終ー6 萬華宮
いつもとは違う、異質な状況だと気付きながらも、月英はどこかこの状況に安堵を感じていた。
もしかすると、燕明も同じなのかもしれない。
背をさする掌から伝わってくる彼の鼓動は、ゆっくりとして一定を保っている。
衣擦れの音だけが部屋に響いていた。
「月英、好きだよ」
前触れなく言われた言葉は何の気負いもなく、うっかりすると聞き流してしまいそうになるほどのさらりとしたものだった。
「はい、僕も好……」
だから、月英もうっかり挨拶を返すような感じで言葉を口にしかけたのだが、そこでつい先ほどの亞妃との一件を思い出す。
「その好きって、友愛と恋慕はどっちですか」
正直言うと、自分には友愛と恋慕の好きの違いは分からない。
そこで初めて、燕明の顔がゆるゆると上げられる。
「さあ……俺にもこの複雑な気持ちはよく分からん」
彼の顔は困っているようでもあって、笑っているようでもあって、そして少しばかり恥ずかしがっているようにも見えた。
「だから、その答えはどうか月英が見つけてくれ。これからきっと、お前は色々なことを経験していくだろう。その中で俺のこの感情にあう名を教えてくれ。お前が見つけた名を俺に付けてくれ」
「時間がかかるかもしれませんよ。僕、とっても鈍感らしいので」
渋るように燕明が笑った。
「承知の上だ。どうせ、この先もずっと一緒にいるんだからな」
「そうですね」
先のことは分からない。
もしかすると、今回のようなことがまた起こるかもしれない。宮中にいられなくなるかもしれない。
だけど、何があっても彼とは一緒にいそうな気がする。
「陛下、実は僕、さっき亞妃様に同じことを言われたんですよ」
「同じこと?」
「好きだって……」
「なな何だと!?」
クワッと燕明の目が見開かれる。
「だから、僕のこの身体の秘密もばらしちゃって……」
「それはまあ……亞妃ならば言いふらしたりはしないだろうし、大丈夫とは思うが」
「それでですね、そう言われたとき嬉しかったんですよ、本当に」
胸に手を当て、その時の感情を思い出せば、胸の内側がじんわりと温かくなる。キラキラしたものを抱いた時のような、喜びと感謝に心が跳ねる心地。
「でも、陛下に同じ言葉を言われた時は、ちょっと違ったんです。陛下の時は、何だか胸がギュッてして、ちょっぴり痛いような、でも嬉しいような……そんな不思議な感じだったんです」
みるみる燕明の目と口が開かれていく。黒耀の宝玉が今にもこぼれ落ちそうに、眼窩の中で揺らめいている。
「今はまだ分からないけど、この違いが分かったら一番に陛下に言いにきますね」
「……っああ、待っている。きっとそう遠くはなさそうだしな。いや……遠くてもいい。ずっと……ずっと待っているから」
いつの間にか腰に回されていた燕明の手は、胸にあった月英の両手を握っていた。指の一本一本が交互に絡み合い、彼の骨張った指の硬さが伝わってくる。痛くはないが、ほんの少し照れくさい。
突然、そのまま腕を引かれ、月英は燕明に覆い被さるようにして倒れ込んだ。
「――びっくりしたぁ……」
長椅子に片膝を乗せ、しがみつくようにして燕明の肩を掴み、ギリギリ押しつぶすのは回避する。
「もうっ! 危ないですよ、陛下」
月英は語気を強くして注意を飛ばすのだが、しかし、燕明は子供のように笑うばかり。
「月英、すっと一緒にいてくれ。俺はお前とずっと一緒にいたいんだ」
萬華国の至宝が見せた最大級の笑みに、すっかり月英も怒る気が失せてしまう。
「もうっ……本当、仕方ないですね」
多少のわざとらしい慍色を口元に乗せる月英。しかし、目の前で頬を染め、幸せそうな笑みをこうもずっと見せらたら、月英も笑いがうつるというもの。
フッと笑みが漏れれば、もう止まらなかった。
「これからもよろしくお願いします、燕明様!」
月英の万の花が咲いたように鮮やかな笑顔は、パッと周囲をも鮮やかに色づける。その万の花すら嫉妬する美しい光景に、燕明は目を細め「ああ」と頷く。
「お前は本当……良い香りがするな」
浅葱色の医官服に馴染んだ香りが、優しく二人を包んでいた。
ひとしきり笑った後、燕明は月英をひょいと抱え上げると、自分の隣に下ろした。
「さて、お前のお父様が首を長くして部屋の外で待っているだろうし……」
燕明がパンパンと二回手を打った途端、扉が爆ぜる勢いで開かれる。
「お待たせしましたー! 月英、ご飯ですよ! お腹空いているでしょう空いていますよね空いているに違いないので、たんと持ってきましたよー!」
飛び込んできたのはやはり藩季であり、彼の腕の中には『たんと』という言葉にふさわしい量の食べ物がこんもりと盛られていた。
二人が座る長椅子前の卓に広げ、藩季はこれも美味しい、あれも美味しいと、月英にどんどんと食べ物を押しつけていく。
「じゃあ、俺はこの粽でも……」
「え? 燕明様の分はありませんが?」
燕明の手から粽を光の速さで奪っていく藩季。次の瞬間には、その粽すら月英の手の上に乗せられている。
「お前……とうとう皇帝をないがしろに」
「前からですけど」
「……そうだった」
こいつはそういう奴だった、と燕明は頭を抱え嘆息した。別に何が何でも食べたいわけではないのだが、月英と一緒に食べるということがしたいのだ。
まあ、今回月英はたくさん苦労したし、好きなものを好きなだけ食べさせよう、と隣で栗鼠のように頬を膨らませている月英を見やると、突如目の前にズイッと薄紅色のものが差し出された。
「一緒に食べましょう」
それは、月英が割った桃饅頭の半分だった。
さらに月英は半分になった自分の桃饅頭をさらに半分に割り、藩季へと差し出す。
「皆で食べたらもっと美味しいですよ」
燕明と藩季は受け取った桃饅頭と月英とを見比べ、そして二人して顔を合わせると渋るようにして笑った。
卓の上にも周りにも薄紅色が広がった部屋を、窓から差し込む温かな夕影が照らし出していた。
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