外
今回の件は、真犯人を捕まえたことで一応の落ち着きをみせた。
御史台の対応については、『陽月英を拘束したのは身の安全を守るために刑部が命令したものであり、御史台は命令に従ったまでで責任はない』という方向で片付けられた。
刑部が陽月英に一週間の猶予期間という寛容な処置を与えたことも手伝い、誤逮捕だったにもかかわらず、大きな反発は起きなかった。
犯人として拘束されていた陽月英本人は、解決して良かったとしか思っていないようだったが、何者かの故意が介在しているのは明らかであり、次はそこに焦点を当てた捜査が行われようとしていた。
しかし、捜査が始まる前に、犯人の配達人は自殺を図った。
「燕明様。実は、犯人を取り押さえた時このようなものを見つけまして。密かに回収しておりました」
龍冠宮の一室。
向かい合うのは、二人の男のみ。
声音の調子を落として、藩季が燕明の執務机に細長い札板を置いた。
「――っ!」
机に置かれた札を見て、燕明は瞠目し唇をわななかせた。
ゆっくりと、己を落ち着けるように殊更時間をかけて、燕明は顔を手で覆った。覆った瞬間、手の下からは沈鬱な溜め息が長く長く漏れる。
溜め息こそ吐きはしないものの、藩季も眉根を顰め沈痛な面持ちで札板を見つめる。
その札板には朱の判と文字が記されており、何に利用されているものか、見るものが見れば分かる代物となっている。
「今更何を……」
それは、離宮『翠翡宮』への出入りを許された者に与えられる札。
「母上……っ」
そして翠翡宮の現在の主は、先代皇帝の皇后であり現皇太后――つまりは燕明の母親であった。
長らく離宮に引きこもって、存在すら消していたというのに。
はぁ、と燕明は天に向かって息を吐く。ずるりと顔から滑り落ちた腕が、そのまま力なく身体の横へと落ちる。
「一難去ってまた一難……まだこの国は落ち着かないな」
「大丈夫ですか?」
藩季の言葉に、燕明は札板を手にして握りつぶした。手の中でパキッと乾いた音が鳴る。
「ああ、俺はもう一人じゃないからな」
不敵な笑みを片口に描いた燕明に、藩季は「これからですよ、全ては」と恭順に腰を折った。
◆◆◆
「――そんなわけで、無事釈放となりました!」
月英は東明飯店の二階で、店主の張朱朱と鄒央、そして翔信と、今回の件で世話になった者たちへの報告を済ませた。
「皆さんのご協力があったおかげで、こうして僕は晴れて自由の身です!」
「本当に良かったね、月英くん」
「本当だよ。悪かったね、最初は邪険にしちまって」
向かいに座る鄒央は良かった良かったと手を叩いて喜び、張朱朱は肩をすくめつつも、安堵した表情で月英を見やった。
「そんな、むしろ協力していただいて感謝したいくらいですよ。それに、こうして分かってもらえただけで充分ですし」
「ええ。全然今後とも邪険に扱ってもらって構いませんから」
良い感じにお礼を言い終えられそうだったところ、何を思ったか至極真面目な顔した翔信が変なことを言い始めた。
案の定、張朱朱は「へ?」とポカンと口を開いている。
「あ、彼のことは気にしないでください。そういう発作ですから、無視してください」
「無視は無視でゾクゾクする」
「…………」
駄目だこれ。
湿った目で隣の翔信を見やるが、彼の瞳は真っ直ぐに張朱朱にだけ向けられている。無駄に真剣な眼差しは、彼女に若干の恐怖を抱かせたのだろう。張朱朱の足がジリと下がった。
「そ、それにしても、どうして移香茶が狙われたのかねえ?」
異様な雰囲気に包まれかけた場を、鄒央が新たな話題を振ることで無理矢理引き戻してくれた。さすがは年長者。気配りが上手い。
鄒王の問いかけに、三人は「うーん」と唸りを上げ思考する。
「まあ、この国は今まで新しいものなんてなかったからね。出る杭は打たれるじゃないけど、気に食わないと思った奴がいたんだろうさ」
張朱朱の意見に、皆なるほどと理解を示した。
「商売は目立ってなんぼだけど、目立つのも考えようだねえ」
そこで、月英は「そういえば」と思い出したように、机の上に袋をドンと置いた。
「移香茶の話題が出たので……。これ、僕がいない間に同僚がたくさん作ってくれてて、それで……」
袋の口を開ければふわりと漂う、全員に覚えがある香り。
「茉莉花の茶葉じゃないかい!」
月英は居住まいを正し、神妙な面持ちで鄒央と張朱朱に視線を配る。
「それでその……身勝手とは思うんですが、また扱っていただけたらと……」
月英のせいでなくても、一度被害の原因となったものを扱えというのは無茶だと承知の上だ。しかし、万里が一生懸命自分で勉強して考えて作ってくれた茉莉花の茶葉を、そのままにしておくことなどできなかった。
