ターニングポイント
ふわふわの枕が床に落ちていた。くしゃくしゃになったシーツと布団の中から頭を出すと、太陽が眩しい。すっかり日が昇っている!
「――あれ? 今何時!?」
ハルトは飛び起きた。爆発したような寝ぐせに焦りながら、風呂場に駆け込む。
ジェットが物音に気付いて部屋から出てきた。
「やっと起きたか」
悲鳴のようにハルトが風呂場から叫ぶ。
「何で起こしてくれなかったんだよ!」
「あまり寝ているから、可愛くてな」
「はぁ!? もう授業始まってるじゃん!!」
タオル一枚、濡れた身体で出てきて、夢中になって下着を探している。
「今日は休みだと言ってなかったか?」
「……。そうだった。疲れてんのかな、なんかダルイ」
自己嫌悪に陥り、もそもそと下着を穿く。
「最近、詰め込みすぎだろう。昨日は何時に帰ってきたんだ? まだ身体は子供なんだから、しっかり寝ないと身長伸びないぞ」
ハルトはあからさまに悩んだ。
「昨日は魔の森の端まで行ってきて、ブラクスと話し込んじゃった。遺跡のこと、結構詳しいから真夜中過ぎちゃって、それから遺跡に寄って帰ってきたら……朝だった」
「毎日遅くまでチームのことをやって、そのあと遺跡の攻略は危険だろう。疲れている時に万が一のことがあったら帰れなくなるぞ。少し控えなさい」
「分かってるって! そうそうブラクスからお土産にモンスター酒もらってきた。これがなかなか……」
ハルトはうっとりしながら酒瓶を渡す。ジェットには秘密だが、フルーツの芳醇な香りで、アルコール度数は強いけれど、肉料理と一緒だと最高に美味い。
「まさか飲んでないだろうな?」
ハルトは焦りまくる。
「やばい! キンタと約束して、もうすぐ来るんだった!」
「最近のお前は身勝手すぎる。キンタならもう来ているぞ」
ハルトが起きるのがあまりに遅いので、部屋で技術指導をしていたところだ。キンタはハルトの素っ裸に呆れている。
「何してんだよ」
「え!? ちょっ、ちょっとやだ! 着替えるからあっちいってろ!!」
ハルトは隠すところがいっぱいで大変だ。素っ裸を見られるのも嫌だが、足首など見られたら厄介なことになる。
「すごい傷だらけじゃん。背中のひっかき傷、まだ血が出てるぞ」
ハルトは蒼白な顔をした。心配性のジェットのために、見えないように隠していたのにモロバレだ。
――キンタの馬鹿野郎!
恐る恐るジェットを見ると、鬼神になっていた。
「怪我だと? 育て方を間違ったようだな。小太郎に合わす顔がない! ――しばらくは夜間外出禁止だ。わかったな?」
ハルトは平伏する。
「ごめん! ごめんなさい! それだけは勘弁してよ!
