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螺旋階段を登り切った先、そこは世界の頂だった。
「空の塔」の最上階。そこは、巨大なガラスドームに覆われた円形のホールだった。だが、ガラスの向こうに見えるのは星空ではない。分厚く、重苦しい鉛色の雲海だ。眼下にはネブラリスの街が、まるで腐った回路基板のように薄汚く広がっている。
「ここが……制御室」
セリスが呟く。ホールの中央には、パイプオルガンと蒸気機関を融合させたような、巨大で複雑な装置が鎮座していた。その中心には、ちょうど鞄一つ分ほどの空洞がある。
「ここに『原初の種子』をセットすれば、大気浄化システムが再起動する。父様はそう言っていたわ」
アルトは黙って周囲を見渡した。記憶を失った彼にとって、この場所への感慨はない。ただ、本能が告げている。ここが終着点であり、同時に死地であると。
「……急ごう。あの男が来る」
アルトの言葉は正しかった。轟音と共に、床の一部が爆ぜた。下層から突き破ってきたのは、蒸気を噴き上げる異形の機械鎧を纏ったヴァルガスだった。燕尾服は破れ、その下の肉体は半ば機械化されている。先ほどのアルトの一撃で制御を失ったステッキの力が、彼自身を侵食しているのだ。
「素晴らしい……実に素晴らしいぞ、少年!」
ヴァルガスが狂ったように笑う。
「記憶を代償に未来を視たか!『クロノス・キー』の真髄はそこにある。過去という確定した情報を燃料に、不確定な未来を固定する。だが、もう弾切れだろう?」
ヴァルガスの指摘通り、アルトの記憶は限界だった。自分の名前と、煙突掃除夫としての技術、そして「空を見たい」という微かな衝動。それ以外は、真っ白な霧の中だ。隣にいる少女の名前が「セリス」であることは教えられたが、彼女とどんな会話をし、どんな感情を抱いていたのか、まるで思い出せない。
「渡せ。その『種子』は、世界を浄化するためではない。この灰色の支配を永遠にするためにこそふさわしい」
ヴァルガスが機械の腕を振り上げる。そこから放たれる圧縮蒸気の弾丸が、アルトの頬をかすめ、背後の配管を破壊した。
「アルト、逃げて!」
セリスが叫ぶ。だが、アルトは逃げなかった。逃げる理由が思い出せないからではない。逃げてはいけない気がしたからだ。
「……断る」
アルトはワイヤーブラシを構えた。
「俺は、あんたを知らねえ。なんであんたが俺たちを殺そうとするのかも、俺がなんでこんな所にいるのかも、さっぱりだ」
アルトは懐の時計を握りしめる。熱い。火傷しそうなほどに熱い。
「でもな、これだけはわかる。この空の色が気に入らねえ。それを変えられるのが、この子なら……俺は命を賭けて守るだけだ!」
「愚かな!記憶なき人形風情が!」
ヴァルガスが突進してくる。速い。先ほどとは比べ物にならない。アルトは時計に念じた。
『未来を見せろ!』
だが、時計は沈黙した。硝子の中の煙は薄れ、文字盤は凍りついたように動かない。
『燃料ガ足リマセン』
脳内に響く無機質な声。
『直近ノ記憶ハ既ニ消滅シマシタ。コレ以上ノ未来視ニハ、深層記憶――人格ノ根幹ヲ捧ゲル必要ガアリマス』
人格の根幹。それはつまり、アルトがアルトであるための記憶。幼い頃の微かな親の記憶、路地裏で生き抜いてきた誇り、そして「青い空を見たい」という夢そのもの。それを失えば、彼はただの生ける屍になる。
躊躇いが生じた瞬間、ヴァルガスの拳がアルトの腹部に深々と突き刺さった。
「ガハッ……!」
肋骨が砕ける音。アルトの体は紙屑のように吹き飛ばされ、制御装置の基部に叩きつけられた。激痛で視界が明滅する。
「アルト!」
セリスが駆け寄ろうとするが、ヴァルガスがそれを遮る。
「終わりだ。まずは娘から始末してやる」