万里にも、自分の作ったもので誰かが笑顔になる様を見せたい。もっと、香療術を好きになってほしい。
見上げるようにして、怖ず怖ずとした視線を向ければ、鄒央の柔和な視線とぶつかった。
「知っていたさ。娘から茶葉を送ってくれと手紙が来たからね」
「じゃあ、これに使われた茶葉は……」
「私が送ったものだよ。そういうわけで、当然、その茉莉花の移香茶葉はいただこう」
鄒央は、置かれていた袋を自分前に引き寄せた。
開いた袋の口に顔を近づけては「良い香りだねえ」と、うっとりした声を漏らす。
月英が良かったと安堵してれば、そこへ張朱朱が待ったをかける。
「鄒央、ちょっと待ちな。その半量はここへ置いていきなよ」
一瞬、ドキッとしたものの、彼女の言葉は決して否定的なものではなかった。
「本当に、朱朱さんも良いんですか……?」
「こう見えてこのおっさん、腕利きの茶商でねえ。鄒央が扱うって決めたんなら、絶対に市場には出回るからね。移香茶自体には需要があるし、さっき来たお客にも移香茶はないかと聞かれたばかりさ。ここで二の足踏んで、よその店に出し抜かれちゃ、あたしの名が廃るってもんさ」
いいかい、と彼女が問い、鄒央が目で頷けば、張朱朱は袋を抱えて早速に階下へと降りていく。
「早速さっきのお客に出させてもらうよ」
この早さには、月英も目を剥いて驚いた。
「いいんですか!? あの、大丈夫って僕は言えますけど、一応、街医士とかに確認してもらったほうが――」
瞬間、豪快な笑い声が飛ぶ。
「あっはははは! 大丈夫だよ。だってこれはあんたが手ずから持ってきたものだろ。だったら、毒なんか入ってるわけないじゃないか。もし入ってたら、それは今袋を開けた鄒央のせいだしね」
「酷いなあ、朱朱。私が愛する茶葉にそんなことするわけないじゃないか」
「だったら大丈夫だね」
肩越しにヒラヒラと手を振って、張朱朱は一階へと姿を消した。
「か……かっこいい、朱朱様……」
翔信の呼び方が、完全に僕のそれとなっていた。でも、気持ちは分かる。
「目立ってなんぼだが、目立つのも苦労する……と」
感慨深そうに呟いた鄒央の視線が、月英を捉えた。
「月英くん。娘から君は術だけじゃなく、とても美しい色を持っていると聞いたよ。見せてもらっても良いかな?」
ビクッと月英は肩を揺らした。
隣で翔信も空気を硬直させている。チラチラと、月英に不安そうな視線を送っては、どうするつもりだと聞いている。
かつて、この目を見た者たちの反応の記憶がよみがえってきた。
しかし、向けられた彼の目を見れば、揶揄い目的の興味本位なお願いとは思えない。なにより、彼がそのようなことをする人間ではないと、月英はもう知っている。
月英は乱してあった前髪を軽く手で整え、そして額まで見えるように掻き上げた。
かつては罪の色とされていたが、確かに今では罪には問われない色であることは間違いない。それでも、宮中外で初めて目を露わにしたのだ。
口を真一文字に結んだ月英の顔には、緊張が滲んでいた。
「なるほど。異国融和策か……」
まじまじと月英の碧色を見た鄒央は、ありがとうと口元だけで笑う。
「青空みたいな、素敵な色だね」
伸びてきた鄒央の手が、月英の頭を柔らかく撫でていった。
「願わくは、その色のとおり君が自由に生きられることを」
「自由……」
月英は、願われた想いを身に刻み込むように何度も呟いた。
「僕も……願わくは、この国がたくさんの自由であふれることを」
《《彼》》ならきっと、皆が望む国をつくってくれるだろう。
そこに、少しでも自分の影があればと思う。
きっと目の色だけじゃない。
色んな違いで、独りの寂しさと苦しさにあえいでいる民はいる。
誰もが、何も隠すことなく、阻まれることなく、顔を上げて歩いていける国になればと願う。
そのために香療術が必要というのなら、どこへでも行こう。
それでもまだ足りないというなら、未知の地へと踏み出そう。
誰でも一歩目は恐ろしい。
だが、誰かが歩めばそれは標であり、多くのものが辿って歩けば路となり、いつしか消えない大道となる。
たとえ少しずつでも、歩むことをやめなければ必ず路はできるのだから。
振り返ったときに、路が自分の存在を証明してくれるはずだから。
だから碧玉の男装香療師は、今日も歩み続ける――。
三部まで読んでくださり、ありがとうございました!
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