終-7 いつか父と母の足跡を
「確かにかつては、そのような抜け道や手引き人などもいたようだが、父の代で徹底して潰されたからそれは考えにくいな」
燕明は口元に丸めた手を添え、思考の整理をぶつぶつと独りごちる。
「月英、多分って事は記憶は曖昧なのか? いつぐらいの事だ」
「恐らくですけど、陛下が僕を見るよりも前です」
「っていうと、まだ赤子も赤子ではないか!? 勘違いじゃないのか。確か、お前の父親は、お前は萬華国で生まれたって言っていたんだぞ」
「それ、嘘ですよ。多分」
驚きすぎてもう声も出ないのか、燕明は一時の後、長い溜め息をついた。
「陽光英は、何から何まで嘘を言っていたわけか……一体、どのように生きてきたんだ」
よくあの場で、それだけの嘘を突き通せたものだと燕明は呆れのような感心を覚える。
「待雪草の香り……僕は確かにあの香りを知っていたんです。待雪草だけじゃない。乾いた鼻の奥を刺すような冷たい風も、砂と獣の混じった生々しい命の香りも……」
白国からの帰り道、様々香りに触れたことで奥深くに眠っていた記憶が刺激されたのだろう。普通でも決して思い出せないであろう、赤子の時の記憶が。
「香りって視覚や味覚より早く脳に届くって言ったの覚えてます?」
「そういえば……」
「それが香療術の仕組みですもんね」
月英は頷く。
「これって、記憶にも当てはまるんですよ。視覚よりも嗅覚の方が、より強く記憶と結びついて脳に記録されるんです。だから、その時と同じ香りを嗅ぐと、記憶も一緒に呼び起こされたりするんです」
「なるほど。それが本当でしたら、もしかすると萬華国に帰ってくる前は……という可能性もありますね」
「もしそれが本当だったら、お前は異国で生まれたことになるな」
月英は思い出すように、静かに瞼を閉じた。
間違いなく、月英はあの白国の香りを知っていた。
記憶の欠片がチカチカと明滅しては、暗闇に溶ける。砕け散った玻璃のように、浮かぶ景色は断片的で、時系列も混在している。はっきりした一枚画のように思い出せるわけではない。
しかし、耳の奥で誰かが囁くのだ。
『月英、これが――――だよ』と。
ゆっくりと、瞼を上げる。
目の前では、頬杖をついた燕明が凪いだ瞳に月英を映していた。
「いつか、お前の生まれた地に行ってみたいものだな」
「そうですね。一度は……」
父の足跡を、そして母についても知れる日が来ればと思う。




