2章 第59話 鏡花の母親
鏡花ちゃんの母親の名前を間違えていたので修正しました。
翠→杏子
思ったより大胆な行動が出来た自分に驚くけれど、これも恋をしたからなんだろうか。
友達のままだったら出来なかった事が、付き合っていると言う免罪符が後押ししてくれる。それでもやっぱり、誰かに見られていたら恥ずかしくて無理なのは変わらない。
真君と2人きりの時に、彼の前でだけ自分に正直になれる。この関係は幸せであると同時に、危険さもある。一度経験してしまうと、抜け出せない中毒性が凄い。
今より先に進む気持ちはあるけれど、後退するのだけは嫌だ。冷え切った関係になんて絶対になりたくない。その結果がどうなるか、良く知っているから。
「じゃあ、今から作るから。真君は座って待っていて」
「ああ。分かった」
さっきの事があるからか、真君もちょっと恥ずかしそうにしている。私は当然恥ずかしくて仕方ないから、キッチンに籠もって落ち着きたい。
2人で並んで料理するって展開も、そのうち出来たら良いなとは思う。けど、今だけは勘弁して欲しい。
あんな風に熱烈に求められた直後に、真っ直ぐ顔を見られないから。隣に居られるだけで心臓の鼓動が跳ね上がりそうだから。
鏡花は先ほどまで感じていた、強い高揚感をどうにか抑えて料理に集中する。カレーを作るのなんて慣れたものだ。手を動かしていれば自然と料理に没頭出来る。
真を誘った鏡花の狙いは、2人きりで晩御飯を食べる事と、多めに作ったカレーを持ち帰らせる事にあった。彼女が作った料理を、彼氏が持って帰るって何か良いな、なんて思ったからだ。
お互い自宅に居ながらも、食べるものが同じく鏡花が作った食事。そんな想像を現実のものとしたかった。
そんな鏡花の可愛くて健気な理由を聞けば、真は心底喜ぶだろう。そして同時に、近藤さんを置いて来た判断に安堵するだろう。
「凄いな鏡花、店で食べるのと大差ない。いや、それ以上かも」
「そ、そうかな? 良かった、喜んでくれて」
「鏡花が作ってくれるなら、何でも嬉しいぞ俺は」
「そ、そっか。へへ」
照れ臭くはあるけれど、同時にこの男の子が喜んでくれるのが嬉しい。四人がけのシンプルな木製のテーブルで、向かい合いながら自分が作ったカレーを食べる。
そう、何だか家族でやる様な、幸せな食事。もう失ってしまった温かい時間。それが目の前の彼との間にだけはある。
何処かに置いて来た筈の、二度と手に入らない筈の空間が蘇った。それが嬉しくてたまらない。些細な事かも知れないけど、間違いなく私は幸せを感じていた。
「沢山作ったから、持って帰ってね」
「え、良いのか? 両親の分もあるだろ?」
「それは大丈夫だから、心配しないで」
そう、心配なんてしなくて良い。父はどうせ帰って来ないし、食べて帰って来る事も多い。最後に顔を合わせたのがいつか、もう覚えていない。
母親はわりと帰って来るけれど、朝まで帰って来ない日も多い。どこで何をしてるかなんて、もう今更どうでも良い。
いけない、余計な事を考えている場合じゃない。今は真君との楽しくて幸福な時間なんだから。
そんなつまらない事なんかより、そろそろ君付けを辞めようかどうか。そう言う明るい事に頭を使おう。
結局上手く呼び捨てで呼ぶ事が出来ず、だけど2人きりの幸せな時間を楽しく過ごせている。同棲したらこんな感じなのかなとか、もし結婚したらとかちょっと気が早いかも知れない事も考えたりして。
こんなにも穏やかな日があるなんて、不思議な感じだった。それぐらい、私の家には平穏なんて無かったから。
冷たくなった、既に終わった家族関係が中途半端に転がった家。それが私の家で、毎日だったから。
それがこうして笑えているのは彼が居るから。本当に良かった、彼を好きになれて。
「そろそろ片付けるね」
「あ、それぐらいは手伝うよ。洗い物ぐらいなら出来るから」
「え? でもお客さんなんだし」
「良いから良いから。一緒に片付けよう」
一緒になんて言われたら、断り切れない。ちょっとズルいなぁと言う思いもあるけれど、そう言う所が好きなんだから結局甘えてしまう。
せっかくだから、同棲を始めた様な気分に浸らせて貰おう。それぐらい良いよね、付き合っているんだから。
過剰な要求はしないかわり、細やかな幸せぐらい求めても許されると思うから。
「鏡花、このお皿は?」
「後ろの棚の右側、上から2段目に同じのがあるから」
「おっ、これか」
2人で片付けるのも、中々悪くない。共同作業と言うか、生活感のあるやりとりが新鮮で良い。
家庭科の調理実習にはない特別感がある。こんな日々が送れるのなら、早く同棲したいな。その方が幸せなのは、間違いないから。
「これで終わりかな。持って帰る分は、これぐらいで良い?」
「そんなに沢山良いのか? 結構あるけど」
「良いんだよ。真君はほぼ一人暮らしなんだし、たまにこうやって作るね」
「鏡花……ありがとう」
3〜4食分ぐらいにはなりそうな量を、分けて入れたタッパー。それらを纏めて保冷バックに入れて渡す。
「い、良いの、気にしないで……か、彼女なんだから」
とても嬉しそうな真君を見ていたら、何だかちょっと恥ずかしくなってしまった。自分の料理を喜んでくれる姿は、もう何度も目にした。