ヴァルガスの機械腕が、無慈悲にセリスの首を掴み上げた。
「ぐ……っ……」
「父と同じ場所へ送ってやろう。安心しろ、この少年もすぐに後を追わせる」
アルトは霞む視界でそれを見ていた。体が動かない。指一本動かせない。(終わりか……?)そうだ、終わるんだ。どうせ俺は、何も持っていないゴミ捨て場のネズミだった。ここで死んでも、誰も泣かない。
……いや。違う。泣いている奴がいる。
宙に吊るされたセリスが、苦悶の表情の中で、必死にアルトの方を見ていた。彼女の瞳から溢れる涙。『アルト、逃げて……生きて……』声にならない声が聞こえた気がした。
その瞬間、アルトの胸の奥で、消えたはずの記憶の残滓が火花を散らした。
『ありがとう、アルト』
『あなたのおかげで助かったわ』
『好き』
それは記憶ではない。魂に刻まれた「感情」の痕跡。時計が奪えるのは情報としての記憶だけだ。心が震えたその熱量までは、奪えなかったのだ。
「……離せ」
アルトがよろりと立ち上がった。懐中時計が、琥珀色に輝き始める。それは今までのような灰色の煙ではない。黄金の光だ。
「……何?」
ヴァルガスが怪訝な顔で振り返る。
アルトは時計を強く握りしめた。
「全部くれてやる。俺の過去も、名前も、夢も、全部だ!」
『承認シマシタ。全テノ記憶ヲ代償ニ、最大出力ノ未来ヲ固定シマス』
時計が砕け散った。硝子の破片がキラキラと舞い散る中、アルトの体から黄金のオーラが噴き出した。時間は止まらない。だが、アルトの知覚だけが、光速を超えた。
ヴァルガスがセリスの首を折るまでの時間、コンマ五秒。アルトがその距離を詰めるのに必要な時間、コンマ二秒。
「おおおおおおおッ!」
アルトは疾走した。それは人間が至れる速度ではなかった。ヴァルガスの反応速度を遥かに凌駕し、その懐に飛び込む。ワイヤーブラシではない。素手だ。全ての力を込めた右拳が、ヴァルガスの機械鎧の核――心臓部を貫いた。
ドゴォォォォォン!!
衝撃波がドーム内を揺るがす。ヴァルガスの機械の体が内側から爆ぜ、彼はセリスを放して吹き飛んだ。
「馬鹿な……ありえん……貴様、何者だ……!」
壁にめり込んだヴァルガスが血を吐きながら問う。
アルトは立ち尽くしていた。その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。彼は自分の拳を見つめ、そして首を傾げた。自分が誰で、なぜここにいて、何を倒したのか。何もわからなかった。言葉の意味さえ、怪しくなっていた。
ただ、倒れている少女を見て、胸が痛んだ。あの子を、助けなきゃ。それだけが、白紙になった彼の脳裏に残された、唯一の命令だった。
アルトはセリスを助け起こすと、彼女が落とした鞄を拾い上げた。中から、青白く光る結晶体――『原初の種子』を取り出す。使い方はわからない。だが、体があの装置へと動く。
「……いけない、やめろ……!」
ヴァルガスが這いずりながら止めようとする。
「空を開ければ、この街の秩序は崩壊する!灰色の支配こそが、平穏なんだ!」
アルトは振り返らなかった。装置の空洞に、種子を嵌め込む。カチリ、という音が静寂に響いた。
直後。光の柱が、天を衝いた。
装置が唸りを上げ、パイプオルガンのような荘厳な音色が響き渡る。ドームの天井が開き、強烈な上昇気流が発生した。種子から放たれた光の粒子が、スモッグの雲海を浸食していく。灰色が、分解されていく。黒い煤が、白い雪のように浄化されていく。
「あ……」
セリスが空を見上げた。
雲が割れる。百年もの間、この街を閉ざしていた分厚い蓋が、嘘のように晴れていく。そこに現れたのは、目が痛くなるほどの、鮮烈な「蒼」だった。そして、燦然と輝く太陽。
