飲まれてしまった。親子喧嘩が発端となり、鏡花の中にある真を求める欲求の暴走。真は父親と違うと言う、ある種の反発心。
膨れ上がり続けていた、愛されたいと言う願い。その欲に従うままの鏡花と、翻弄される真の長い夜が始まった。




