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【書籍化】碧玉の男装香療師は、ふしぎな癒やし術で宮廷医官になりました。  作者: 巻村 螢
第三部 碧玉の男装香療師は、国を滅亡させる!?

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終ー5 燕明

 たった一週間ぶりだが、龍冠宮に足を踏み入れたのが随分と昔のように感じられる。


「久しぶりだな、月英」


 入室の許可を待って扉を開ければ、真っ先に宮の主から言葉が飛んできた。

 その言葉の白々しさに、月英は笑う。

 接見禁止令を破って二回も来たのは誰だったか。

 燕明は長椅子に腰を下ろしていた。


「おいで、月英」


 言われたとおり、月英は燕明の正面まで歩み寄る。少しばかり立っている月英の方が視線が高い。


「まずは皇帝として、香療術を守ってくれたことに礼を言う。危うくこの国から香療術が失われてしまうところだった」


 異国融和策の旗印である香療術がなくなれば、それは融和策の断念とも受け取られかねない。


「いえ、そのことに関しては、到底僕だけでは無理でしたから。皆の助けがあってこそでした」


 もし、燕明や李陶花が刑部に掛け合ってくれず、月英が牢屋に収監されたままであれば、今頃月英は裁かれていただろう。十中八九有罪と言われていたのだから。

 二人が掛け合ってくれ、翔信が監視役に手を上げてくれ、豪亮や万里や亞妃が香療術を継いでくれ、春廷と呂阡が知恵を貸してくれ、鄒央と張朱朱が手伝ってくれ、藩季が守ってくれ――様々な者たちがいてくれたからこそ、どうにか解決へと導くことができたまで。


「本当、感謝してもしきれなくて……僕には何も返せるものなんかないのに、どうしたら良いですかね」


 燕明の手が、身体の横にあった月英の手に伸びる。


「誰も、何かを期待して助けたわけじゃない。皆、月英だから力になりたいと手を差し出したんだ」


 燕明の左手が月英の右手をしっかりと握っていた。


「お前には人を変える力がある。香療術のように、お前に触れた者たちは、心に風を抱くんだ」

「風、ですか?」

「ああ、かくいう俺もその一人だ。目の前を暗くしていた帳でも、心に積もった汚泥でも、お前はあっという間に蹴散らしてくれる。見えなかったものが見えるようになり、心には希望が生まれる――と言っても、俺の感覚で言っているだけだから分かりにくいだろう」


 はは、と頬を掻きながら燕明は笑う。

 しかし、月英には彼の言わんとすることがよく理解できた。


「分かりますよ。だって、僕もそうだったから」


 月英も、見えなかったものを見えるようにしてもらい、心に希望を抱かせてもらえたのだから。


「それって、陛下が僕にしてくれたことですから」


 燕明の目が見開いた。丸い黒耀の宝玉がキラキラと輝きを増す。


「下民の僕を任官してくれて、果てには香療師っていう役職まで与えてくれました。この国で、僕がこうして前髪を上げて生きていける場所を用意してくれました。それがどれだけ僕に光を見せたか。僕に生きる意味を教えてくれたか」


 一年前の自分に言えるのならば言いたい――『大丈夫、悪いことは続かないから』と。『よく頑張ったね、その頑張りを見つけてくれる人が必ず現れるから』と。

 黒色の世界で、足元だけを見てきた自分に、空の青さを教えたい。


「陛下には国を変える力があります。だから、僕みたいな人をたくさん救ってほしいです。生きる場所も意味も失った人たちに、どうか光を見せてください」


 言い終わると同時に、月英は燕明の腕に抱かれていた。

 燕明の腕は月英の細腰にがっちりと回されてはいたが、立っている月英に対し燕明は座っているため、彼の顔は月英の腹部に埋もれている。


「……っ俺は誰かの……お前の光になれているのか……」


 腹部に燕明の額がくっつけられているため、彼の表情は見えない。

 まるで母親に抱きつく幼子のようだ。

 月英は燕明の丸くなった背をゆっくりと優しく撫でる。


「眩しすぎるくらいですよ。今回のことだって、どれだけ陛下に助けられたか。知ってます? 僕、陛下がいてくれるだけで安心するんですよ」


 疲れ果てて牢塔に戻ってきたとき、牢塔の中の寂しさに孤独を覚えたとき、彼がいてくれると不思議と心が安らいだ。


「陛下、不安ならもっと周囲に頼ってください」

「ははっ! それを月英に言われるか。お前こそもっと周りに頼ったら良いのにと、藩季と言っていたところだよ」

「これからは、僕ももっと周りに頼ろうと思います」


 皆、自分が思うより弱くはなかった。自分一人が寄りかかっても、けっして崩れない強さを持っていると知った。


「だから陛下も……抱え込まないでください。藩季様もいますし、頼りないかもしれないけど、僕もいますから」


 自分の倍はありそうな広い背中を、月英の小さな手が撫でる。ゆっくりと、円を描くように。

 そうしていると、月英の頭の中に一つの呪文が浮かぶ。

 それは遙か遠い記憶の中で、どちらの父親かもう分からないが、誰かにかけてもらった言葉。


「痛いの痛いの飛んでいけ」


 手の動きに合わせて呟かれた月英の言葉に、燕明が「ふはっ!」と噴き出した。


「ははは! 何だそれは! これではまるで俺が痛がって泣いている子のようではないか」


 燕明の笑い声はしばらく続いたが、その間月英は何も言わずただ背中をさすり続けた。


「……俺は……間違っていないだろうか……っ」

「間違ってると思ったら、全力で止めるから安心してください。卒倒するほどの臭い精油を作って差し上げますよ」


 抱きしめられたときから、燕明の顔は一度も上げられていない。それでも会話は何事もなく続けられる。




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