ネブラリスの街中から、どよめきが上がった。工場の労働者も、路地裏の孤児たちも、ガストン親方も、ドクも。全員が手を止め、空を見上げていた。
「おい、見ろよ……」
「太陽だ……本物の太陽だ……」
その光は、塔の最上階にいる二人をも包み込んだ。ヴァルガスは光を浴びると、灰のように崩れ去っていった。闇に属する彼は、純粋な光の中では存在を保てなかったのだ。
「……綺麗」
セリスは涙を流しながら、その光景を目に焼き付けた。そして、隣に立つ少年に向き直った。
「見て、アルト。あなたが……私たちが、やったのよ」
しかし、アルトは空を見ていなかった。彼は不思議そうに、空から降り注ぐ光に手をかざしているだけだった。その瞳には、感動も、達成感もない。赤子が初めて世界を見た時のような、無垢で、空っぽな瞳。
「……あ……?」
アルトが口を開いた。言葉になっていない音。セリスの心臓が凍りついた。
「アルト?私のこと、わかる?」
アルトはセリスを見た。そして、ふわりと微笑んだ。それはとても優しい、けれど誰に向かっているわけでもない、透明な笑顔だった。
「…………」
彼は何も答えなかった。自分の名前も。彼女の名前も。ここがどこなのかも。全てを、光に変えてしまったのだ。
セリスは泣き崩れたい衝動をこらえ、震える手でアルトの手を握った。温かい。彼の手は、確かにここにある。記憶はなくとも、命はある。
「帰りましょう」
セリスは涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
「はじめまして、アルト。私はセリス。……これから、たくさんのことを教えてあげるわ」
アルトは首を傾げ、そして握られた手を、ぎこちなく握り返した。
◆
それから、一年が過ぎた。
ネブラリスは生まれ変わった。スモッグが晴れたことで、太陽光発電が可能になり、蒸気機関への依存度が減った。街には緑が増え、かつての下層街にも光が届くようになった。「空の塔」は開放され、今は気象観測所として機能している。
街外れの丘の上に、小さな家があった。庭には色とりどりの花が咲き、洗濯物が風に揺れている。
「おーい、アルト!ご飯できたわよー!」
家の中から、エプロン姿のセリスが声をかけた。庭の隅で、土いじりをしていた少年が顔を上げる。健康的に日焼けした肌。かつての煤汚れはない。彼は泥だらけの手を払い、満面の笑みで駆け寄ってきた。
「セリス!見て、これ!」
アルトが差し出した手の中には、小さな芽が出ていた。
「昨日植えた種、もう芽が出たんだ!」
「わあ、すごい!アルトは育てるのが上手ね」
「うん!明日はもっと大きくなるかな?」
「ええ、きっとね」
アルトは屈託なく笑う。彼の中に、かつての「煙突掃除夫の少年」の記憶は戻らなかった。時計の使い方や、命がけの戦いの記憶も、全て永遠に失われたままだ。時折、ふと遠くを見るような顔をすることがあるが、それが何を思い出そうとしているのかは、誰にもわからない。
でも、とセリスは思う。彼は今、幸せそうだ。灰色の空の下で、明日のパンを心配して生きていた頃よりも、ずっと。
「ねえ、セリス。空が青いね」
アルトが見上げる。
「そうね。とっても青い」
「俺、この色が一番好きだ」
アルトの言葉に、セリスは胸が熱くなるのを感じた。記憶は消えても、魂の色は変わらない。彼が全てを投げ打って求めた「青」は、今、彼自身のものになっている。
「さ、食べましょう。今日はシチューよ」
「やった!俺、シチュー大好き!」
二人は手をつないで、家の中へと入っていく。テーブルの上には、壊れた懐中時計が飾られている。針のない文字盤は、もう動くことはない。だが、硝子の中には、今日の青空が美しく反射していた。
新しい時間が、ここからまた、カチコチと刻まれていくのだ。