夜も遅かったからシェラに連絡するのは可哀想だと思って……こんな小さな傷、そのうち塞がるよ」
ジェットはさらに憤怒の表情になった。
「魔の森のモンスター甘く見るな! 出血が止まらないのは壊死しているからだ。小さな傷でも心臓に回って死ぬこともあるんだぞ」
「そんな! まさか冗談でしょ?」
ハルトの微笑みが凍りついた。
「魔の森ではむしろ小さいものに注意しろ。虫や菌、ウイルスだ! この前も毒で気絶したと聞いたぞ。同じ間違いを繰り返すな! 自分だけの身体じゃないんだ。陽翔のことも考えてやれ」
ハルトは悲鳴のような声をあげた。
「ジェットぉ! キンタがいるのに!」
「だからどうした。命に代えられるものなんて無い」
ジェットは引き出しから小型ナイフを取り出した。
「背中では、手は届かないだろう。回復できないなら、壊死した部分をえぐり取るしかない。そこに寝ろ」
ハルトは首を振る。
「痛いのは嫌だ!」
「何子供みたいなこと言っている。自業自得だ。傷をほじくるぐらい我慢しろ」
ハルトはキンタを見た。キンタがいなければシェラに頼み込んで治してもらえるのに、ここにいるから、そういう言い訳すらできない。
「他の方法があるから」
「逃げる気か……。プーでもそんな顔するんだな。何だよ、人に殴られたり斬られたことぐらいあるだろ、少しぐらい我慢しろ」
ジェットがハルトをうつ伏せに抑えつける。触れただけで肌が熱い。
「発熱しているじゃないか。早急に処置が必要だ。キンタ、手伝ってくれ。暴れると強いから俺が押さえておく。その間に患部を斬るんだ」
「俺がやるんですか?」
「ならば反抗されて、自分が吹っ飛ぶ方がいいか?」
「分かりました。やりますよ」
キンタがナイフを手に取った。
傷口をみると紫色になっている部分が広範囲だ。毒に汚染された部分は全て切り取る必要があるが、そうすると傷の治りが遅くなり、ハルトが戦えなくなってしまう。
「まったくもう」
ジェットはハルトを押さえつけるのに必死でこちらは見ていない。
「ほら、早くやれ」
ジェットが言うので、キンタは覚悟を決めた。素手で患部に触れた。赤色の瞳に魔力が宿り、黄金色に輝いた。
ハルトは背中に高熱で焼かれるような痛みと、特殊な魔力が身体に浸透するのを感じる。
「キン……タ?」
キンタは集中して魔力を高める。治癒魔法は聖女しかできないことになっている。どうしてできるのかと聞かれるのは癪だが、放っておけない。すぐに傷が塞がり、汗のように毒だけが肌の表面に浮いて出てくる。
「どうだ、楽になったか?」
ハルトは耐えがたい苦痛に息を荒げていた。
シェヘラザールが紋章を使って回復させてくれるのとは違う。慣れない魔力で、身体の中を掻き回され、ハリケーンの中にいるように感覚がもみくちゃにされる。やめてほしいのに息すらまともにできない。
「……う! ジェッ…ト」
身体をよじってもがくが、ジェットが離してくれない。
治療は完璧だったのに、ハルトの状態は治まらない。キンタはさらに回復させようとした。背中に留まっていた魔力を身体の隅々までで行きわたらせて、どこが悪いのか調べていく。
「――やめ……ろ」
ドバドバと魔力を注ぐな。
俺たちの身体のことを調べるのもやめろ。
キンタの魂と魔力に圧倒される。一翔が魔王級なのは、地下深くのマナの流れを使うからで、身体の中だけに限定されると、一翔のマナはとても希薄なものだ。熟練されたキンタのマナコアの魔力と元気な魂には敵わない。
体の中で漂う一翔の意識と魂は逃げ場もなく、あまりに脆かった。
――あ、やばい
抵抗できないけれど、どうしても守りたい。
陽翔の魂と黄金色のマナコアは胸の中心あたりだ。一翔は全身に漂っている魔力と意識を集中し、陽翔を完全に包んで庇った。
――絶対に触れさせない!
キンタの魔力は普段の赤色と違い、眩しいほどに黄金色だ。どちらも似ているけれど、陽翔が春の太陽のような優しさがあるのに対して、キンタは真夏の太陽だ。
このままでは、二人とも消し去られてしまう。そうなるぐらいなら、兄として全うしたい。
陽翔だって脆いのだ。
キンタの強い光には耐えられない。
一翔は光を浴びて、燃えるような衝撃を感じた。その間もずっと陽翔のことだけを考えていた。
※ ※ ※
眩しさに目を開けると、俺はジェットと自分の身体を見下ろしていた。
――あれ?