けれども、こんな風に自宅で2人きりと言うのは、初めてかも知れない。いつもは誰が必ず一緒に居たから。
自分の料理と、自分自身を求めてくれている。その事実が嬉しいけど、結構照れ臭い。
「鏡花……」
何となくそんな雰囲気になって、またあの真剣で熱のある眼差しで見つめて来る彼。この表情に、滅法弱い私は当然抵抗なんて出来なくて。
「ま、真……」
勢いに任せて遂に名前に君を付けずに呼べたと言うのに、ガチャリと玄関の扉が開いた音が私の邪魔をしてくれた。
当然施錠はしていたので、鍵を持った人物しか開ける事は出来ない。つまりは父親か母親のどちらかで、帰宅率で考えたら母親の方と思われる。
また嫌なタイミングでのご登場だ。何もこんな時に帰って来てくれなくて良いのに。間の悪い事この上ない。
「鏡花〜誰か来てるの?」
鏡花の家は玄関からリビングまでの距離が殆どない。ドアを開けて靴を脱いだらすぐリビングに到着する。
つまり、彼氏を黙って連れ込んでいた娘と、何も聞いていなかった母親の図式が完成した。
「お母さん……」
「えっ!? あ、すいませんお邪魔してます」
「えぇっと、貴方は?」
佳奈や麻衣ぐらいしかまともに連れて来た事がない娘が、真の様に整った容姿の男子を連れて来た。その事実に驚きながらも、真が何者か問いかける鏡花の母。
「葉山真と申します。少し前から鏡花さんとは、その、お付き合いをさせて貰っていまして」
「えぇっ!? う、うちの子と、貴方が?」
「はい。あの、それで……鏡花のご両親に会えたら謝りたかった事がありまして」
謝罪なんてしなくて良いと言ったのに、以前の件をまだ気にしていたらしい真君は、お母さんにこの前の出来事について、彼なりの謝罪をサクサクと進めてしまう。
母親の見る目が、真君への興味を示している。娘が初めて連れて来た彼氏、それぐらいは気にする親心が残っていたのか。
「そう、貴方が……でも、先生達からは貴方は悪くないと聞きましたよ」
「それは、そうかも知れませんが。俺が切っ掛けなのは、変わらないので」
「そう。真面目なのね、葉山君は」
正直言うと、あまり会わせたくは無かった。でも未成年の私達が、自宅以外に自由に使える家なんて無い。いつかはこうなったんだろうけど、予定よりはだいぶ早い。
「ごめんなさい、自己紹介が遅れて。私は鏡花の母親、佐々木杏子です」
「いえ、こちらこそ宜しくお願いします」
流石は真君と言うべきか、いきなりの対面になったと言うのにちゃんと対応している。元々コミュニケーション能力が高いのだから、これぐらい簡単に出来てしまうのだろう。
真君は次々とお母さんの質問に答えていく。今更私の彼氏の事を知って、どうするつもりなんだろう。
どうせ殆ど家に居ないのだから、関係ないじゃないか。私の知らない男性の所に、入浸りなんだから。
「鏡花、いつまでも立たせておくのは悪いでしょう? お茶でも淹れてあげたら?」
「……あんまり遅くまで引き留めるのは悪いよ。時間も遅くなって来たし」
「え? あ、ああ。確かに、そうだな。すいません、それではそろそろ」
「そう? またいつでも遊びに来てね」
「じゃあ、駅まで見送りするから」
やや強引ではあったけれど、母親が居る空間から、真君を離す事には成功した。家族としては冷え切っていても、同じ血を引く者同士。きっと、異性の好みに似る所があっても不思議ではない。
もしも父の代わりになる男性として、真君に興味が湧いてしまったら。それを考えたら悍ましくて黙っていたのに。
既に不倫なんて倫理的にも法的にも問題のある行為に手を染めている。娘の彼氏にだって……有り得ないとは言い切れない。
今の所は大丈夫そうだったけど、接触は最低限の方が良い。下手に興味を持って欲しくない。気にし過ぎ、それで済むぐらいが丁度いい。
少し軽率だったかも知れない。これからは私が真君の家に行く方が良いかも知れない。今日みたいなニアミスが起きる可能性はある。
それほど高い確率ではないけれど、ゼロでは無いから今回みたいな事が起きた。少し浮かれ過ぎていた点は、反省しないといけない。
「鏡花? どうかしたのか?」
「ううん、何でもないよ。ごめんね、急にお母さんが帰って来ちゃって」
「それは仕方ないよ。むしろ挨拶が出来て良かったよ」
普通の家ならそうなんだろうけど、うちは違う。でもそんな事を相談するわけにも行かなくて、曖昧で無難な返答しか出来ない。
「それよりその、カレーはすぐ冷蔵庫に入れてね。痛むといけないから」
「せっかく鏡花が作ってくれたんだ。速攻で冷やすよ」
結局、肝心な事は何も言えないままお別れとなった。せっかくの楽しい時間が、冷や水を掛けられたみたいで最悪の気分だ。モヤモヤとした嫌な気持ちが消えてくれない。
早く部屋に戻ろう。そうしたら真君と過ごした時間が、救いになってくれる。この嫌な気分も、晴れてくれるから。
見送りから帰宅して、すぐ自室に戻ろうとした所で、お母さんに声を掛けられる。
「鏡花、貴方も高校生なんだから、羽目は外さない様にね」
「…………分かってるよ」
言葉だけ見れば、普通の母親の台詞に見える。しかしそれを、不倫している親に言われたらどうだろうか。
実際それは、鏡花が両親に言われたくない言葉の1つだった。




