黒芙蓉寮の異世界先輩(2)
「『異世界』がどうしたって?」
ニカの口が中途半端に開かれた形で止まる。
宇津季もおどろいて談話室の出入り口のほうを振り返った。
そこにはまだ黒い制服に身を包んだままの――襟元のバッジから二年生だとわかる――先輩が立っていた。
宇津季とニカが向かい合っている場に近づいてきたのは、筒井筒はじめ。非社交的な性格の宇津季とて、寮のオリエンテーションで色々と説明してくれた同寮の先輩の顔と名前くらいは覚えている。
後輩ふたりのおどろきの視線を受けて、筒井筒はバツが悪そうな顔になる。
「悪い。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、『異世界』がどうとかって聞こえてきたから……あいつになにか迷惑でもかけられたか?」
「迷惑というか……」
口下手な宇津季がもごもごと語尾を濁らせれば、見かねたニカがその言葉を引き取る。
「なんかこいつが話しかけられたらしいんですよ。『異世界先輩』に? なんか、後ろにぴったりとくっついてきたとか」
「あー……なんて言われた?」
「ええと……『ツイてる』とか『ツイてるな~』というような、ことを……」
宇津季がそう告げれば、筒井筒は再度「あー……」となんとも言えない声を出した。
ところで宇津季は先ほどからニカや筒井筒の言う「異世界」だとか「異世界先輩」という単語の意味を真に理解していない。
思い切って
「ところで……先輩の言う『異世界』ってなん……だれ? ですか……?」
と問えば、筒井筒から単純明快な答えが返ってくる。
「あいつ、『異世界から来た』って言ってるから『異世界』って呼ばれてるんだよ。俺と同じ二年だから、お前たちの学年では『異世界先輩』って呼ばれてるんだろうな」
ニカがうなずいて、「そうですそうです」と言う。
理由を聞いてしまえばなんということはないが、それにしても「異世界」とはまた直球過ぎるあだ名だなと宇津季は思った。
「『異世界から来た』って、ガチなんですか?」
ニカが好奇心に満ちた顔で筒井筒に問う。
筒井筒は「さあ」と言った。
「まあなんか、あいつだけにしか感じられないなにかを感じている風ではあるけれど、それって自称異世界出身であることと関係あるかはわかんねえしな。……それでえーっと、美平は最近身の回りとかで変なこととかなかったか?」
ニカによって脇道にそれた話を筒井筒は元に戻す。
オリエンテーションで組まされたとは言えども、その後も親しくしていたわけではない後輩の苗字がさっと出てくるのは、宇津季からすれば驚嘆に値するべきことであったが、現実の宇津季の顔は無表情のままだった。
「入学式のあとごろから、背中に刺すような痛みがあって……。でも異世界先輩? に会ってからはなくなりました」
「医者とかは行ってたのか?」
「行ったんですけど、原因とかはわからなくて……。あの、痛みがなくなったのと異世界先輩って関係あるんですか?」
筒井筒は「うーん……」と唸って、考え込むような素振りを見せる。
「あるかもしれないけど……たぶん偶然だと思う。あいつ、呪いとかオカルトみたいなものを感じ取れるのに、なんでかそういうの大好きだからな……。もし美平の背中の痛みの原因がオカルト関係だったら、あいつが近づいて行ったのにも納得が行くけど……本人に話を聞かないことには」
「じゃあ異世界先輩に聞きに行きません?」
そんな声を上げたのはニカだった。宇津季は思わずぎょっとして従兄弟の顔を見たが、当の本人はどこ吹く風だ。
宇津季は救いを求めるように筒井筒を見たが、意外と筒井筒も乗り気な様子だ。
「さくっと黒芙蓉寮に行くか」
「黒、芙蓉寮……」
「学園の敷地内で一番端っこにあるから見たことないか? まあ異世界が来るまで廃寮扱いだったし、あの寮、異世界しかいないしな」
――「黒」芙蓉寮の寮生だから、「黒い」リボンタイをしていたのか。
宇津季がひとり内心で合点がいったという顔をしているうちに、ニカと筒井筒とのあいだで黒芙蓉寮に行くという話がまとまってしまった。
そうなると、異世界先輩に声をかけられた当事者である宇津季が行かないと言う選択肢はない。
それに宇津季も、自身を襲った痛みの正体について知れるのならば知りたいという、一種の好奇心に似た感情があった。
「――一応メッセ送ってみたけど……既読すらつかねえな。まあ寮には異世界ひとりしかないから、押しかけても大丈夫だろうけど」
「筒井筒先輩は異世界先輩と仲いいんですね」
「仲……いいのかね。俺がお節介してるって感じだからなー……。なんだかんだ放っておけないというか、放っておくほうが怖いっていうか」
筒井筒は悪く言えばお節介焼きだが、良く言えば面倒見がいい気質なのだろう。
こうしてわざわざ後輩に付き合っているところをひとつ取って見ても、そういった性質がうかがえるというものだ。
筒井筒の隣を歩くニカを見つつ、宇津季は半歩後ろからついて行く。
ニカと筒井筒があれこれと他愛ない会話を交わしているうちに、学園の敷地の端っこ――黒芙蓉寮が建つ一角にたどりついた。