古い記憶が蘇る。
あの頃、瓦礫と暗闇の中で、陽翔だけを求めていた。今から10年前の冬の夜。雪崩に巻き込まれた時と同じ。今のこの姿は三十歳の昔の恰好だ。
――俺、そうか。
呆気ないものだ。いつかこうなると分かっていたから、かなり努力したけれど、いきなりだ。しかもブッツリと切れて終わった。
――ごめんな。陽翔。もう一緒にいてやれないみたいだ。シェラがいるから、心置きなく二人でいちゃついて暮らせよ
四十九日が存在するなら、お迎えが来る前に小太郎に会いに行って、世話になったとを伝えたい。天国に行けたらディスカスに会えるかもしれない。宿屋になれなかったけれど、宿屋を目指したことに悔いは無いし、その道を選べて良かった。
陽翔、俺は旅発とうと思う。
最後にちゃんと話して、抱きしめたかった。
――あとは頼んだよ。
ジェットはハルトの抵抗がなくなり、力を緩める。魔力を感知するのは得意ではないが、青白い魔力と魂が身体から離れていくのが見えた。
「ハルト!?」
ジェットの声に陽翔が起き上がった。黄金色の膨大な魔力を全身から放つ。
勢いでジェットとキンタが吹っ飛んで転がっていく。
陽翔は絶叫し、宙に向かって手を伸ばした。
『ダメだよ! いかないで!!』
かすかな消え入るような青い光の粒だ。それが煙のように、上へ昇っていく。
陽翔は悔しくてたまらない。
――どうして! いつもこうなるんだ!
兄さんはいつも 俺を守ってくれる。雪崩で転生した時だけじゃない。
異世界に転生する直前のかけ声、兄さんだよね?
ライカに襲われた時、助けてくれた仮面の人もそうだよね?
神さまって名乗っていたけど、あれだって兄さんじゃないの?
仮面つけていたって分かるよ。兄弟じゃないか。時を渡ってきたんだよね?
でも、どうして今は助けにこなかったの? どうして死んでしまうんだ。
俺のことばっかりで、どうして一翔は自分の命を大事にしない?
俺は一翔が一番大事なのに!
――シェラ! お願いだ。君しかいないんだよ、俺の一翔を救ってくれ
※ ※ ※
陽翔の祈りと同時に、一翔の手首が下に引っ張られた。見ると青いリボンが長く絡まっている。
リボンが囁いていた。
“なんでアタシには一言もないの? どうして、そのまま逝っちゃうつもりなの?”
一翔は躊躇した。
陽翔のシェヘラザールなのだ。未練がましいことに心の底から彼女が好きだ。これ以上、あの元気な声を聞いてしまったら、旅立てなくなってしまう。
『兄さん!』
陽翔が泣いている。
――ごめんな。
もっと早く謝りたかった。
もっと早く謝っておけばよかった。
意地なんか張らないで、素直になっていれば……。
未練はそれだけでいい。俺は永遠に、陽翔が大好きだ。
一翔が上に向かって飛ぼうとした時、何かの影に包まれた。逆光で人影らしいが、こちらに向かっている。天使がお迎えにきたにしては、落下速度が鬼のように早い。
そんなに急いでどこへいく?
時間があるなら陽翔を慰めてほしい。
その人は長い髪を風にはためかせ、右腕を一本まっすぐ横に伸ばしたまま落ちてくる。
なんか狙われているような気がする。
「ラリアットォウッ!!」
――ぐはぁ!!
幽体の俺はまるっきり無力だった。
見事にヒットしてその人と一緒に落ちた。青い肌のナイスバディな女子形の、リボン製マリオネット。崩れたリボンに絡まれ、毛糸玉の芯のようになって捕えられた。
“受け止めて!!”
シェヘラザールの声がする。陽翔が両手を広げて待っている。
一翔は微笑んだ。
まだ、死ねない。ならば生まれ変わった気持ちで、新しく人生を歩もう。
何になろうか。
宿屋になるけれど、それは陽翔と俺の共通の目的だ。
それまでにもっと強くなって二人を守っていきたい。こんなことが二度と起きないように、安心させて、みんなで仲良く暮らしたい。
そのためだったら、俺は何にだってなる。
浅利陽翔という勇者と、聖女シェヘラザールのために。
俺は自分の肩書を決めた。
――世界一の魔王になるって、どうかな