まだ夏の空気を感じさせる突風が吹くと、黒芙蓉寮の玄関ポーチへと繋がる長い階段の手前にある、壊れた黒い門扉がきしんだ音を立てた。
宇津季とニカは当然初めて訪れる場所であったが、筒井筒は勝手知ったるなんとやらなのだろう。
妙な方向に捻じ曲がった門扉を、手慣れた様子で押して開き、黒芙蓉寮へと繋がる階段を上り始めた。宇津季とニカもそれに続く。
先に黒芙蓉寮の建物にたどりついた筒井筒が、取り付けられた訪問者用のブザーを鳴らす。
しかし黒芙蓉寮からは物音がするどころか、まったくひとの気配があるようには感じられなかった。
筒井筒が再度ブザーボタンを押下するが、やはり物音ひとつ聞こえては来ない。
筒井筒はポケットからスマートフォンを取り出すが、どうやらそちらにも返事は来ていないようだった。
「しゃあねえ。勝手に入るか」
宇津季とニカが「えっ」と言う間もなく、筒井筒は内ポケットから鍵を取り出した。
その鍵でさっと黒芙蓉寮の玄関扉を開けてしまう。
外の玄関ポーチから、中の玄関へさっさと入ってしまった筒井筒を追い、宇津季とニカも恐る恐る黒芙蓉寮へと足を踏み入れる。
「お邪魔しま~す……」
どこかそわそわとしたニカの声が、玄関の吹き抜けに響いた。
最後尾にいた宇津季が玄関扉を閉めれば、妙に大きな金属音が立ったような気がしたので、宇津季も落ち着かない気持ちになる。
異世界先輩が来るまで廃寮だったという割には、寮内は綺麗に掃き清められ、整頓されているように見えた。
宇津季たちが生活している赤百合寮とハッキリ違うのは、まったく静かでひとの気配がないことだ。
「この時間に帰ってねえってことはないよな……?」
筒井筒が玄関の壁にかけられた古びた振り子時計を見やったので、つられて宇津季とニカもそちらに視線を送る。
たしかに、サークル活動などをしていなければ、もう帰寮していてもいい時間帯だ。
筒井筒の言葉を鑑みるに、いつもなら異世界先輩は黒芙蓉寮に帰っているはずなのだろう。
しかし黒芙蓉寮にはひとの気配が感じられない。
宇津季の中に、にわかに不安の雲が立ち上る。
宇津季を苦しめていた、刺すような背中の痛み。
もし、異世界先輩が宇津季と接触したことで、その正体不明の痛みを引き受けてしまったのだとしたら、もしかしたらどこかで苦しんでいるかもしれない……。
不安に駆られた宇津季がそのようなことを筒井筒に告げれば、筒井筒の顔にも一瞬だけ不安がよぎって行った。
「以前にもそういうことあったんですか?」
「いや……あいつはオカルトに出くわしてもいつもケロっとしてるけど……まあ例外が起きないとも言い切れないしな。外に捜しに行くより前に、一度寮内を捜してみよう」
筒井筒の発案に否を唱える者はいなかったので、そのまま三人で黒芙蓉寮の内部を探索することになった。
寮内にある談話室などを見ていくと、宇津季が最初に感じた、「まったく静かでひとの気配がない」という赤百合寮との違い以外に、黒芙蓉寮には生活感が希薄だということにも気づく。
筒井筒曰く、黒芙蓉寮は異世界先輩しか生活していないので、何十人とが共同生活を送る赤百合寮と比べれば、雑然としていないのは当たり前のことではある。
しかし慣れない共同生活を常ならば疎ましく思う宇津季も、黒芙蓉寮の状況を「羨ましい」と思う感想は出てこなかった。
黒芙蓉寮は、なんだか全体的に薄暗く、寒々しい。その薄気味悪さが、宇津季に「羨ましい」という感想を抱かせるのを阻んだ。
とは言えども異世界先輩が実際に暮らしている寮をそう評するのはなんだか居心地の悪さを感じたし、宇津季は口下手なので実際にそういった感想を言葉として表に出すことはしなかった。
「……あ。筒井筒先輩、地下? の扉が開いてますよ!」
先にそれに気づいたのはニカだった。
黒芙蓉寮一階の使われていない、元は寮生の部屋であっただろう場所。
そのど真ん中に、地下へと繋がっているように見える、正方形の出入り口が開いていた。
手分けして部屋をひとつひとつチェックしていた筒井筒と宇津季は、ニカの声で彼が探索していた部屋へと集まる。
「黒芙蓉寮って地下があるんですか?」
ニカがそう問うたのは、記憶している限り赤百合寮にはそのようなスペースが存在しないからだ。
一応、キッチンに床下収納があるにはあるが、今三人の足元にあるそれは、明確にそういうものとは違う。
真っ黒な四角い暗闇の一辺からは、地下へと繋がっているように見える石造りの階段が伸びていた。
「俺も初めて知った」
「えっ……」
「もしかしたらこれはオカルト……超常現象ってやつかも。それならあいつが寮にいないのも納得が行く」
「えーっと、もともとは黒芙蓉寮にないものが今ここにある、ってことですか?」
「わからん。けど扉が開いてるってことはだれかが中に入って行った可能性はある」
筒井筒はまた制服のポケットからスマートフォンを取り出したが、ため息をついたところを見るに、異世界先輩から返信は来ていなかったのだろう。
しかし筒井筒はスマートフォンをポケットには戻さず、背面についているライトを点灯させた。
「入ってみるか」
筒井筒の言葉に、宇津季は内心で「マジかよ」と思った。




